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平成22年5月7日 校正すみ

告別の辞

故坂元正一先生お別れの会委員長
日本産婦人科医会会長代行
 副会長
清川
 

 今日は暦の上では立春です。先生が私どもの目の前からこつ然とお消えになりまして、早や一月以上が経ちました。12年前の1月、阪神淡路大震災が発生した時、現地の情報が錯乱している中、先生はまず、現地に行こうと仰いました。すぐさまお供をして、二人で神戸に向かいました。文字通り瓦礫の山と化した神戸には電車を乗り継いで、芦屋からは徒歩で、神戸大学病院にたどり着きました。傾いてライフラインが断たれた病院には、当時の小林支部長、望月日産婦兵庫県地方部会長、宮本理事が出迎えて下さり、一緒に現状把握を致しました。「どうしたらいいか分からない時にどうするか」というリスクマネジメントを、この時学ぶことができました。また冬来たりなば春遠からじ。先生は、現在は医学・医療とりわけ産婦人科、周産期医療は冬の時代となってしまったが、必ずや春が来る……そう仰いまして、越後長岡藩、河井継之助の言われた「一忍をもって百勇を支え、一静をもって百動を制す」の言葉のように、じっくりと腰を据え、調和ある進歩をモットーに産婦人科医会の伝統の継承と創造への挑我を常に念頭に置かれて、私ども会員を引っ張って下さいました。
 その先生が、昨年1228日にご逝去され、残された者はただただ茫然、いまだに涙たぎり落つ日々でございます。
 先生は、大正13年に神戸でお生まれになり、先生のお祖父様、お父様と同じく三代にわたって東京大学をご卒業になり、産婦人科教室に入局し、東京大学産婦人科教室の歴史に三代、その名をとどめる唯一の先生でありました。ご逝去が報じられますと、私どもの産婦人科医会にお別れの会はいつですか?
 一般市民ですがどうしても参列させてくださいとの問い合わせが殺到し、連絡網がパンク寸前になってしまいました。それ程国民の皆様、とりわけ大勢のお母様方からの声がございました。
 先生のご略歴を一言で申し上げることは不可能ですが、日本産婦人科医会での先生の足跡を述べさせていただきたいと存じます。
 坂元先生は、昭和42年東京大学医学部講師の時に、日母幹事として日母事業に参画し、その後も理事、委員をお務めになりました。昭和55年、日母ME委員会委員長として研修ノート「周産期胎児管理のチェックポイント」を発行され、この研修ノートを礎として会員の研鑽努力により、わが国の周産期医療が格段に進展、向上し、周産期医療の実績が世界一になり、現在に至っています。日本の現在の産婦人科の教授のほとんどが、この研修ノートを医学生あるいは若き産婦人科医の時代に手にして、それをまた、後輩、医学生に伝えていることでしょう。
 昭和59年に東京大学を退官された後は、東京女子医科大学母子総合医療センター所長、埼玉医科大学総合医療センター所長および教授として、昭和61年には宮内庁御用掛りとして、今上天皇、皇后両陛下の絶大な信頼のもと、皇后陛下、皇太子両殿下、秋篠宮両殿下、現在は皇族をお離れになりましたが、紀言様の御用掛りとしてお仕え申しておりました。さらに、平成元年には、恩賜財団母子愛育会総合母子保健センター所長になられ、同年4月に、二代目会長の森山豊先生の跡を引き継いで、現在の産婦人科医会の前身でありました日本母性保護医協会会長と財団法人日母おぎゃー献金基金理事長にご就任されました。
 平成3年には、世界で初めて、第1回国際周産期学会を日本産科婦人科学会との共催事業として開催し、開会式には天皇皇后両陛下のご臨席を賜りました。国内外から合わせて1400名余りが参加したこの国際周産期学会は、坂元会長のリーダーシップのもと、日母ファミリーとしての会員の団結力の強さを垣間見たものでした。世界中の周産期に関わる医師との意見交換は、その後のわが国の母子保健医療の発展に大いに貢献することとなりました。
 平成12年には、国際母性新生児保健連合いわゆるヤマネ会長として、平成13年からは、母子保健推進会議の会長としても活躍されました。
 先生は、優れた文筆家であると同時に、優れた画家でもありました。画は小磯良平画伯に師事したと伺いました。
 先生からお聞きしたお話があります。現在の皇太子殿下、秋篠宮殿下ご誕生の時、医師団としてお側にお仕えしていた折、皇后陛下が、宮様ご誕生時のデッサンをご希望されたものですから、その都度、献上されました。その後、紀宮様ご誕生の折には、デッサンを差し上げる機会を失念していたところ、秋篠宮妃殿下がご出産の時に、皇后陛下は、ふと憶いだされたように、紀宮様のデッサンをご希望され、それで、慌てて絵を献上されたのだそうです。ご慈愛に満ちた母心が目に浮かぶ思いです。もちろん、秋篠宮家には眞子様、佳子様お二人の姫君のデッサンが、宮家のお部屋に飾られているというふうに伺っております。
 先生のデッサンを以前拝見させて頂いた時、若い女性の横顔のデッサンがありました。先生の奥様にとてもよく似ていることに気づきました。直接お聞きする機会はありませんでしたが、きっと先生は、奥様の横顔を心に留めておられたのに相違ありません。
 年明け早々に、奥様にお悔やみを申し上げましたが、奥様のお話の中から、ようやく先生は奥様の腕の中、胸の中にお帰りになったということを感じ取りました。
 奥様、ご家族にとりまして一番大切なお方が、職責職務とはいえ、文字通り、命をかけて、生涯をかけて、日本の否、世界の母子保健、周産期医療の発展向上に捧げられたご功績は、平成13年秋の叙勲で、勲二等瑞宝章に燦然と輝いております。また、生前のご功績に対して、従四位に叙せられました。まさに私ども産婦人科医会にとってもかけがえのない偉大なリーダーでした。そのリーダーを喪った事実は、痛恨の極みで言葉では言い表すことができません。
 坂元会長先生、どうかごゆっくりとお休み下さい。そして、いつまでも私どもを遠い星より見守り、お導き下さい。これまで賜りました数々のご指導、ご恩に深く、深く感謝と御礼を申し上げましてお別れの言葉といたします。坂元会長先生、ありがとうございました。

