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平成22年5月5日 校正すみ

加藤孝二、押本直正兄を偲ぶ

70期 森田 禎介

加藤君は私の最も尊敬かつ信頼する戦友であります。戦況が傾いた昭和19年の夏から翌20年の春まで、ともに第5航空艦隊・141海軍航空隊・ 偵察第3飛行隊に所属して2人乗りの彗星の搭乗員として、敵艦隊の索敵・哨戒・偵察飛行を任務として戦いました。初陣の緒戦は、10月10日沖縄へ来襲した米艦隊を迎え撃った台湾沖航空戦、そして米艦隊の南下とともに南九州から台湾へ進出し、さらにフィリピンのニコラスフィールド(マニラ)を基地としてフィリピン沖航空戦に参加した次第です。戦いの現実はご承知のとおりで、圧倒的な敵戦闘機に制空権を奪われたなかでのまことにきびしいものでありました。 

10月25日 フィリピン沖海戦の日、黎明(れいめい)索敵から帰投した私は、マニラ南方のラグナ湖から市街地の屋根すれすれに飛行場に滑り込みました。 その直前まで敵機の銃撃にさらされていた指揮所から加藤君が滑走路まで飛び出して危急を知らせ懸命に誘導してくれたことが忘れられません。その日の午後だったと思いますが、基地内にある司令部の建物の前で思いがけない光景を目撃しました。異常な雰囲気のなかに数10人の飛行服姿の搭乗員が整列しており、なにごとならんとかけ寄れば、隊長として69期の熱血漢山田恭司氏、そして飛行学生時代仲のよかった71期団野功雄君と藤本勇君、さらに百里で顔見知りの機53期紅顔の近藤寿男君等の面々で、なんと体当たり攻撃隊の命名式ということではありませんか。私は強烈なショックを受けて、なんともいたたまれないような気持ちになり、悄然として早々にその場を離れましたが、この時の光景は今もなお私の心に悲しい思いとして焼きついております。後々その時の山田隊長の態度と挨拶が実に堂々として立派であったと加藤君はいつも回想しておりました。 

飛行学生を終えて勇躍着任された貴クラスの勇敢かつ優秀な諸君もつぎつぎに発進しては未帰還となられ、11月の半ばには稼()動機ゼロとなり、加藤君のペアーとわたしのペアーの2組4名だけが生き残り、キャビテ〜東港〜指宿と飛行艇に便乗して帰還、開門岳を再び仰ぎ見て感無量でありました。なお、生死をともにと誓った私のペアーは、機53期の小山力君でありましたが、20年の3月に私が74期の教官として霞ヶ浦へ転勤したため、木更津で今生の別れとなりました 

今も無念で申し訳ない気持ちです。

最近アフガン問題で、しきりにジハードという言葉を聞きますが、当時の我々にとってあの戦いこそはまさに聖戦であったと思っております。

この偵察第3飛行隊での激闘の数ヶ月の間に、加藤君と私の心に切つても切れないお互いの信頼の念が芽生えたように思います。

結局 2人は生き残る運命となりました。戦後の焼け野原の時代、私は故郷の九州から何度か上京しましたが、いつも横浜の伊勢佐木町にある加藤君のお店を訪ねては再会を喜び、横浜郊外にあった疎開先のお宅へ泊めていただいておりました。

加藤君は確か昭和27年頃結婚されたと記憶していますが、驚いたのは 新婚旅行の2晩目に当時名古屋に住んでいたわが家へ来訪宿泊されたことです。我が家といってもベニヤ板で囲んだバラックのあばら屋でささやかな夕飯で祝杯をあげました。天衣無縫の加藤君はシレッとして悠々たる風情でしたが、新婚旅行で掘っ立て小屋へ案内された花嫁の好子夫人の感想は果たしてどうだったのでしょうか。

昭和45年頃、私の娘が東京藝術大学在学中は加藤君に保証人になってもらいました。上野の近くで開かれた何回かのヴァイオリン演奏会には加藤君や押本君や貴クラスの有志の方々が激励に駆けつけていただき感謝しております。

