12月16日
戦没者なし
戦後物故者。
河口 浩 平成8年 12月16日 逝去
富尾 治郎の「河口 浩君を偲んで」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-kawaguti-tomio1.html
12月17日
戦没者なし
安井四郎治 平成21年 12月17日 逝去
上野君から来春1月4日の湘南なにわ会の出席予定者について次のメールを貰った。
『平成24年1月4日の湘南なにわ会の出欠を確認しておりましたが、下記の結果
となりました。内々予想していた数字を超え安堵しています。
記
@ 出席 22名(昨年25名)
相澤善一郎、足立喜次、池田武邦、市瀬文人、伊藤正敬、岩松重裕、
上野三郎、 浦本生、蔵元正浩、幸田正仁、後藤寛、左近允尚敏、椎原国康
新庄浩、中井末一、野崎貞雄、深尾秀文、松下太郎、豊広稔、宮田實、山下誠、
若松禄郎
A 欠席―体調不良の為 5名
草野家康、原田種睦、樋口直、矢田次夫、山田良彦
B 欠席―他用の為 1名
平野律朗
C 態度保留 1名
安藤昌彦』
戦没者 67年前 昭和19年
山本 勝雄(332空 戦闘機)
岩国から鳴尾基地に移動、着陸時失速、堕落殉職(雷電)
戦後物故者なし
77期会報 江田島94号を受領した。
77期は江田島でクラス会を5回行っていてその回顧録で始まっている。
次に66期のお元気な谷川先輩訪問記が2頁にわたって記載されている。
地区のクラス会の記事が多い。
最後の編集後記に次の記事があった。
『今年も葡萄の季節がきた。中学と兵学校の先輩である72期のKさんの葡萄にまつわる話を思い出す。Kさんは兵学校生徒時代帰省されて女房の家に挨拶に見えたとき、女房の母は季節物の葡萄をお出しした。義母はご近所の秀才Kさんを腕白時代から可愛がっていたらしいが、Kさんが召し上がった後の葡萄の皿を見て驚いた。葡萄の皮一枚一枚に種が綺麗に収められている。見事な兵学校生徒に変身されてすっかり感動した義母だが、この葡萄のマナーで最後のとどめを刺されたようだ。これを機に、義母は自分の娘は将来兵学校卒の方に嫁がせたいとまで決意したと言う。}
このKさん、昭和19年2月駆逐艦追手で内南洋方面作戦中戦死された都書いてあるが、2月17日戦死した衣笠 幸夫君の事である。
12月19日
戦没者 67年前 昭和19年
古宮 弘一・椋田 郁哉・森本 徹・大垣浩一郎(雲竜
空母)
マニラに向け重要物資の緊急輸送中、東支那海で敵潜の雷撃を受け沈没戦死
森野 広 様(73期)の「空母雲竜の最後」の記事 ↓ がある。http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-kuubounryuuosaigo-morino1.html
清水憲太郎 昭和55年 12月19日 逝去
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-simizukenntarou-ibuki1.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-simizukentarou-inaka1.html
東條 重道の「清水憲太郎君への弔辞」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-simizukentarou-toujyou1.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-simizukentarou-hamamoto1.html
江藤 雄三 平成9年 12月19日 逝去
槇原 秀夫の「江藤雄三君への弔辞」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-etou-makihara1.html
出口 勝己 平成21年 12月19日 逝去
12月20日
戦没者なし
戦後物故者
浜田 一郎 昭和62年 12月20日 逝去
富尾 治郎の「浜田一郎君を悼む」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-hamada-tomio.html
昨日、大塚 淳夫人からお手紙で知らせて頂いた大塚 淳君の逝去を掲載した。
12月21日
戦没者 67年前 昭和19年
久保 孝(千鳥 水雷艇) 御前崎沖で敵潜と交戦、雷撃を受け沈没戦死
戦後物故者なし。
74期訃報
関 厚 様(1学年16分隊) H23.11. 8逝去
戦没者なし
戦後物故者なし
秋山昇三郎 1985年12月22日 逝去
片山 勇の「秋山昇三郎君を偲んで」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-akiyamasyousaburou-katayama1.html
戦没者・戦後物故者ともになし
兵73期 会報第95号(H23. 12.25)
1 クラスの現状(23年10月31日現在)
現存者240名、戦没者282名、物故者379名、生存率26%
2 訃報
佐藤 久安様 H23.
