平成22年5月3日 校正すみ
江藤雄三君への弔辞
槇原 秀夫
早まってくれたなあ。18日に東京の年末のクラス会で、生存者一同21世紀を揃って迎えようと話し合った次の日に君の訃報に接するとは。残念だ。数年来君の体調がすぐれないのは承知していたが、かくも急にお別れが来るとは思わなかった。
君との出会いは、昭和15年12月、私共が海軍経理学校生徒を命ぜられたときに始まる。一足先に入校、健康上の理由で、33期に編入された君は、西も東も判らなかった私共にとって頼もしい水先案内でもあった。
漸く風雲急を告げる当時の世相を反映し私共の生徒生活は厳しいものであった。有為の海軍主計科士官たるべく文字通り同じ釜の飯を食いながら切磋琢磨した日々、築地の岸で、青春の情熱を燃焼したときのことは未だ脳裏に刻み込まれでいる。16年12月、大東亜戦争の開戦は、もやもやした気持を吹き飛ばすと同時に、来るべきものが来たと覚悟を新たにしたことであった。緒戦の海軍の大戦火に国民挙って驚喜したにも拘らず、私共の学業が進むに反比例し、戦勢我に利なく、18年9月、教程を短縮して卒業した時期には、明らかに頽勢覆うべくもない中に、主計少尉候補生を命ぜられ、第一線に巣立つことになった。君は、卒業後、山城、球磨、鬼怒、桃、出雲、国後と乗りつぎ、南太平洋全域に転戦したのであった。狂乱を既倒に覆すべく願い、祈り、懸命に努力した労苦は報いられることなく、現実はあくまで冷静で、遂に20年8月の敗戦を迎えることとなった。
戦争中はかけ違って会うことはなかったが、21年の初めであったろう。佐世保の経理部に勤務していた私を訪ねてくれ、一夜福田町の宿舎で枕を並べ、往き方、来し方を終夜話し合ったなあ。クラスのなかでは、当時君のロマンスがうわさになりつつあったが、玉枝さんとの話を熱っぽく話して呉れたことが未だに鮮明に記憶に残っている。その後はお互いに厳しい生活を強いられ、特に、君は陸上自衛隊、私は海上自衛隊、住む世界が違ったため、余り会う機会がなかったことを今は悔やまれてならない。君に最後に会ったのは、昭和63年5月、燦々会と称するようになったクラスの旅行で、呉、松山を訪れた時であった。熊本育ちの君が、音戸の戸田本店で懇親会の劈頭、年季の入った、さびの利いた、細川頼之の「海南行」の詩吟を吟じて呉れたことが何故か忘れることが出来ない。平成4年の京都旅行には、奥様と御一緒に行を共にして呉れたが、私は急な入院のため参加できず、今にして思えば痛恨の極みである。
古武士の風格をもっていた君にここで別れるのは淋しい。御家族のお悲しみもさぞやと思う。今日ここで君と暫しの別れを告げよう。
私共もいずれ、わが国の将来を見極めるだけ見極めて、それを土産話に会おうではないか。
戦死した級友を待たせたように長くはないであろう。それまで安らかに待っていて呉れ。
最後に心からご冥福をお祈りする。
平成9年12月21日
(なにわ会ニュース78号11頁 平成10年3月掲載)