TOPへ    物故目次

平成22年5月7日 校正すみ

 想(思い出の断片)

坂元 正一(遺稿)

神戸一中 12回、昭和18年9月海軍兵学校卒(72期)、41期飛行学生(艦爆操縦)、

百里空教官、霞空、(海軍大尉)、東大医、東大教授、名誉教授、恩賜財団母子愛育会総合母子保健センター所長

 

昭和20年9月下旬千歳空の終戦処理を終え、30時間煤で真っ黒になりながら神戸駅に復員した。両親との連絡も取れず、神戸に行けばと降りたまでだが、我が家は焼失、何故かこの時「よーし、ゼロからだ」と独りごとを言ったのを覚えている。山手の知人宅に居た家族と再会、私の荷物はすべて灰になったと知らされる。想い出になるであろう記録写真は総てない。そもそも私の飛び込んだ世界で皆のクラスに頼るなぞ許されもせず、むしろ過去は忘れ去ろうと努めた私に想い出は書けそうにない。勤務中私の周辺で神戸一中出身の人は一目会う位の数でしかなかった。海軍そのものに対して私なりの考えや思い入れはあるが、私は自分にとって良かった海軍のあり方を現在の仕事の裡に生かすことで想い出を温存しているに過ぎない。

小学校、中学校時代を阪神間で過ごした子供は皆海と空が好きである。2回あった観艦式、生田川畔の校舎では、川西大艇の試作機が上空に来ると、先生も飛び出しての見物、上野の山からは、川崎、三菱造船所が丸見え、情報通が「あれは瑞鶴云う航空母艦で四万屯いうそうや」と教える。見慣れた独客船シャルンホルスト号は後に隼鷹となり、その後艤装中訪問することになる。

(編集部注)

独客船シャルンホルスト号は「神鷹」になり、橿原丸が改装後「隼鷹」となっているので、「隼鷹」は「神鷹」の誤りと思われる。)

昭和1512月、私の組(5の5)から3人、岩松君と私(兵学校)、三田君(機関学校、戦死)が入校、教室の右後席がガラン洞となった。入校直前、江田島のクラブで和泉正昭(72期のクラスヘッド)に会ってビックリ、実は神戸一中に入って1年2学期の選挙で級長が決まった時、1組は和泉、5組は私、2年に上がる時、彼は長崎中学へ転校した。海兵に来たら1分隊、5分隊の先任が全く同配置、お互い気が楽になったと慰め合う.兵学校、飛行学生共に恩賜で出たが、彼は艦攻、私は艦爆、消息不明のまま別れ、戦後2人共医師になった。和泉君は病死して、似通った運命の糸は此処で断たれた。私は百里ケ原で艦爆実用機教程を終え、そのまま教官になったのが運の尽きで未だに教官をしている。私は専ら飛行隊で飛行士、後、分隊長、現地部隊の索敵要員、テストパイロットまがいの仕事、特攻隊の訓練、編成、九州での出撃の監督等で経験だけは積ませて戴いた。転勤電報通り配転していれば、台湾沖で死んでいた筈である。「秋水パイロットの訓練計画を樹て実施せよ」「中練特攻の可否、原案作り、爆弾は何番までが離陸可能か」「アルコール燃料、および松根油を混ぜた機の性能テスト」びっくりするような危険極まりないことをやったことは想い出である。危ないから全部自分でやった。追い詰められた中で当方は電報を見せられて戦況がわかる中で、戦意喪失を食い止めるための元気付けには全く閉口した。

海軍や海軍航空隊での想い出ならいろんな話に事欠かないが、戦後の生き方の中に影を落とすエピソードをご紹介して置く。

 

○いのちを見つめて 

74期クラス会誌「江鷹」  H9・1掲載の講演要旨)

私の第二の人生は定められた死を見つめた経験によって始まった。誕生の神秘に携わり、科学的にみた「生命」、人生論的にみた「いのち」の荘厳さに打たれ、存在の意味を知った今。其の終わりを納得の行く尊厳な終焉に(つな)げるべく努力している自分を見つめることも多くなった。

