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平成22年5月5日 校正すみ

押本さんの思い出

74期(43期飛行学生)松井 元一

押本さんの告別式の翌日、私の三号54分隊の一号生徒の大谷さんから教えて頂くまで、押本さんは6部の一号と思っておりました。それ程、押本さんは私には、近い人でした。

74期の一部が昭和19年12月10日、霞ヶ浦に派遣され、私は2飛行隊4分隊に配置されました。押本さん、当時の安藤中尉は2飛行隊で唯一の72期だったと思います。当時、学生の指導官は71期が中心で、霞ヶ浦到着と同時に兵学校の一号から三号に逆戻りしたような思いをしました。本来の一号である安藤中尉は張り切らざるを得ないわけで、「アンチュウ」「アンチュウ」とこわい存在でした。

私の後席に乗った教官は、兵曹長、特務少尉、続いて予備学生出身の少尉でしたが、ある時、どういうことかは分かりませんが、安藤中尉が後席に乗り、宙返りを命ぜられました。筑波山ヨーソロで操縦桿を引いたのですが、終わってみたら、筑波山はとんでもない方向にあります。勿論後席からは一喝。「手を離せ。宙返りは簡単なのだ。」と建て続けに3回程くるり、くるりと宙返り。起き上がると筑波山は真正面にありました。

20年5月に千歳に移り、練習機教程が終わって、私は艦爆を志願し、美幌に参りました。安藤さんは艦爆ですから美幌に来られたと思うのですが、私の後席は71期の佐藤(百)さんで、席に着いてから着陸まで、休み無く怒鳴りまくられたのが、余りに印象深く、安藤さんの記憶ははっきりしません。72期では坂元さんが髪につけるポマードの代わりに、バターを塗ると話されたのが妙に記憶に残っています。

戦後どのようなきっかけで押本さんとお目にかかるようになったかはよく覚えていません。74期のゴルフ会ヨーソロ会には始めの頃はよく参加していましたので、そこでお会いしたのか、或いは昭和40年代前半、当時海幕の広報にいた佐々木郁郎と飛行学生の会を作り、そこにお誘いしたのかと思います。何れにしろ、安藤さんは既に押本さんになっていました。

私のメモを見ますと、昭和55年5月15日に、土浦の錦水に行った旨の記載があります。これは多分、押本さんから、エスがまだ健在なのだと言うことで、誘われて行ったのだと思います。飛行学生が何名か同行しましたが、誰々かは覚えていません。そこは、生徒だった時代は立ち入り禁止だった地域でした。しかし、20年2月に鹿島空から索敵に出て帰らなかった石川中尉にそれとは知らずに連れて行かれたことがありました。

74期の卒業50周年記念クラス会が平成7年広島と江田島であり、コロンビア5人会の一人、安藤まり子さんが歌いましたが、その後彼女は飛行学生の会に参加するようになりました。実は安藤さんは美幌時代私ども何人かが遊びに行った北見の天恵寺の娘さんで、私の家の近くの武蔵野音楽学校の卒業生です。押本さんは教官の知らないうちに、学生は隅におけないと苦情を申されました。3、4年前のことです。平成12年に「知床の旅と安藤まり子ディナーショウ」が企画され、押本さんにもご案内しましたが、あの地方は最近行ったばかりだからと辞退され、結局佐藤百太郎教官が参加されました。

平成13年4月7日、半蔵門のふくおか会館での43期、44期飛行学生の会でお目にかかったのが最後となりました。

心から御冥福をお祈りします。

(なにわ会ニュース86号57頁 平成14年3月掲載)

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