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平成22年5月6日 校正すみ

河口 浩君を偲んで

富尾 治郎

 彼と初めて会ったのは一号で同分隊になった時である。彼は丸亀中出身の「讃岐の良い男」 てあり、分隊では短艇係・体操係で花形であった。短艇係としてはボロカッターではあったが、手入れがよく、宮島遠漕では2着となった。その遠漕の時、こちらは必死で漕いているのに、彼は小生に 「頑張れ、頑張れ」 と叫び続けたので、後で聞くと、小生の顔色が眞青だったので心配してくれたとのことでよく気がつくのに感心した。
 帆走巡航では何時も素晴しい美声で、クラシックを唄ってくれ、(オーソレミオなど)非常に高尚な気分になったものである。また、一方ツーツーレロレロツーレーローというのを歌ったりしてよく笑わせてくれた。

 兵学校卒業後共に航空にゆくことになり.霞ヶ浦で生活を共にした。実用機教程に入り偵察将校の不足を聞かされて、二人共偵察に行くことにし百里原に行ったが、ここでも彼の音楽の素質の素晴Lさに感嘆した。というのは、赤坂の綺麗どころか一日慰問にきて唄と踊りで慰めてくれたが、その時ただ一回聞いたのみの唄の曲と歌詞をちゃんと覚えていて、後で吾々に披露してくれたのである。彼の美声を最近聞いたのは10年程前になるが、機会があって北新地のピアノバーに行った時である。それはアメリカ映画の主題歌で軽快な中にも力強い気分が躍動する素晴らしい歌であった。オペラ風にドラマチックに歌ってくれた美声が今も耳に残る。

 飛行学生修了後、実施部隊は別で戦争終結迄は会えなかったが、戦後彼は寺崎電機製作所の営業マンとして活躍、配電盤メーカーとして同社をトップの座に導き会社の重鎮となっていった。その間、彼は海軍関係との交際も親密にしていた。
 彼は運も強く、不死身といってもよかった。昭和52年頃盲腸をこじらせて危険な状態に到ったが、奇跡的に助かっている。その後、体の不調の時も何回かあったが、すべて克服し何時もケロリとして明るかった。眼の手術の後も特別な眼鏡をかけて、ゴルフをやっていた。 

 小生が何時も「貴様は不死身だから長生きするよ」と言ったものだが、彼もそうだとうなずいていた。
 今年2月彼は少し休調が悪く入院中と聞いて見舞にいったところ、元気で「大地の子」を読んでいた。その日は偶々2月21日だったので彼は「自分が目を怪我した為に、今日は俺の代わりに飯島が特攻に行った日だ」としんみりと云って、申し訳ない気持とともに飯島の冥福を祈っていた姿が忘れられない。その後、元気で退院し、やっぱり彼は不死身だと真底思ったものである。

 12月初め、分隊会の件で彼より連絡があり、珍しく弱気で「会には行けない、俺もソロソロ年貢の納め時が近づいている」と云ったので「大丈夫だ。貴様は不死身だ。」と話して別れた、が、その時の声は元気そうだった。
  処が12月16日突然の彼の計報である。不死身の彼がなぜだと悔しく思う。もう一度会いたかったと悔まれてならない。彼は会社時代、充分充実して生きてきたし、また、長男として弟さん方をよく面倒をみてきたと聞いている。お嬢さん二人も幸せな結婚生活をおくっておられるし悔いはないものと思うが、美しい奥様を一人残して旅立ちは心残りだったと思う。今少し元気で生きてもらいたかった。
ともあれ もう彼の美声を聞くことは出来ない。
 ただただ冥福を折る次第である。

(なにわ会ニュース76号7頁 平成8年9月掲載)

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