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平成22年5月5日 校正すみ

描くことしか興味がないという
本直正君を横須賀共済病院に見舞う

東條 重道

12月4日に見舞いに行った。顔色もよく、言葉もしっかり平素と変わりない元気でほっとした。奥様が付き添っておられてお世話されている。

励ます気持ちもあって自分の声の大きさに気付くほど声を張り上げて1時間近くもしゃべった。ついつい海軍時代の思い出話になる。

 

『百里の時は(艦爆飛行学生の時代)よく袋田にいつたなぁ。貴様も行ったか?』

『毎週行ったよ。あそこは「S」はいなかつたなあ』 

『最近行って見たがすっかり様子が変わっていて昔が思い出せなくて』

 『岩村はいつ霞空へいったの?』

 『宮内(六十六期)さんと一緒?』

 『岩村は99で殉職したの?』 

『彗星の空輸で。』 

『三沢で二人して通夜したな。』
 
『奥さん、北海道へ御一緒したでしたかねぇ』 

『いや鬼怒川でしたよ。』

『大山氏と君の関係はどうなの?』 

『ああ奥さんの絵の先生の』
 

『彼、私の従兄弟の子供だよ。』 

『来年の年賀状書くのを止めるよ。』 

『無理することないよ。』

『本当は毎年貴様の日本画の賀状は楽しみなのだがねぇ。』

 

 思い出話に花が咲き 尽きぬ話題に時のたつのも忘れておしゃべりしてしまつた。見舞いに来たことを思いだして、長居をしたことを謝し、一日も早い回復退院を祈りながら退散した次第。とにかく元気でよかった。

 

 なにわ会誌の長年の編集業務に感謝して文集を作るという。何か投稿せよとの事。同じ「クラス」でも艦爆仲間 ひとつ釜の飯を食った仲、殊更口にする言葉もなく、さてどうする。

 『長い間ご苦労さんでした』の一言でOKにしてもらおう!!

 要望には添えぬが思い出すままに  

 

(1)押本君の故郷九州宇佐でのこと

 艦爆学生卒業時私の勤務配置が“「宇佐空付兼教官」となった。安藤少尉(押本君の旧姓)から『宇佐空の近くにクラスの池田誠治君の遺族がいる。何かと力になってやって欲しい。頼む』といわれ 『OK 承知』 

19年8月宇佐空着任後すぐ池田誠治君のご遺族を同じ艦爆の深井良君と訪ねた。葬儀もすべて済み、お手伝いのことはない。誠治君の写真の引き伸ばしを頼みたいとのこと。それ以外のことでお世話したことはない。反対に母上に我が子同様の処遇を受けることとなった。われわれだけではなく、江田島の生徒クラブにならった飛行練習生のクラブになって頂いた。練習生たちは母親に甘えるように、休み毎にのびのび手足を伸ばして普段の鬱憤(うっぷん)を晴らしていた。

 20年3月沖縄特攻にクラスの野中繁男が宇佐空を飛び立つ日、飛行場に見送りに来てくれた。野中と別れの挨拶した後、小母さんの目には涙が一杯だったのが未だに目に浮かぶ。

 御世話セヨと頼まれながらかえつてお世話になりっぱなしで恐縮至極である。

私ごとだが、私が宇佐時代に結婚して航空隊の近くに居を構えた。戦時下誰一人知る人もない田舎で、妻の頼れる唯一の民間人だった池田の小母さんは、どんなに頼もしい人だったか想像出来よう。戦後も何かとお世話になり小母さんにすればあつかましいドラ息子だったろう。

押本君の一言が尾を引いて、私が宇佐空を去った後、溝井君以下幾人かの72期生が池田さん一家に可愛がられた由。こんなご厚誼(こうぎ)を頂けた発端は押本君の『力を貸してやつてくれ』の一言からであつた。

 

(2)押本君との同期の桜、感慨にひたった三沢基地での岩村君の通夜

昭和20年7月31日青森県三沢基地でのこと。岩村舒夫君が第2千歳基地で殉職して、その遺骨を宮崎の遺族に届ける途中、今夜三沢基地に一泊するとの知らせを聞き、驚いて基地本部に行って見た。

 岩村君は江田島入校から1年間、机を並べ、ベッドを接した仲。飛行学生の1年も同じ艦爆コースで同期中最も近い仲、休日の殆どの行動もペアで過ごした一心同体の仲だった。つい1ヶ月前に私が724空配属になり、百里空で分かれたばかり。なんで殉職したかと不思議に思いつつ三沢基地の霊安室にかけつけた。祭壇の前に一人,没我の海軍大尉が座っていた。安藤大尉だった。「どうした」ですべてが通じる。「彗星でエンジンストツプ 滑りこめずにえん体壕に足をひっかけて転覆即死」という。「なんで!! なんで!」  
  

 無念がしばし止まらず。白い小箱をにらみつけていた。残念だったろう 無念だったろう 敵空母へ突入だったら“本懐”と喜べたろうに。他部隊のこと、会葬者もなく二人で通夜した。綿々と思い出話に夜が明けて、安藤大尉に遺骨をお願いして8月1日の724空開隊式にかけつけた。伊東司令は訓示して曰く

『724空はわが国初のジェツト機橘花をもつてする特攻部隊である。第1段は橘花をもつてする航空攻撃、第2段は整備員、第3段は司令以下残り全員』

私は「死地を得た」と思った。そしてつぶやいた。「岩村一緒につれもっていこうなぁ」と。

これ以後安藤君とは海軍では接触はなかった。

(なにわ会ニュース86号42頁 平成14年3月掲載)

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