海軍航空隊のパイロットだった私は、戦争末期には特攻隊の編成・訓練・出撃を担当した。自らの特攻出撃は直前の命令で中止となり生き残った。付け足しの人生の日々、私を支えたのは目の前に定められた死が迫った時、愛する者や国という言葉でカバーされる集団への自己犠牲を献身におき換え、数時間後の「いのち」に結論を出した人間そのものに畏敬の念を持った思い出であった。解脱に悩む姿に息を飲み、出撃の瞬間にっこり笑って愛機に向かって駆け出す時には、もはや現世の人ではない彼等の最後の立派さは学閥・閨閥(けいばつ)・家庭環境とは関係なく、その人の其の瞬間の在り方にあることを教えてくれた。ジャン・タルジューは「逝った人は還ってこない以上、残った者は何が判ればいい?」と詩に書いたが、彼等の残したものは人間の価値の等しい尊さではなかったか。私なりの答えを漸く見出したのは医師として歩み始めてからであった。私は私の領域で国際人として尽くす決心をした。産婦人科世界学会会長を務めた時、「科学に国境はない。皮膚の色は違っても流れる血潮は同じ赤ではないか。総ての人は平等に尊い」と献身を訴えた。各国から「WE  NEED  YOU」と言われ、それなりの役柄を今も続けているが、私は寧ろ、我々の祖国があらゆる意味でそう言われて欲しいと願っている。

私の第三の人生は、専門分野は勿論のこと、二つとない祖国と国民が尊敬される国、そして民族になる為に、若者と共にもう一度情熱を傾け、力を尽くすことに決めている。

誕生そのものが荘厳な事実であり、生きている限り終わりはない。長生きも芸の一つという。生き抜けば終わりは全う出来る。若い時の健康は自然の賜物、年を取ってからの健康は生活の賜物という言葉を贈りたい。我々人間は神経細胞を除いてすべてが入れ替わっている。アイデンティティが保たれるのは遺伝子のお蔭である。生命を持った一人の存在が唯一無二であり、然も過去とは別物だとすれば、人間にとって大

切なのは「どう生きたか」ではなく「どう生きるか」にあることが容易に理解されよう。自然の中に生まれた生物としての「生命」は誰でも同じようにやがて又自然に戻っていくだけで、恐れる何物もない。然し人生論的に見た「いのち」は永遠であり得るからその移行を美しくしたいという願望を持つのは自然であろう。必ず来るものなら背伸びする必要もなく自然体で受けとめればいい。思い悩む必要は何処にもない。

かつて死にゆく人々は殆どその思いを母に託していた。私は人生の最後も、強い意志と愛情があれば願い通りになることを亡くなった母に教わった。21歳で私を生んだ母は、いつも若く紫の矢絣(やがすり)の似合う綺麗な母だった。私は一度も叱られた記憶がない。役目柄一緒に過ごす時間は少なかったが、断ちがたい絆が私達を結んでいた。宮中の御慶事のあった93年、92歳の母は、私の役柄を考えて老衰の身に自ら水絶ち食絶ちを課して気高い尊厳死を遂げた。孫の口からそれを知ったのは亡くなる数日前であったが、電話で知人全部に別れとお礼を告げ、孫、曾孫達に「忍」の色紙を書き残した。私と妹と血を分けた子供に自分の部屋でマッサージを受け、「いい気持ち。もう起こさないでネ」と告げ、永遠にその口を閉じた。明治の人であった母は、最期の一瞬まで美しく節度を保って生き尽くすことで、私達にほのぼのとした形で、人生で最も大切なことを伝え、花冷えの朝、桜の花びらと一緒に散っていった。私に母を越える死を迎える自信はない。ただ最後の瞬間まで望んだ形で死を整えてやれた思いが、しっとりと医師である私の心に残っているばかりである。

一医師といっても苦労がなかったと言えば嘘になる。然し運命は私に何かを求めたのか、思いがけぬ方向に私を運び、関係領域のトップポジションが今も続いていて、ささやかな私の願いは実を結びつつある。週末もないがそれでいい。それが若くして世を去った戦友達、又世界の友達に報いることだと思うからである。

 

(編集部)

これは、坂元正一君が平成年5月に母校神戸一中の同窓会誌に寄せられたもので、77期の石井洋君から泉五郎君が受け取り、編集部に送られてきたものである。

 

(なにわ会ニュース97号35頁 平成19年9月掲載)

TOPへ    物故目次