3.11逝去 山口裕一郎様 H23. 6. 6逝去
中山 正輝様 H23.
7.24逝去 今村 敏美様 H23. 9.20逝去
3 記事としては、地方のクラス会の報告が多い。
73期会報2部頂いたので、ご希望の方に1部送ります。
12月24日
戦没者なし
戦後物故者
早崎 善範 平成16年 12月24日 逝去
HPをチェックしていたら、江田島でのクラス会が5回行われていた。その5回のクラス会の報告記事をHPのクラス会江田島に取り込んだ。
↓を見て下さい。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/kurasukai-edajima1.html
この中に樋口 直君が書いた報告記事に次の文章がある。
『そして参戦ニカ年/ 卒業時六二五名のわが戦友は二八九名をもって終戦を迎えた。三三六名名の期友を失ったのである。』
そして、銘牌の写真をチェックしたところ、カッター競技で力漕しゴールに入って櫂立てした直後斃れてそのまま亡くなった田村君が入っていた。従って戦没者は335名、終戦時の生存者は289名でなく290名が正しいと思う。
戦没者 67年前 昭和19年
朝稲三知也(戦308 戦闘機)
比島に出撃、比島ルソン島でB24を迎撃、これと交戦戦死(零戦)
レイテ島東方の敵輸送船団を攻撃後、消息を絶つ(天山)
戦後物故者
足立 之義 平成22年12月25日逝去
昨日書いた江田島の銘牌の写真を更に詳しくチェックチェックしたところ、伊藤教四郎と早川潤の2名が入っていて全部で338名になっている。
12月26日
戦没者無し。
戦後物故者。
坂田善一郎 昭和62年 12月26日 逝去
高松 道雄の「坂田善一郎君の遺骨を拾おうとは」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sakata-takamatu1.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sakata-nisio1.html
押本君は長年なにわ会ニュースの編集を担当されていた。
押本直正君の命日に当たって改めて長年のなにわ会ニュースの編集に尽力されたご努力に感謝し、ご冥福を祈ります。
足立 喜次の「押本直正君の思い出」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-osimoto-adati1.html
足立 喜次の「故押本直正君の三回忌法要」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-osimoto-adatiyositugu-houyou1.html
市瀬 文人の「押本兄と平家物語」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-osimoto-itinose1.html
山田 良彦の「空遥か」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-osimoto-yamada1.html
東條 重道の「描くことしか興味がないという押本直正君を横須賀共済病院に見舞う」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-osimoto-toujyou1.html
泉 五郎の「押本直正君のこと」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-osimoto-izumi1.html
伊藤 正敬の「押本直正君となにわ会ニュース」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-osimoto-itou1.html
藤田 直司の「押本直正君のこと」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-osimoto-fujita1.html
樋口 直の「押本直正君のこと」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-osimoto-higuti1.html
小西 愛明の「押本直正君のこと」の記事 ↓ がある
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-osimoto-konisi1.html
大谷 友之の「押本直正君のこと」の記事 ↓ がある
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-katou-osimoto-ootani1.html
安藤 満の「押本直正君のこと」の記事 ↓ がある
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-katou-osimoto-andou1.html
右近 恒二の「押本直正君のこと」の記事 ↓ がある
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-katou-osimoto-ukon1.html
70期 森田 禎介様の「押本直正君のこと」の記事 ↓ がある
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-katou-osimoto-morita.html
74期(43期飛行学生)松井 元一様の押本さんの思い出「」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-osimoto-matui1.html
74期 久保 陽様の「一通の手紙」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-osimoto-74kubo1.html