坂元正一先生を偲んで

母子愛育会愛育病院院長 中林 正雄

 私が先生の教えを受けるようになってから、もう30年以上になります。東京大学の主任教授として、また世界産婦人科学会の会長としてご活躍中の先生は、私たち医局員にとっては眩しいような存在であり、まさに天上人でありました。そのような先生が、医局員一人ひとりに心を配り、折に触れ、お話して下さる内容は、優しさとロマンにあふれ、いつも私たちに希望と勇気を与えて下さいました。医師として、臨床にも研究にも情熱を持つこと、誠意を持って人のために尽くすこと、感謝すること、人を愛すること、そして忍ぶことの大切さなど、すべて先生からお教えいただきました。不肖の教え子を自認し、先生の大きな手ですくっても、すくっても、すくいきれないという意味を込めた「みじんこ会」や、先生のお誕生会である「睦月会」では、先生はとても楽しそうでした。

 先生は、学閥や産婦人科と小児科の垣根を越えて、日本で初めての母子センターを東京女子医科大学に設立されました。先生の理想と情熱のもと、数年にして母子センターの成績は世界のトノブレベルになり、その後、全国に周産母子センターが設立され、また国際周産期学会の初代会長となられ、今日の周産期医療が確立されました。先生は、これらのお仕事に誇りを持たれ、「人生の幸せとは、良い友達に恵まれて、一緒に仕事をすることですね」と語って下さいました。

 秋篠宮紀子妃殿下の初めてのご出産にあたり、宮内庁御用掛として主治医をお勤めになりましたが、ご出産後に「このチームでのご奉仕は一生忘れないでしょう」とお話しになり、眞子内親王様の見事なスケッチに、ご自身のサインをして私たちに下さいました。先生の思い出の品として、大切に飾らせていただいております。

