平成22年5月7日 校正すみ
坂元君を偲んで
東條 重道
昨18年末、坂元君の他界を知らされた。翌元日には坂元君の賀状が例年どおり届いた。平穏な御最後だったんだと安心したのだが。人は死ぬ。誰もが。平穏に死にたいもの。静かに合掌した。思いでるままに追想したい。
1 艦爆学生の仲間
坂元君との親交は百里基地での艦爆学生から始まった。35名の艦爆学生の学生長で小言を言うわけでもなく、指導するような言動は何もない。ただ兄貴風で率先実行型、だが期友は、皆彼の後についてニコニコ楽しい課程を過ごした。
艦爆課程は特殊飛行訓練以下いろいろの訓練科目はあつたが、本命訓練はやはり急降下爆撃だ。これには汗を掻く。(会誌7号押本君の艦爆戦記その2参照)。
降下角度50度といえばマッ逆さまの感じ、前席学生は目標と軸線を維持する(飛行機を滑らせないで目標に直進させる)のに必死、後席学生は周囲の見張りと高度計の指針の移動に神経集中。3000M―2500―2000―1500―1000M・700・用意(500Mの発声の余裕はない)「てッ」と呼称するだけだが。
1秒の勘違いが命取り。初心者には必死。高度計250m以下まで降下すると機首は水平に引き起こし得ても、機体は沈下して海面に激突四散。遺体もわからなくなる。前席学生は照準合せに必死、後席学生は高度計読みに神経ピリピリ。降爆訓練はこの一瞬の技量習得である。一瞬の錯誤は2人の命取り。
飛行場に帰えると、66期の薬師寺大尉隊長(一号69期の一号)の叱正が今も耳に残る。降下角度が浅い、左に滑っている、引き起こしが早い・・・ ギザ×2=1円の罰金が待つ。
艦爆学生は、降爆訓練のこの真剣な相互信頼の過程を潜り抜けたことが、特異な結束につながったのだろうと私は思う。そしてそれが以後の艦爆会へと繋がる。卒業時鬼隊長が「よくやった」と珍しく褒めてくれた。坂元学生長の周りに皆が集まり「よかったなあ」と顔を見あった印象が残る。
2 特攻攻撃の時代
卒業後初の部隊配置は、坂元君は百里空教官で居座り、私は宇佐空教官。7ヶ月後、第10航空艦隊に共に編入、間もなく練習航空隊は解散。教官は百里空に集合となり、私が移動して、百里空付きとなったので坂元君と再会―やあやあで旧交を温めた。
間もなく坂元君は霞ヶ浦航空隊に転勤、私は724空橘花特攻隊へと別れ、共に特攻攻撃命令を待つだけになった。
坂元君は分隊長に補され、ロケット戦闘機の乗員訓練計画の立案、赤トンボ練習機の搭載爆弾、松根油の使用可能性の研究のほか、九州基地での特攻攻撃の指導等切羽詰った局面を担当したようだ。間もなく終戦。海軍での生死放浪、部下隊員の特攻出撃者選定、出撃指導という鬼神の責め苦に等しい勤務が終わった。
彼は昼夜の長旅で神戸に着いたが、自宅の病院は焼け、両親の所在すらも分らず、全てを失った。
「よーし ゼロからのやり直しだ」と覚悟したという。
3 艦爆会
艦爆学生課程卒業35名は、前線部隊、教育部隊に分かれたが、どちらに進んだ者も特攻攻撃に参加して63%が散華。―敗戦。艦爆乗り13名が生き残つたに過ぎない。おのずと艦爆会として集まるようになる。 次々と事情は変つたが艦爆会で顔を合わせば、その場は飛行場の艦爆隊指揮所前に早代わり。「オス」の一声で艦爆学生に変わった。坂元大教授先生も学生長になっていた。
艦爆会は世界を駆け回る坂元君の参加可能日に開催することで、在京の全員が参加した。全員が特攻に参画しただけに、特攻が話題の中心だったが、学生舎に戻った気分で、時に産婦人科の大先生をヘルダンに巻き込んだりもした。
伊佐君が世話役で平成14年3月坂元君の勲2等瑞宝章の授章を祝賀して開かれたのが最後となった。この記事が会誌87号に「第41期艦爆会」として載せられている。
彼も『世界の産婦人科学会の全て4つの会長をやったよ』『産科と小児科が一緒になつて』『どの国の美術館で』と面白く話してくれた。誰もが自分がやったような嬉しい気持で聞いた。有り難う。ようやってくれたと自分がやったように誇らしかった。会誌87号の中の「坂元正一談」が72期全員に書き残してくれた最後のものとなったのではないかと思う。伊佐君が私に「俺は耳が遠く坂元君の話を聞き取れないところもあるので貴様書いてくれないか」と頼まれ、私がその部分の原稿を書いた。坂元君に修正をと頼んだところ、坂元君自身が書き直してくれた。
