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平成22年5月8日 校正すみ

 

鳥取市海友会長 浜本 義郎

清水憲太郎君、賀露の浜辺に吹きよせる寒風(はだ)にしみるこの頃ではありますが、君の告別の式に臨んでお別れの言葉を述べようなどと一体誰が予想したことでございましょうか。

 私事を申して恐縮ではありますが、多年親交を重ねて頂いた私が年の名残の忘年会をと、君と共に旅館の一室で酒を酌み語り明かしたのはつい10日余り前のことでした。いつに変らぬ元気な君の温顔は未だ眼前に彷彿(ほうふつ)とし君のご逝去を信じることの出来ない想いで一杯でございます。

人生転露の如しと申しますが、人の命のはかなさを今更らのように痛感するのみであります。

想えば君と私とは同じ海軍の同僚として、人一倍の親しさを持ち、いろいろとお世話にもなりました。折にふれては過去を語り未来を論じて、共に祖国の安危を憂えたのでしたのに、その君今や亡く誰呆然として悲しみに打ちひしがれるのみでございます。君は生をこの賀露町に享けられ、幼にして出藍の誉れ高く鳥取一中より当時難関と称せられた、海軍兵学校に見事合格、昭和18年9月同校を卒業されるや選ばれて艦上爆撃機操縦者として百里海軍航空隊にご勤務、当時戦線の要求した搭乗員の指導教育の任に当られたのでありますが、戦争は熾烈の度を増し君はその後九州に進駐され、敵地攻撃にも数度に亘り出撃されたのであります。

戦は明に利あらず終戦を迎えましたが、君は武運強くも生きてこの日を迎えられ、以来郷里に帰られひたすら家業の農事に精魂をかたむけられたのであります。君のご性格は正に真面目そのものでございました。 

君の戦後のご生活は俗を超越した者のお姿のようにお見かけしていたのでございますが、それも君の真面目なご性格の然らしめるものと日頃我々は深い敬意を表していたのであります。

我々は君の才能を更に地域の発展のために生かされるべく期待しておりましたのに、その君今や幽明境を異にせられ痛恨極みなきものがあります。

更に想いをご遺族の上にはせる時、何とお慰めしてよいか言葉もございません。貴方もお心残りであったでございましょうが、最愛の奥様はご家族をお護りになって、この後も力強く生きぬいて行かれることと信じます。

我々も亦お世話になった君の御恩の万一に報いるべく努力することをお誓いいたします。

在天の霊何卒安らかに眠られんことを。

君の悲しき告別の式に臨み想いは余って言葉は尽きませんが、ここに海兵同窓会を代表して一言述べて弔辞といたします。

昭和55年12月20日

鳥取市海友会長 鳥取県議会議員 浜本 義郎

(なにわ会ニュース44号41頁 昭和56年3月掲載)

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