平成22年5月7日 校正すみ
坂元 正一君を偲んで
山田 良彦
新春早々坂元正一君の訃報を知った。
かねがね体調を崩して居られる由洩れ聞いていたが、まさかこれ程早くとはただ驚くのみだった。
坂元君を偲ぶ会が2月4日医療関係各界の主催で開催されることを知り、旭君、泉君、上野君、伊藤君、岩松君と共に参加、数百人に及ぶ参加者の多さに流石と吃驚すると共に、偉大な存在であったことを改めて実感させられた。
72期として坂元君を偲ぶ会を実施してはという大方の意見賛同があり、3月25日市ヶ谷で実施された。当日は遠方からや持病や不自由な体に耐えながら集まって頂いた方々を含め21人(相澤、足立喜次、旭、池田、泉、伊藤正敬、岩松、上野、後藤寛、左近允、佐藤靜、新庄、都竹、東條、名村、平野律朗、樋口直、溝井、山田穰、山田良彦、山田良の諸君)が参加してくれた。
彼を偲びつつ杯を傾け乍ら、一人一人彼への想いを話して貰った。 江田島・戦時中・戦後の各段階での彼との係わり合い・思い出等心を込めて話をして頂き、更に多くの方々から彼から受けた医療面での世話に厚い感謝とお礼の言葉が述べられた。坂元君もきっと向うから喜んで聞いていて呉れたと思い嬉しかつた。
今、何枚かの写真を眺めながらこの筆を執っている。
始めは41期艦爆飛行学生卒業時の写真である。 彼は江田島時代クラスのトップクラスで傍目にもスカットして皆に好かれていた姿ははっきり覚えているが、特に深い係わり合いは無かった。
本当の触れ合いは百里ケ原での艦爆飛行学生になってからである。艦爆学生35名(他に勝沼軍医大尉・航空医学体験の為・東大医学部卒・後に坂元君の前任者としての東大医学部長・父君は侍医であった由)が艦爆乗りとして必要な心身の練磨学科そして勿論飛行訓練実技を徹底的に叩き込まれた。 日常生活は6〜7室に分かれ、ベッドを並べ文字通り寝食を共にし、互いに仇名で呼び合い、議論もし、たまには喧嘩もし、また内々の打ち明け話もする等文字通り兄弟以上の仲間だった。
彼はその36名の学生長として日常生活から訓練に到る迄正にその中心的存在であつた。
上官、教官からの信頼は抜群でそのお陰で皆随分助かったことも多かった。 生来の明晰な頭脳・明るく面倒見がよく、決して驕らず、亢ぶらず、・押し付けず、皆を纏めてゆく統率力は誠に見事で、卒業時隊長の薬師寺大尉(66期)から「本当によく纏り、よくやった」旨のお褒めを頂き、彼を囲んで喜び合ったこと、今でも忘れ得ない。
艦爆学生卒業後、百里ケ原に坂元・岩村・清水(健)・牛尾・前橋・森下(藤尾)・伊佐と小生の8名が教官として残り、73期の飛行学生・13期予備学生・12期練習生の教育訓練を担当.した。 艦攻偵察からの3〜4人ずつ教官として残られたクラスの人々も一緒になり益々交流を深め、時には水戸の海鵬倶楽部にも出かけ酒を飲みながら夜を過ごしたこと等夢の様な思い出である。
小生は20年2月末、香取基地で再編中の攻撃第3飛行隊に転出したが、その際皆と別れた時の記念写真(艦爆の坂元、伊佐、森下、艦攻の中西、平野、偵察の伊中、大槻の諸兄)を今も大事にしている。
坂元君は、その後暫くして霞ヶ浦航空隊に転じ、特攻訓練・中練特攻の可否・松根油混合ガソリンのテスト等戦争末期の苦しい任務につき、最後は北海道で終戦を迎えられた様である。
艦爆35名は、卒業後2ヶ月足らずして早くも岡田次夫君が比島で戦死され、結局戦死22名(内特攻8名)、戦後死7名(含坂元君)、現存6名となっている。 いやはや何と申してよいか語る言葉も無い。 ひたすら御冥福をお祈りするのみ―――――。
戦後、学部は異なったが、同じ大学の学生となって間もなく偶然彼と出会い、「オーイ山田」 「オオ坂元」と肩を叩きあい、再会を喜ぶと共に戦時中の事、今の状況心境・艦爆の連中のこと等夢中で語り合ったこと鮮明に覚えている。 また、彼の他、小生と同学部の佐藤、小林・建築の池田・造船の小沢の諸兄と、三四郎池隣の山上御殿に集まり喜び騒いだこと、今にして想えば夢としか思えない。
更に生き残った艦爆の連中が年に1〜2回所謂「艦爆会」と称する会合をもち、相変わらず仇名で呼び合い、昔話に興じザックバランに腹を割って語り合い、飲み合ったこと、彼が中心にいて呉れたこそで、そのグループの一員であったことを本当に感謝している。
今、ここに坂元君・勝沼さん・冨士・鬼山・押本・伊佐・谷内・東條・多胡の諸兄と小生が集まった艦爆会の写真があるが、この内6人は既に逝かれてしまった――。
彼と最後に会ったのは、押本君のお通夜と伊佐君のお通夜の時であったと思う。
今にして想えばその頃は重要な仕事で多忙を極めておられ、その上彼自身も大分病が進んでおられたのではないかと想像されるが、最後迄良く付き合って呉れたことただただ感謝するのみ。
彼は洋画を小磯良平氏に学ばれ、立派な作品を残しておられることは良く知られているが、或る時高橋猛典君夫妻のお供をして、鎌倉の大仏様の近くにお住まいの母娘3人のお宅をお尋ねしたことがあった。その際次女の石本さんから大きな肖像画をみせられ「これは私の新婚の頃の画で坂元先生に画いて頂いたものです」とのことエーツと吃驚すると共に彼が多方面で極めて優れた才能の持ち主だったことに改めて感心した。 石本さんのご主人は神戸一中での同期生だった由。
定められた死を見詰めた戦争中の体験から、生きて、生命といのちを預かる途に携わる以上、自分の納得のゆく丈の想いをこの途に実らせ跡に残すのが、本当に生きることだと考え、節度を持って生き尽くすと云い、また、それをやり抜いた彼の凄さ・偉大さに改めて深い敬意を表すると共に、彼の様な人を友人として持てたことは大きな誇りであったと思う。
今、彼を失って改めて、彼が我々に与え、残していって呉れたものが斯くも大きなもので有ったのかと、深く深く感謝している次第です。
坂元君 本当に有難う。
どうぞ ゆっくり お休み 下さい。
(なにわ会ニュース97号24頁 平成19年9月掲載)