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平成22年5月7日 校正すみ

故坂元正一君関連の記事

編集部

皇后さまをはじめ女性皇族方の産婦人科担当医を長年務めた東大名誉教授で、母子愛育会総合母子保健センター所長の坂元正一氏が昨年1228日午後1112分、悪性リンパ腫のため東京都文京区の東大病院で死去していたことが4日分かった。82歳だった。葬儀・告別式は近親者のみで営む。喪主は長男、正人(まさと)氏。

 

 東大医学部時代に、皇后さま(当時は皇太子妃)による皇太子さま、秋篠宮さま、紀宮さま(現黒田清子さん)のご出産に携わった。

 昭和61年3月から平成13年3月までは宮内庁御用掛として、皇太子妃雅子さまの1回目のご懐妊への対応にあたったほか、秋篠宮妃紀子さまの眞子さまご出産時は主治医を、佳子さまご出産では医師団顧問を務めた。

 御用掛を退任した後も、医師団の顧問として敬宮愛子さまと昨年9月の悠仁さまご出産にかかわった。

 また日本産婦人科医会の会長も歴任した。

日産婦医会報(2月号)トップ頁の記事

巨星 墜つ   坂元正一会長 逝去さる

謹んで日本産婦人科医会会員各位にお知らせいたします。

本会、坂元正一会長は、平成1812282312分に逝去されました(享年82)。先生のご冥福をお祈りします。

日産婦医会報(3月号)

故坂元正一先生の別れの会特集として22名の方が思い出を書いておられる。

日本産婦人科医会主催の故坂元正一先生お別れの会

2月4日新宿の京王ブラザホテルで行なわれ、なにわ会からは旭 輝雄、泉五郎、伊藤正敬、岩松重裕、上野三郎、山田良彦の諸君が参加した。総勢900名と思われる参加者で盛大に行なわれたので、他にも参列者があったかもしれない。会は日本産婦人科医会 会長代行の清川尚氏の告別の辞で始まり、そのあと、愛育病院院長の中林正雄氏と東京大学医学部産婦人科教授の武谷雄二氏の弔辞と続き、その後参会者の献花が行なわれた。

 

皇室の出産支え四十年

秋篠宮紀子さまが悠仁さまを出産された昨年9月6日。夜になって主治医の中林正雄・愛育病院長が東京・世田谷の自宅を訪ねると、手をとって「良かった」と喜んだ。

前置胎盤による帝王切開。日に日に緊張が増す医師団を顧問として支えてきたが、当日はすべて任せて自宅に待機していた。

宮内庁御用掛だった東大教授の下で講師のころから皇后さまのお産に携わった。1965年に秋篠宮さま、69年には黒田清子さんをとりあげ、86年には皇后さまの子宮筋腫(きんしゅ)の手術を担当、紀子さまが91年眞子さまを出産された時は主治医、94年佳子さまの時は顧問としてかかわった。

皇后さまの手術前、昭和天皇に呼ばれて「ご苦労様だがよろしく頼む」と声をかけられた。その思い出を「自分の嫁のことをよろしく頼む親の態度そのもの、緊張したお顔とお言葉であった。」と書き記している。

絵は、玄人はだし、誕生間もない秋篠宮さまや眞子さまを描いたデッサンの筆致は優しく、誠実な人柄に皇后さまの信頼は厚かった。御用掛を辞めた後もホームドクターのような存在で、40歳が近づいた紀子さまに「3人目をお考えならそろそろ」とやんわり促したのもこの人だった。

祖父、父と3代続けて東大医学部に学んだ産婦人科医。最初から医師を志した訳ではなく、海軍兵学校に進んで飛行機乗りとなり、霞ヶ浦航空隊の分隊長として終戦を迎えた。出撃する特攻兵を決める任務。長男の正人さん(53)は「二度としたくない」という父の言葉を覚えている。

「手術の名手」と言われたが、人一倍研鑽(けんさん)を積んだ努力家だった。東大紛争直後の70年8月、講師から助教授を飛び越えて教授に、臨床に力を注ぎ、平等な人事を心がけた

誰もが認める業績は、産科と小児科で総合的な診察体制を組む「周産期医療」を広めたことだ。84年に東京女子医大教授に転じ、国内で初めて実践した。

(なにわ会ニュース97号35頁 平成19年9月掲載)


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