 愛育病院においては、歴代の母子愛育会会長・理事長の絶な信頼のもと、病院運営のすべてが先生に任されていました。週1〜2回、私が先生のお部屋にお伺いして、ティータイムを持つことが常となりましたが、なごやかな時間の中で、様々なご指示やご指導をいただきました。

 最後に先生にご指導いただいたのは、秋篠宮紀子妃殿下の帝王切開の前のことでした。あらゆる状況を設定して、その対応をご確認いただき、いくつかのsuggestionをいただきました。

そして「これでもう大丈夫。安心して手術に望みなさい」と緊張する私を励まして下さいました。手術が無事に終了した当日、夜になって先生のご自宅に伺いました。先生は大きな手で私の手をとり、「おめでとう。よく頑張ってくれた、ありがとう」と言って笑顔で私を迎えて下さいました。他の誰よりも先生からのお言葉が私にとって嬉しく、ありがたかったのです。

 こんなにも偉大な先生でありますが、その優しさと親しみやすい人間的魅力に惹かれて、多くの人が先生のもとに集まっていました。いつも気品と包容力のあるたたずまいでいらした先生に、ここ12年、お疲れのご様子がみられました。将来を的確に見通し、人や物事の本質を正確に見極める人並みはずれた鋭い感性をお持ちの先生ですが、人を信じ、誠実さと愛情をもって接することをモットーとする先生にとって、最近の社会事情は、苦悩することが多かったのではないでしょうか。目覚ましい周産期医療の発展の影に潜む多くの問題に対して、満身創痍の身を文字通り削るようにして奔走なさるお姿に、「先生、もうこれ以上ご無理はなさらないで下さい」と思いながら、私は何も言えませんでした。「人のために尽くして神様に恩返しするのが私の天命」と常日頃、先生はおっしゃっていたからです。しかし、今にして思えば、せめてあと少しでもご自身の自由なお時間を持たれ、絵を措かれたり、海外の友人との旧交を温めたり、お好きなゴルフをご一緒できたら良かったのに、と悔やまれます。私たちがどんなに努力しても、先生から受けた大きなご恩に対して、その百分の一もお返しできないことはよく存じておりますが、何もできないうちに先生とお別れすることになってしまいました。先生はこうして永遠の眠りにつかれましたが、先生の教えと、その温かい笑顔は、私たちの心の中にいつまでも生き続けています。先生、安らかにお眠りください。そして本当にありがとうございました。


