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平成22年5月8日 校正すみ

下駄ばきもナイス

西尾  

12月26日、市瀬から、また続いて富山の高松から坂田善一郎が亡くなったとの電話があり、突然のことに一瞬耳を疑った。

長く会ってはいないが、毎年年賀状をもらい、元気と聞いていた。60台で死ぬのは早すぎる。快活で熱血漢だった彼を思うと残念でならなかった。

彼とは二座水偵の仲間で、隣県でもあり、28日の葬儀にお参りすることにし、高松と打合せをした。二座のコレス小田正三からも電話がかかり、坂田の死をいたんだ。

昭和18年9月15日兵学校を卒業して、うち三百余人が練習航空隊飛行学生を拝命、霞空に入隊した。10日余りの基礎教程修業と同時に水上機分離があり、9月末19人(機関学校コレス2人含む)が鹿島空へ移った。600余人のクラスが300になり、そして19人になったときは、さすがにさびしくなったものだが、ここでこれから水上機の伝統精神を学ぶこととなった。約1カ月後に二座、三座、飛行艇に分離、二座の7人(岸本、坂田、西尾、上田、蒲地、中川、小田)が決った。坂田と私はその7人のさむらいのうちである。出身が隣県どうしということが親しみを深めた。

鹿島空での飛行学生時代10カ月は水上機の独特の家庭的雰囲気の中で、楽しい思い出がつきない。操縦訓練は徹底的に技量の練磨に向けられ、飛行学生教程だけで3百数10時間を乗った。土浦の五頭さんの家を倶楽部にして頂き、休日にはのんびり羽をのばした。五頭家には大変お世話になり、こんなちっちゃな小学生だった五頭和明君とそのまた妹の佳代ちゃんとは楽しく遊んだものだ。

 ニュース32号(昭和50年)にその和明君が当時の思い出を書いているが、当時の写真に坂田もいっしょに写っている。私は和明君と佳代さんとはいまも年賀状を出しあっているし、それよりも和明君はわがクラスの一員のように私どもと交友を続け、私が参加した昭和51年の参拝クラス会にも彼は列席して水上機仲間といっしょにとった写真がニュース35号にのっている。

 

飛行学生卒業後は7人がばらばらになり、坂田とは連絡がとれなかった。戦局がだんだん不利になっていくと、水上機もその機能を果せなくなり、とくに空戦のできる二座操縦員は陸上戦闘機に転じていった。私も呉空で強風(水上戦闘機、フロートをとったものが紫電)に乗っていたが、20年3月に210空明治基地に転じゼロ戦乗りになった。他の二座もみな戦闘機にかわったようだ。

終戦で4人残り、いま坂田を失って、二座は岸本と小田と私の3人になってしまった。

終戦後何年目かに坂田が尋ねて来てくれたことがある。電気関係の工事の仕事をしているとかで、彼はもたもたしていた部下に「しっかりやらんか!」と、金槌を振り上げたところ高圧電線にふれてはねとばされ、ひどい目に会ったとか元気でいっていたのをいまも忘れない。

自衛隊に入った彼とはまた連絡がなかった。最近2、3年ばかり前に金沢に来た彼と駅前の喫茶店で会った。30余年ぶりで、すぐには顔がわからなかった。まゆ毛がつり上って精悍(せいかん)だった彼は、大分肥って温和な顔になり、ずいぶん貫禄になっていた。金沢にも販路をのばしたいという仕事の話が中心だったが、こんなに早く今日の日を想像もできなかった。

お葬式は晴れ上がって、まっ青な空が美しかった。一つ下駄ばきで飛んだ鹿島の空を思い出した。高松のはからいで、鏡と三人、野辺送りをした。火葬場で遺体と最後のお別れをしたとき、彼の顔は式場の写真と同じようにやわらかく微笑していた。思わず「坂田!」と呼んで挙手の礼をしたかったが、みんなといっしょに線香を置き、手を合わせた。

戦争で生き残ったものは、もっと長生きせにゃならん。まだまだやらなければならない仕事が残っているはずなのに。坂田も残念だったろうが、長男善之氏がしっかりした態度であいさつをしたし、非常にたのもしく見えた。坂田の家は大丈夫だ。安心して安らかに眠ってくれ。

(なにわ会ニュース58号10頁 昭和63年3月掲載)

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