平成22年4月16日 校正すみ
空母雲竜の最後
(73期)森野 広
雲竜はミッドウエー海戦で沈んだ飛竜、蒼竜を更に改良したアイランド型の艦橋を持つ24,000屯の正規空母であった。最大戦速36節、同型艦として天城、葛城があり、後に3隻で第3艦隊第1航空戦隊を編成した。比島沖海戦で瑞鶴始め他の空母が沈んだ後は帝国海軍最後の機動部隊主力であった。9月東京湾を出航、瀬戸内海西部に移動、連日猛訓練に励んだ。(但し既に搭載機、搭乗員なし)
雲竜最後の状況を戦闘詳報の一部を挿入しながら記す。
形勢・・・昭和19年8月頃ヨリ東支部海ニオケル敵潜水艦ノ跳梁ハ執拗ヲ極メ、船舶ノ被害少カラザル情況ニ在リ。軍艦雲竜ハ「マニラ」方面緊急輸送ノ重大任務ヲモッテ、雲竜艦長指揮ノ下ニ駆逐艦、時雨、檜、樅ヲ率イ12月17日朝、呉出撃、下関海峡、朝鮮南岸、支那沿岸ノ航路ヲ「マニラ」ニ向ケ南下中ナリ。敵潜水艦ノ制圧攻撃ニ閑シテハ第52駆逐隊司令ノ命令ニ依リ、他ハ雲竜艦長ノ命令ニ依ル事ニ定メラレタリ。
緊急輸送物資とは、特攻兵器「桜花(弾頭つきのもの40機)と補給用魚雷40本、爆弾弾薬、トラック等である。
17日(日)早朝、呉出撃、その夕刻、下関海峡の入口に碇泊。
18日(月)0700関門海峡を通過、朝鮮南岸沿いに東支那海を上海沖に向う。関門海峡を通る時、門司と下関の人々は大きい空母が通るので手を振って送ってくれた。朝鮮海峡では水中聴音により敵潜らしき音を二度キャッチし回避した。
その夜は敵潜の英語の会話を近距離に傍受して予定の航路を変更したが敵が近いのをひしひしと感じた。恐らく敵潜水艦は我が部隊を発見し、先廻りし待ち伏せしているだろうというので、19日(火)の早朝から益々見張を厳重にして警戒した。
12月19日午前より被雷時に至る経過概要
0900 艦内哨戒第3配備(水中聴音第2配備)一斉回頭之字運動法始ム、速力18節、浮流機雷1発見
1200 舟山列島東方ニ達ス 天候険悪ニシテ視界狭小ナリ
1400 180度ニ変針、浮流機雷1発見
1500 150度ニ変針、視界益々不良、波浪大トナル
1600 180度ニ変針
1635 水中聴音員 「右30度魚雷音」見張員「右30度雷跡近イ」ト報ズ。艦首概ネ10度回頭セル時、艦尾ヲ雷跡3本通過卜同時ニ右前方ノ魚雷ヲ交ワシ得ズ、艦橋下ニ命中ス。
その途端、ドカンという激震を受けて「やられたか!」と艦橋に駈け上った。被雷のショックで海図台のガラスが割れ、艦橋まで上った海水の飛沫で、海図の上に置いてあった真赤な信号書から朱がしたたって、航跡図を紅に染めていた。
「右舷中部艦橋下、主管制盤室被雷ニ依リ付近浸水、火災発生、艦内電源停止シ艦内暗黒トナル。乗員ヨク落チ着キ配置ニ就キ、砲術科ハ対潜射撃ヲ開始ス、艦ハ面舵一杯ノママ前進シ、蒸気逃出ノ為両舷機械停止ス」
敵潜の潜望鏡を発見し右高角砲及び機銃は俯角一杯かけて射ち方を始めた。金子少尉(73期)が1番高角砲で指揮を取っていたらしい。
被雷により第2搭乗員室附近に火災発生、これは隔壁閉鎖により消火、主管制盤室附近、第1、第2缶室浸水に依り3度右に傾斜、傾斜復元の一法として飛行甲板上の輸送物件のトラックを海中投棄したが日高少尉(73期)がこれの指揮を執った。
敵潜との距離は近く、且つ艦は停っているので、早くこの場を離脱するため「至急機械をかけろ」との艦長の命令を直接伝える為、俺は艦底の機関長の所に降りて行った。途中暗闇で懐中電灯を頼りに降りて行った。機関長は「蒸気圧が上ったから、もうすぐ動かせる」と云うので艦長に報告のため駈け上って来た。