押本氏からはその時、名句を頂戴した記憶があります。その娘や息子の結婚式にも加藤氏はご多忙のなか出席していただきました。加藤君の葬儀の日時には、私は遠隔の地に住むわが娘に 加藤君への感謝と哀悼の気持ちをこめて「葬送の曲」を演奏するように命じました

加藤君は信義にあつい方でありました 先年二人で静岡県三島にある前記小山君の墓参をした時、小山君が散華された奄美の喜界が島の海を訪ねようではないかと約束したことがありました。 しかし結局、私は所用で失礼するはめになり、加藤夫妻のみ喜界が島へ赴き 島の南端の岬から小山君の終焉(えん)の海へ向かって敬虔(けん)な祈りを捧げていただいたと聞きました。

ゴルフも何回か一緒にプレイしました。富士山のほうのコースにも案内していただきました、私は70歳で仕事から離れましたが、これから大いにゴルフを楽しもうと話し合っていた時に 思いがけなく加藤君が予期せぬ体調になられたことがかえすがえすも残念でなりません。

加藤君はその生一本の性格を生涯通じて貫かれたように思います。若い頃から自分の所信や考えは、航空隊の司令であろうが飛行隊長であろうがいささかも躊躇(ちゅうちょ)することなくはっきりと物申す方でありました。また戦後の飛行隊の生き残りの慰霊の集いには、誠心誠意常に率先され、その竹を割ったような明朗にして純情な人柄は、戦中戦後を通じて学徒出陣の方にも予科練の方にもすべての戦友諸君から本当に深く信頼され敬愛され慕われた次第であります。

加藤君と私は実によく気持ちが通じあいました。なにごともざっくばらんに本音で話しあうことが出来る仲でした。加藤君は気風の良い江戸っ子タイプで人一倍正義感が強く曲がったことが嫌いな性格でした。私も九州育ちの単細胞の早とちりタイプですから、おかしな事件や世相には2人でよく憤慨しあったものです。伊勢佐木町の目抜き通りにあった加藤君のお店や辻堂のお宅には、上京のつどご厄介になりました。加藤家へ泊まった時は、2人でいつも一緒にお風呂に入っておりました。 50歳の頃も60歳になってもどうしても加藤君が私の背中を流すと言ってききません。そして私のような到らぬ不肖な男を、いつまでも60年前と変わりなく「分隊長 分隊長」と親しみをこめて呼んでくれました。私にとってはほんとうに嬉しいことでありました。

 

ここまで記してきた時、貴クラスの杉田さんからの電話で、押本氏急逝の悲報を聞きました。昨年加藤君、今年は押本君とかけがえのないよき友の急逝にがっくりと落胆しております。

押本君とは74期飛行学生の教官として霞ヶ浦において一緒で親しくなりました。その飛行学生の会は、戦後数10年間、毎年4月の桜の頃、靖国神社の近くで盛大に行われております。

飛行学生諸君には戦後社会的に大活躍した人材が多く、押本教官は毎年出席され、今日もなお信望尊敬の念あついものありと拝察しております。

 かつて押本君が名古屋に単身赴任されていた時代があり、その時はしばしば会食して旧交を温めることが出来ました。お互いに教官配置になったために、生命を拾ったという共通の負い目を語りあったこともありました。懐かしい思い出です。

押本君は なにごとにも熱心に取り組む方でありました。文筆や詩歌には卓越した才能を感じておりました このたびの早逝を惜しみ残念でなりません。

貴クラスの会誌である「なにわ会ニュース」は最初から拝読しておりますが、編集長であった加藤氏や押本氏の若くして散華されたクラスメートを思う気持ちにはしばしば感涙にむせびました。両氏の積年の献身的ご尽力に対し私も愛読者の一人として心から敬意を表するものであります。

加藤君の通夜と葬儀には私も出席させていただきましたが、貴クラス関東在住のほとんど全員の方がお集まりのように拝察し、正直驚きでありました 加藤君も押本君も確かに立派でありましたが、72期の方々も実に立派であると頭の下がる思いがした次第であります。

 私は近頃 オールドブラックジョーの一節「若き日はや夢と過ぎ わが友みな世を去りて……」の歌を口ずさむことがしばしばです。

謹んで加藤君と押本君のご冥福をお祈り申し上げます

 (なにわ会ニュース86号48頁 平成13年3月掲載)

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