わが恩師坂元正一会長をお偲びして

東京大学産科婦人科学教室教授 武谷 雄

 生涯の師として敬愛申し上げておりました坂元正一名誉教授との今生のお別れがかくも突然訪れるとは思いもよりませんでした。まさに巨星墜つと言う以外にその衝撃を表現するすべを知りません。
 産婦人科領域のみならず医学会の至宝でありました先生のあまりに急な彼岸へのお旅立ちに言い知れぬ寂蓼感と無常観におそわれております。
 先生が東大病院にご入院されたという報を受けましたのは昨年11月7日でした。お見舞い申し上げた時には先生はお話なさるのはややつらそうなご様子でありましたが、いつもの包容力あふれるご温顔で私の話に耳を傾けられ、目で「分かっているよ」とおっしゃっておられるような印象をもちました。先生はこれまでも何回かご入院なされ、そのつど持ち前の不屈な精神力で病魔を追いやってこられました。今回もすぐに体調を取り戻され、じきに仕事につかれるものと信じて疑いませんでした。しかし、その後残念ながら快方には向かわれず、寒気厳しい1228日永遠の旅立ちをなされました。
 思い起こしますに、学生時代から現在の私がありますのは、いつに坂元先生という生涯の師と仰ぐお方に出会えたことであり、私は大変果報者であったと常日頃感謝申し上げておりました。先生との出会いは今から35年以上前の医学生の時にさかのぼります。産科学の講義、外来実習での先生のはつらつとしたお姿、熱っぽいご説明、これが私の将来を決定付けた出会いになりました。医師となってからも臨床、研究そして人生すべてにおいて、折に触れご指導を仰いできました。本当に頼りがいのある偉大な大先輩でありました。
 先生は大正13年神戸にてご出生になり、昭和18年海軍兵学校を卒業されました。終戦を迎え、昭和21年に東京大学医学部に入学され、25年卒業されました。翌年東京大学産科婦人科学教室に入られ、28年に同助手になっております。昭和31年に関東中央病院の医長に着任され、38年に東京大学講師、昭和45年東京大学産科婦人科学教室の主任教授になられました。臨床の傍ら先生は生殖内分泌の研究にも従事され、昭和32年に「卵巣ステロイドの性上位部逆調節における椎骨動脈の意義について」という論文で医学博士を取得しております。この論文は性ステロイドホルモンが椎骨動脈経由で視床下部ー脳下垂体系に作用する可能性を示したもので、きわめて独創的な発想で、しかも臨床的にも示唆の富む知見であり、多くの方に称賛され、その結果当時若手の研究者で最ふ栄誉があるとされていた日本産科婦人科学会賞を受賞されております。
 先生が教授にご就任された当時は、大学紛争の余燵覚めやらぬ混乱期であり、教室もあらゆる面で大きな打撃を受けておりました。そういう中、先生ならではの情熱、活力、指導力で見事教室を再建されました。先生はよく学問の国際性を強調されておりましたが、ご着任9年後には、第9回世界産婦人科学会を盛大に挙行し、わが国の産科婦人科学の歴史に大きな金字塔を打ち立てられました。日本は国際社会において学問の牽引車たるべしという先生の先見性、卓見、そしてそれを実現化する実行力は驚嘆すべきものでありました。
 先生の医学に向けた情熱はご退官後一層燃え滾(たぎ)り、東京大学を辞された後、直ちに東京女子医科大学教授として同大学に周産期センターを開設され、それが軌道に来るのを見届けられると、さらに埼玉医科大学教授として同大学の川越医療センターを立ち上げられました。時代が先生を必要とし、先生はその期待に実に見事に応えてこられました。平成元年には日本母体保護医協会の会長にご就任され、現在にいたっておりました。限りある人生の一時期に先生のごとくの傑出された先輩と特定の時間と空間を共有できたことはとても幸せだったと改めて感じております。
 先生の人生は社会のために尽くされた誠に素晴らしく感嘆に値するものでありました。先生の人生の軌跡は先生でしか歩むことができない燦然と輝くものといえます。これまで全速力で人生を走り続けてこられた先生、どうぞ激務より離れられとこしえに安らぎ賜らんことをお祈り申し上げます。


故坂元正一会長を偲んで

日本産婦人科医会副会長 木下 勝之

 故坂元会長は、この数年、産科診療所が安心して分娩に専念できるように保助看法問題の解決に心血を注いでこられました。しかし、相手のある問題だけに、成果が出ません。それだけに、会員からの非難、批判が激しくなっていましたが、黙って耐え、忍んでこられました。昨年末、ご無理が続き、体調を崩され、ご入院されましたが、その日までこの課題解決のため、並々ならぬご尽力をされました。

 平成18年9月、厚労省が医政局長通知を出して、この看護師内診問題に決着をつけたいと言ってきた時、「この通知案ではとてものめない。しかし、厚労省に拒否の回答をする前に、日本助産師会の代弁をしている南野参議院議員を愛育病院へ呼んで、私の真意をどうしても伝えて、看護師が内診できるように、はっきりさせたい」といわれ、8時間にも及ぶ長い会談の感触から、「南野議員は分かってくれたと思う」とTELで、その時の会話のすべての内容を私に話され、期待しておられました。