我等の代表が、日本に、世界に誇れる大きな、大きな仕事をしてくれた。俺たち、共に戦った艦爆乗り。彼の業績は自分の生き甲斐のように誇らしい。
病院の自室に【坂元大尉機】と書いた彗星艦爆機の模型を終生飾って特攻精神を持ち続け、艦爆会に時間を割いて、72期生であったことを誇りにしてくれていた事、ほんとに嬉しく思います。
4 医学者の坂元君
復員、買出しの列車で拾った新聞で、大学に進むことが出来ることを知り、弟の宿先から弟の残した教科書を持ち帰り勉強をした。大阪に出来た大学受験講座に坂元君も私も参加した。2ヵ月くらい共に勉強した。その頃か、坂元君がクラスメイトの幾人かと私の家を訪ねてくれた。愚妻は今も思い出すという。
神戸の有名産婦人科病院の3代目がなぜ回り道をしてしまったのか。坂元君が祖父からの婦人科医の長男として生まれながら、なぜ海軍に入ったのか。神戸一中の記念誌に投稿しているようだが、観艦式を2度も見て、近くの川西航空機の97大艇の試験飛行の轟音を先生と共に仰ぎ見、川崎・三菱造船所での母艦、大型客船の空母への改造を望見、沖を行き交う汽船群等々少年の海への憧れは時代の流れから戦争への使命感で海兵に進んだのだろう。「人生25年、ならば若くして国に尽くさねば」と海兵を受験したという。
島津藩領の都城基地司令だった曽祖父が明治維新後農民のために水路開発工事に専念、成し遂げたときには一家は無一文になっていた。村には神社が立てられたそうだ。農民の辛苦を見かねて、捧げ尽くした曽祖父の献身奉公の精神が坂元家の血筋の基底に流れているのだろう。
祖父は苦学して東京大学産婦人科を卒業、産婦人科医として献身、慕う人々が安産の神様として神社に祭ってくれた赤髯の一人。東大出身の父を養子に迎え、長男坂元君が有名病院の3代目を継ぐであろうと誰もが思っていたであろう。時代の流れの中にひしひしと迫る国難に立ち向かおうと曽祖父からの坂元家の「献身の血潮」が滾ったのではなかろうか。
特攻戦闘時代の想像外の体験だけを残して、戦破れ【生き残った付け足しの人生】の再出発を決意し、「“やってもみんで、なんで生き甲斐がわかるか」と厳父に一喝され、産婦人科医としての再出発を決めたようだ。
東京大学医学部に入学して間もなく左翼系学生から軍出身者集まれと呼び出され、集団リンチに遭わんとした時、海軍の大先輩学生が一喝して事なきを得た話(なにわ会誌87号参照)のように何かと厳しい学生生活であった。そんな中に学内にあった絵を書くクラブ「踏朱会」を再興して得意の絵の趣味を磨いたようだ。坂元君らしい余裕の学生生活を過ごした。
医学については門外漢の私には語るものはない。が彼の早い出世の模様だけを、知っているだけ書いておく。
昭和21年 東大入学
昭和25年 同 卒業
昭和28年 同 助手
昭和31年 東京中央病院 医長
昭和32年 医学博士
昭和38年 東大講師
昭和45年 同 教授(助教授を飛び越えて)
東大産婦人科主任教授
昭和55年 日母ME委員長
昭和59年 東大退官、 東大名誉教授
昭和59年 東京女子医科大学
母子総合医療センター所長
昭和59年 埼玉医科大学
総合医療センター所長(初代)
昭和61年 宮内庁御用掛拝命
平成元年 恩賜財団母子愛育会
総合母子保健センター所長
産婦人科医として名声をはせ、手術の名手と讃えられた坂元君が産婦人科医師として手がけられたこと、就かれた要職は知る由も無い。出身、人柄といい、学歴、職歴、技術といい申し分ないところから皇族方の御用の産婦人科医として宮内庁御用掛を拝命した。秋篠宮、黒田清子様、真子様をお取り上げ、皇后様の婦人科主治医として手術執刀するなど、皇室御用に務めたことはつとに有名である。
彼の博士号取得論文が新進医学者の重要な教材として活用されていたと聞く。東大でも、女子医科大学でもその退職に当たり諸先生が坂元君の業績を顕彰すべく記念誌の出版を願い出たが拒否された由で、その業績は顕著なものだったようだ。
私の姪が婦人科の診断をお願いしたいがというので、東大病院に電話して指示とおり受診したが、当時産婦人科部長だった坂元君の直接の手術をうけ、病室全員の手厚い取り扱いに驚嘆、『伯父さんは随分偉い人なんだねえ、電話しただけだというのに』といたく尊敬された。彼のせいで親族の私に対する評価がずいぶん見直された。