左舷に上って来て飛行甲板を右舷の艦橋に走って行く途中、突然目の前が真黒になり、俺の身体はふわふわと振り廻され吹き飛ばされた。「あー、今死んだんだな」と思ったが、そのまま気を失った。
1645 右220度ニ雷跡ヲ発見セルモ、機械停止ノママニシテ右舷前部ニ被雷、瞬時ニシテ下部格納庫中ノ輸送物件、桜花ソノ他ニ誘爆、大爆発次第ニ起リ数分ニシテ前部ニ大傾斜ス
1657 艦尾ヲ上ニシテ全ク海中ニ没ス
地点 北緯28度59分、 東経124度3分
気が付いたら、兵隊が逆様に走っている。「おかしいな」と思った。暫くして俺が生きていたこと、そして艦の一部にぶら下がっている事が判った。誰かが飛行甲板の端のポケットの鉄板に喰いこんだ俺の足を引っ張って外してくれたので機銃甲板に頭から落ちた。艦は大きく前のめりに傾いているので機銃に掴まって立ち上ると、目の前の約10米先に、日高が浮いてこっちを見ている。
「日高!」と怒鳴った。彼は俺を見たが返事はなかった。顔は何時もの、まつ毛の黒い、赤ら顔の綺麗な顔をしていた。声を出さなかったので下半身をやられていたのだろうか。彼は飛行甲板のトラックの海中投棄の指揮を執っている時、艦が爆発してやられて海に飛ばされたのであろう。
それから瞬時に、艦はゴウゴウという音と共に海に沈んだ、俺も一緒に。もがきにもがいた。しかし艦と共に下降流に乗ったのか、どんどん深く沈んだ。どうした弾みに上昇流に乗ったのだろうか、今度は投げ飛ばされるように物凄い勢いで海面に浮上した。しかし、そこには雲竜はなく数多くの浮流物が夕暮れの時化の海面に浮いていた。若干の兵士が泳いでいたが日高の姿はなかった。
暫く孟宗竹に掴まって浪に揉まれている内に杉田少佐の一団と会った。「犬死するな!頑張れ!」と大声で兵士達を激励しておられた。俺は何となく身体の自由が利かずにこの元気な一団とはぐれてしまった。その後、夕闇の中で奇しくも駆逐艦樅に救助された。
救助された人の中に杉田少佐もクラスも居なかった。樅の甲板に海から引き上げられ、立ち上ろうとした時どうしても左足に力が入らず立てない。おかしいと思って左足のズボンを少し捲くると、足首は大きく切れて白い骨が出ていた。翌朝早く樅乗組のクラス対馬秀志が褌をもって見舞い、元気づけてくれた。
12月19日の東支那海は大時化で波浪の高さ30米位であり、護衛駆逐艦も救助のポートが下ろせず、救助は舷側からロープを投げて救い上げていた。米軍の資料によると、前日の12月18日は比島東方にあった台風のため、米国第3艦隊が駆逐艦、ハル、モナガン、スペンスの3隻沈没、軽空母数隻その他甚大な損害を受けている。
雲竜乗組員1,331名中、生存者は準士官以上1名(森野)下士官兵88名、計89名であった。73期の藤岡 実、日高 昇、加賀谷高之、金子泰治の4名と便乗中の古賀良彦は他の1,242名と共に空母雲竜と東支那海に散った。兵学校で吾々の教官であった福寿中佐、山本隼少佐、杉田少佐も戦死された。米軍の資料によると敵潜の名はレッドフィッシュ号である。
護衛艦檜、樅、時雨は爾後、敵潜を攻撃し確実に轟沈したという。その後俺は樅より高雄港で海軍病院に陸揚げされたが、直ぐマニラに向け出港した檜、樅は2週間後の20年1月5日マニラ西方海面で敵機の攻撃により轟沈され、時雨は1月初日シャム湾において敵潜ブラックフィン号により撃沈された。空母雲竜とその護衛部隊は全滅してしまった。(以下略)