74期 小林 孝雄様の「押本さんを偲んで」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-osimoto-74kobayasi.html
横川 康春様の「卓越した編集長 押本直正さんの死を悼む」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-osimoto-yokogawa1.html
12月27日
戦没者 67年前 昭和19年
神 正也(201空
戦闘機)
スリガオ海峡強行偵察に発進後、消息を絶つ(零戦)
神 正也君の「水谷 潤君に出した手紙」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/iboku-jin-mizutani.html
戦後物故者
鬼山 茂樹 平成8年 12月27日 逝去
昨日平野芳徳君の訃報を流したが、亡くなったのは1月の事であった。
最近訃報が中々分らないので会員の実態がつかめなくなりがちである。
会員の訃報を入手した人は重複を厭わず、管理者伊藤正敬に知らせて頂きたい。
12月28日
戦没者無し
戦後物故者
坂元 正一 平成18年12月28日 逝去
坂元君は皇后さまをはじめ女性皇族方の産婦人科担当医を長年務めた東大名誉教授で、母子愛育会総合母子保健センター所長であった。
編集部の「巨星 墜つ 坂元正一会長 逝去さる」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/0-sakamotokiji1.html
岩松 重裕の「坂元 正一君を偲ぶ」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sakamoto-iwamatu1.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sakamoto-yamada1.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sakamoto-toujyou1.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sakamoto-hensyuubu1.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/0-sakamototuitou1.html
坂元 正一の「遺稿 回想(思い出の断片)」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sakamoto-kaisou1.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotukiroku-kikanka.html
戦没者 67年前 昭和19年
林 宏一(765空
艦攻燥)比島方面 サンホセの敵輸送船団攻撃に向い、消息を絶つ
戦後物故者無し
左近允尚敏君から呉水交(24年1月号)に投稿された志満 巌君の「海軍の思い出 禍福は糾える縄の如し」のコピーを送って貰った。志満君は中学時代から剣道に精出していた。7T期で入校、4号の時、剣道競技で3を抜いたがメダル獲得にはほど遠い成績であった。3号の時は頑張ってメダルを獲得しようと狙っていた。ところが、競技の日が近づいた頃、風邪をひき、突然39度近い熱が出て病室に入れられた。そして、競技の日の朝、「軍医官に熱は下がりました。大丈夫です。」と嘘を言って病室から出してもらい、剣道競技に参加、7人を抜いたが、その時教官の田中中尉が審判の教員(下士官)に「志満を休ませてやれ」と声をかけた。
審判の教員は「志満生徒、面をとって休む」と言った。この休むについて次の説明がついていた。
『生徒は准士官の下で下士官の上という地位が与えられています。教員は下士官なので、本来なら生徒に対して敬礼する立場ですが、同時に教官の補佐として生徒に教える立場でもあるので、校内に限り、起床から朝食迄の間は生徒の方から敬礼するよう定められていました。しかし、教員は下級者であることには間違いないので、命令口調を用いないのが普通でした。この場合でも、一般の試合であれば「面を取って暫く休め」という指示になるはずですが、「休め」を「休む」と言ったのはそのような事情からです。』
彼は審判の指示に従って少し休んでからさらに勝ち進んで11人を抜き、その次に敗れましたが、念願のメダルを獲得しました。
このほか、銃剣術競技のこと、父親への手紙のこと、1年間の自宅療養のこと、卒業式のこと、海兵団から海軍省人事局に直訴して八雲に乗ったこと等が書かれていて興味深く読める。
戦没者 67年前 昭和19年・
栗原 信也(呉竹 駆逐艦)
比島北方バシー海峡で船団護衛中、敵潜と交戦、被雷沈没戦死
曽我 清(801空
偵察)
台湾沖で敵機動部隊の来襲に備え、空中退避中、消息を絶つ(二式大艇)
戦後物故者なし
昨日書いた志満 巌君の記事、要旨をパソコンに取り込んだ。出来ればなにわ会だより第6号に掲載したい。
12月31日
戦没者・戦後物故者ともになし。
平成21年、年頭183名だった会員が15名を失い168名となり、
22年は14名を失って現在の会員は154名となり、
23年は16名を失って138名となっています。
平成20年までは1年間の逝去者は10名以下でした。やはり85歳を超え、高齢化したので逝去者が増えたのは、やむを得ないことだと思います。
なにわ会だよりも第5号を今年8月発行司tましたが、来年3月と9月の2回で終りとなります。
残念だけれども、会員の中には、体調不良で、寝たきりの者、入院生活の者、養老院や施設に入っていて行動ままならない者も多くなってきましたので、これが最終号とする潮時と考えました。
だだし、HPとブログは出来るだけ続けて行きます。
来年も健康に留意して元気に過ごして行きたいと思っています。