暫く年賀状くらいで交流が途絶えていたが、私が大阪での仕事を終え川越に帰った時(1988年9月)、彼は川越の埼玉医科大学川越医療センター所長として、川越市の医療主任的存在だった。私が坂元君と面談治療をお願いして内科部長(糖尿と心臓の2人)に紹介され、長くお世話になった。
坂元君は幾枚かの名刺に「親友東條君をよろしく」と書いてどの科でも受けたらいいよと渡してくれた。別に1枚、自分の名刺の肩書きに『宮内庁御用掛』と書き加えた。皇室の御用を承る光栄を私にもくれた。
坂元君は埼玉医科大学医療センター初代所長として埼玉西部の医療中枢病院の設立に尽力、各課に名医の医長を集め、埼玉県医療を支えて25年後の今も埼玉医療を支えている。
5 母と子を支えて世界を啓蒙
世界の人々を幸せに、人類の発展に大きく寄与してくれた坂元君を誇らしく思い、実体を知る由もないままほんの一部を書きとめておきたい。
1968年 第1回ヨーロッパ周産期学会参加 ドイツ
1975年〜1984年 周産期管理委員会委員長
1980年 日母ME委員会委員長
1983年 日本周産期学界
シンポジュウム設立
1989年 恩賜財団母子愛育会
総合母子保険センター所長
日本産婦人科医師会会長
1991年第一回国際周産期学会会長(同総会を東京で開催)
2000年 國際母性新生児促進
連合会会長
2001年 母子保健推進会議会長
東大退官以降の産婦人科活動状況はわれわれには知る由もない。
坂元君を窺える文集の一冊
【折りにふれて 人とわたし
坂元正一 随筆集】
【贈呈 東京女子医科大学母子総合医療センター 一同 坂元正一前所長】
という290頁に及ぶ書籍が手元にある。
多数の彼を慕う方々が書かれた学術図書等に坂元君が寄せた巻頭文とか、投稿した随筆とかを一冊に集めた物である。東京総合医療センターの退職記念にと若い先生方が強くお願いして皆さんで集め、坂元君が監修して印刷し、関係者に贈呈された物らしい。私は坂元君から頂いた。
第1章赤ちゃん、お母さんから第7章 周産期医療のあゆみ まで 医学は勿論絵画のこと、人情のこと等の短文に思いのままをつづった随筆集。坂元君の人となりを知るうえで貴重な書籍である。この彼の記述を中心にして坂元君を見つめてみたい。
坂元君は一人の産婦人科医としての業績よりも胎児から出産、幼児にいたる全ての分野で医師は如何に協力し、政治は如何に対処すべきか、全人類が如何に子孫を育てるべきか、少子化対策を、産婦人科医師助産婦の養成等強く参画対応した医師である。このことを知る者は少ないのではないかと思う。
余り聞きなれない言葉ではあるが【周産期医療】を発展させるために生涯をかけたと言えるのではないか。産婦人科医だけでなく、小児科医も協力して胎児を護り安全に出産させ、健康に育て立派な成人を送り出す。その出発点の医療に全てを賭けていたのだ。懐妊の問題から、胎児の発育、胎教、母体の保護、出産そしてえい児の発育と人の出生に関わる諸問題に医師としての全てに賭けていたのではないかと思う。やがて世界の関係者から嘱望されて世界学会を発足することになる。
1991年(平成3年)11月5日第1回国際周産期学会が世界44ヶ国から1580名も出席、演題500題以上という前代未聞の世界大会を東京で開催した。坂元君が全てを手配し、主催した。
天皇皇后両陛下を先導して大会に臨んだ坂元君の名誉たる想像の出来ないものである。嘗て御名代の宮から短剣を頂いた時の感激なぞ比すべきも無かろう。
陛下が述べられたお言葉の最後の
【こうした情報を現実に交換し人としての絆の中から協力のあり方を模索することが出来るという意味でこの国際学会は一つのマイルストーンになるでしょう。実りある成果を期待します。】と。
坂元君の名誉たるや躍如。
産婦人科医としての同学会での活動は他にも沢山あろうが、私には知る由も無い。
学会を代表して、医薬のこと、婦人科医、助産婦養成のこと、少子化対策等政治、行政への折衝、陳情は15年7月手術後も倦むことはなかったという。
世界学会への出席者から「We need you」と言われて取り囲まれた学者が他にあっただろうか?この不出世の大学者が我々の親友であったことを心から誇らしく思う。
東大の踏朱会を「再興し、自分の人生の一部とまで愛し、」そして世界中の美術館を鑑賞して・・磨いた彼の絵の特技は長く秋篠宮家のお居間に光彩をとどめることでしょう。
世界の人々を幸せに、人類の発展に大きく寄与してくれた期友、誇らしく偲びつつ ひたすらご冥福をお祈りします。