空母雲竜乗組の72期
古宮弘一中尉、森本徹中尉、椋田都哉中尉、
大垣清一郎中尉のこと。
「あ」号作戦で大鳳が沈み残った我々5人の73期生が、揃って雲竜に着任したのは19年7月であった。雲竜は横須賀で艤装中、徹夜で最後の仕上げを急いでいた。兵学校で鍛えて頂いた先輩、71期1名、72期3名(含、コレス1名)が既に着任しておられた。その後、71期のケップガンが駆逐艦の航海長に転じ、その跡を古宮中尉がケップガンをやられ椋田中尉が着任して来られた。
同年12月19日、東支部海迄の短い日々であったが、最後まで生活を共にし、色々と指導を仰いだ。雲竜での配置は古宮中尉・砲術士、森本中尉・通信士、椋田中尉・内務士、大垣中尉・機関長付、
古宮中尉は童顔であったが、良きケップガンであった。当時のガンルームは72期(コレス共)4名、73期(コレス共)7名、大学高専の予備士官17名位で、全部で30名近くの大世帯であった。それぞれ血の気の多い青年士官達をよく纏めて引っ張って貰った。
9月に我々73期の少尉任官祝いをガンルーム全員で横須賀のフィッシュ(魚勝という料亭)でやって貰ったが、73期は酒呑みが揃っていて酔った一人がSの袖を千切る等の乱暴を働きケップに大層迷惑をおかけした。
翌日ぶん殴られる事を覚悟していたが、一言も云わずに許してくれた。腹の据わった人だと感心した。
森本中尉はいつもエコニコして朗かで、ガンルームでもよくジョークをとはして皆を笑わしていた。
椋田中尉は前に乗っていた駆逐艦が沈む時、腹を強打したとかで時々腹が痛むらしく、手で押えて我慢しておられることがあった。「軍医長に診てもらったらどうですか」といっても笑って済ませ、とうとう最後まで我慢しておられた。
大垣中尉はスラリと背が高くハンサムで、Sにも一番持てると評判であったが、剣道は達人であったらしい。顔が機械油で汚れたまま軍手を片手に持って、ガンルームでサイダーを旨そうに飲んでおられたのを思い出す。
雲竜が最後の時は全員戦闘配置に就いていたが、古宮中尉は高角砲で敵潜の潜望鏡目がけて水中弾で攻撃中、森本中尉は通信室に居られ、椋田中尉は艦内防水を指揮中だったと思われる。
敵潜の最初の魚雷により蒸気管をやられ、蒸気圧低下により機械が停止し、機関指揮所との連絡が途絶えたので、航海士だった私は「機械を直ちに始動せよ」との艦長命令を機関長に伝える為、電灯が消えて真暗い艦内を懐中電灯を頼りに、下へ駈けおりて行った。やっと機関指揮所に辿り着くと、機関長が「蒸気圧が上ったから、もうすぐ動かせる」との返事で、報告のため上に引き返す時、機関長の側にいた大垣中尉が「航海士、もう大丈夫だ」と叫ばれた。
飛行甲板の左舷に上って来て艦橋へと飛行甲板を走り急いでいる時、二度目の魚雷を受け、輸送中の兵器の実用頭部等が誘爆し、艦は前、後と二つに折れ艦首は直ちに沈没、やがて艦尾も沈んだ。乗組士官も艦長始め全員戦死され私一人となった。
謹んで古宮弘一、森本 徹、椋田郁故、大垣浩一郎中尉、及び乗組員将兵のご冥福をお祈りすると共に、ご遺族の方々のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
(なにわ会ニュース18号20頁 昭和44年10月掲載)