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平成22年5月5日 校正すみ

押本直正君のこと

藤田 直司

情報によれば、押本直正君病床に臥し、容易ならざる状況と聞く。

彼は、戦後永年にわたり、なにわ会のニュース編集長として努力し、その功績については、クラス全員が熟知し、感謝の念を禁じ得ない所である。

今、彼の病状楽観を許さざる由聞き及び、泉五郎君の緊急提案に賛意を表し、若干の思い出や感想等を述べようとするものである。

私が初めて押本(当時・安藤)と出会ったのは、兵学校で二号になり、分隊編成替えにより第20分隊配属となった時である。その時の二号は総員12名であったが、現在の生存者は、佐藤 静を始め、小野(当時・副島)義市・押本直正・定塚 脩・宮田 實と小生の6名となっている。 生存率50%で、平均より高い方だと思っている。ちなみに四号・三号の時の同分隊(41一分隊)期友は、14名中、桂理平と小生の2名のみであり、一号の時の同分隊(42分隊)期友は、10名中生存者は小生1名のみである。

比較してみると、当時の20分隊二号は、それが天命なのか、天命に逆らっているのか、どちらかは知らないが、よくも生き残っているものだと思う。

その二号の時だが、第20分隊が江田内での短艇短距離競技、及び、宮島遠清の短艇長距離競技の双方共に優勝の栄冠を獲得し、メダルを二個も貰ったことは終生忘れ得ない思い出である。何となれば、そのどちらにも、私は推進力の源泉といわれる8番を漕いだのである。宮島遠漕の時は、8番の内側にいたのであった。そして、私の座った後方の6番のシートには押本が漕いでいたのである。宮島遠漕には更に、宮田 實も加わっていたはずと思っているが、何番を漕いでいたのかについては、記憶に残っていない。何はともあれ、一号生徒に交じっての二号の活躍は、当時の二号の士気をいやが上にも高めたことは言うまでもない。表彰式で、校長閣下から優勝旗を受け取った分隊監事(磯部大尉)の顔色も感激と晴れがましさに輝いていた。その優勝旗はその後、分隊の自習室に飾られた。

かくして、士気を高め団結心を固めた20分隊二号は、自然の勢いのおもむく所、カッターを愛し、カッターになじみ、遂には土曜日の巡航を待ちあぐねるようになったのである。二号だけの土曜晩の巡航と、押本・宮田との深まりは、私にとって、生徒館生活の思い出の重要な部分をしめる。

やがて一号生徒になり、また、分隊編成替え、押本・宮田とも別ればなれとなった。

そして、兵学校卒業、押本は飛行機へ行ったが、私は水上艦艇となり、横須賀から翔鶴に便乗して、トラックへ行き、榛名に着任した。その後、彼とは顔を合わせることもなく終戦を迎えた。

戦後、なにわ会の旅行の第1回が、能登めぐりと決まり、他に誰もいないので、私が現地幹事となって実施したが、その旅行に押本夫妻も参加してくれて、再会を果たした。また、その後の飛鳥での沖縄旅行の際にも顔を会わせた。それらの旅行に当たっての思い出等については、他の参加者の投稿に期待する事にしたい。最後に「押本、頑張れ」の一言をもって終りとする。

(平成13年12月12日記す)

(なにわ会ニュース86号30頁 平成14年3月掲載)

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