 しかし、その2〜3日後の、南野議員から坂元会長への返事は、冷酷にも、「法律に従っていただきたい」の一言でした。

 坂元会長は、その後、風邪をこじらせ高熱を発しておられました。そんな厳しいご病状でしたが、私はご自宅にTELをし、いつものように、厚労省との交渉に臨む姿勢についてご説明し、ご了解をいただきました。時々、苦しそうに咳き込まれ、「よろしく頼みます」といわれたことが、私には、最後のお言葉となりました。そしてその2日後、東大病院へご入院され、再びその謦咳に接することは叶わぬこととなりました。残されたわれわれは、寂蓼の念を乗り越えて、坂元会長の手で解決できなかった無念を晴らすことに、専心しないではいられません。

 私が大学を卒業後、医師として、東大産婦人科学教室に入局して以来、臨床の手ほどき、PG研究グループへの配属、スウェーデンへの留学、そして教職への道、さらに、医会副会長への推薦、日本医師会常任理事への派遣に至るまで、人生の節目、節目でことごとく、坂元会長にご相談申し上げ、その都度、適切なご指導とご指示をうけてきました。私の今日あるのは、すべて坂元先生の格別のご高配によるものでした。そして、昨年4月、私の順天堂大学主任教授退任に際して、次のような、暖かい励ましのお言葉を賜りました。

 『「財産を失うこと、それは幾ばくかを失うことだが、また働いて取り戻せばよい。名誉を失うこと、それは多くを失うことだが、再び名誉を回復することも絶対に不可能ではない。しかし、勇気を失うこと、それは、この世に生まれてこなかった方がよかったとさえ言える」このゲーテの言葉をチャーチルは困難に対する勇気ある意思決定の基にしたといわれています。どうか、勇気を忘れないでください。』

 坂元会長が永遠の彼岸へ旅立たれた今、賜った『勇気』を胸に、会長の意思をついで、寺尾監事と医会スタッフとともに、崩壊の瀬戸際に来ている産婦人科医療の建て直しに、ベストを尽くして、保助看法問題を解決し、先生の墓前にご報告申し上げたいと思います。

 ここに、恩師坂元先生に、改めて心からの感謝を捧げ、ご冥福をお祈り申し上げます。



坂元会長を偲ぶ

日本産婦人科医会副会長 佐々木 繁

 1月4日、鹿候事務局長より坂元会長ご逝去の報せを受け茫然自失するとともに、最初に浮かんだ言葉は「巨星墜つ」でした。先生と最後にお会いしたのは1024日開催の第12回常務理事会で、その時お疲れのご様子がうかがわれました。その後、風邪をこじらせ入院されましたが、12月には快方に向われたとのことで安心しておりましたところ、余りにも突然の訃報に接し、しばらくは信じることができませんでした。

 先生とは平成3年、第18回日母大会が新潟で開催された際、私が実行委員長としてお会いしたのが最初でした。その後、平成5年から理事、平成7年から常務理事、平成15年から副会長として常に温かいご指導、ご鞭撻をいただいてまいりました。

 先生は頭脳明断、幅広い知識と見識、鋭い判断力、抜群の説得力があり、人情味豊かで、いつも会員の心情を考え、医会を統率されたことに、心から敬意を表するものであります。また、人の意見を聞くことに努力を惜しまぬ方でした。会議では資料の要点を必ずマーカーペンでチェックし、発言内容を詳細にメモしておられたお姿が今でも目に浮かびます。

 ここ数年の医会をとりまく情勢はまことに厳しいものがあります。産婦人科医師不足と産科の閉鎖、看護師の内診に絡む幾つかの保助看法違反容疑、福島県大野病院医師の業務上過失致死及び医師法第21条違反容疑等が主なものと言えます。会長はこれらの難問蓮の解決に対しまして、これまで培ってこられたあらゆる人脈をたどり、人知れず懸命の努力を積み重ねられました。看護師の内診問題では川崎前厚生労働大臣と2回にわたり交渉し、特に初回では会見時間を大幅に延長して医会の窮状を詳しく説明しておられたのが強く印象に残っております。堀病院が起訴猶予となりましたことを、ご生前にお知らせできなかったことが残念でなりません。

 先生は今季限りで会長を退任され、名誉会長として今後もご指導いただく予定でしたが、かかる重要な時期に先生を失うことは、誠に残念であり、痛恨の極みであります。深く哀悼の意を表し、御霊安かれと祈るばかりです。


坂元正一会長を偲んで

日本産婦人科医会監事 高橋 克幸

 坂元会長が亡くなられました。昨年11月5日カイロで開かれたIAMANEHの総会に出席したので、報告の電話をご自宅にしましたところ、風邪がひどく電話に出られないとの奥様のお言葉でした。病床に臥す期間が長いので、嫌な予感が脳裏を掠めていましたが、現実の姿となり、言葉に言い表せないほどの衝撃を受けました。痛恨の極みであります。

 先生ほど産婦人科学、周産期医学のみならず学際的分野に至るまで、国内はもちろんのこと、国際的にも活躍され、偉大な足跡を残された方はいないと言って過言ではないでしょう。まさに巨人でした。

 平成元年、森山豊先生の後を継いで当時の日母会長に就任されましたが、先生は幅広く卓越した見識と学識、鋭い判断力、強力なリーダーシップをもって組織の改革強化、母子保健の向上、産婦人科医療の発展に終始努力され、他の医会と比べても、最も優れている今日の日本産婦人科医会をつくられました。そのご功績は枚挙にいとまがないほどです。

 産婦人科医会で、ずっとIAMANEHの担当も命ぜられていた関係上、私は坂元会長と10回程お供して外国に行きました。その間、朝な夕なにいろいろお話を伺いましたが、豊かな教養、絵画や書道をはじめとする芸術に関する才能の多才さ、奥深く、人を魅了する人間性と人生観を窺い知り、一緒に外国に来られたことに感謝することしばしばでした。1997年ブラジルのカンビーナスで開かれた学術集会では、周産期医療について1時間以上にわたり、特別講演を行いましたが、ご多忙の中、どこでいつ準備されたのかと、驚き只々感服した次第です。 先生は「俺は戦争で一度死んだ人間だ。死は怖くない。残された人生は、人のため、世のため、尽くすだけだ」とお話しされることがありましたが、それをお言葉通り実践されたのでしょうか。

 周産期医療は今危機的状況にありますが、NFC制度の創設など、やっと微かに燭光が見えてきたかと思われる時に先生は逝かれました。今暫し、名誉会長になられてご指導いただけたら……と思いますと本当に残念です。

 永年にわたるご指導とご労苦に心より感謝申し上げますとともに、先生の御霊の安からんことを衷心よりお祈り申し上げます。


坂元会長を偲んで

日本産婦人科医会監事 寺尾 俊彦

 坂元正一先生を亡くしたことは、私の人生の支えを失ったようで、途方もなく悲しく、寂しいことこの上無い。今となっては、先生に出会えたことをただ感謝するのみ、恩返しすることも能わなくなった。

 人と人との出会いが、人生を運命付けると言うが、私にとって先生との出会いはまさにそれと言える。私が大学人として歩んだのも先生の導きがあったからだと思っている。私事で恐縮であるが、ここにその一端を述べることをお許し願いたい。

 昭和40年代の半ば、学園紛争が終結の頃、日本産科婦人科学会のあり方も変革を迎えていた。従来の宿題報告は教授への狭さ登竜門とも言われ、それを担当できるのは、年間1〜2名の助教授クラスに限られていた。それをシンポジウム形式に変えて、もう少し門戸を広げることになり、その第1回が昭和48年と決まり、昭和46年のはじめに演者の選考が行われた。当時私は名古屋大学産婦人科に入局して10年目の若造であり、これに応募するなど夢にも思っていなかったが、恩師石塚直隆教授の強い薦めで、応募することになった。その時の学術委員会の委員長が坂元正一教授であった。委員会選考の結果、私は次点となり、その結果が理事会に報告されたところ、当時大阪市立大学教授であった須川倍理事が席上強く私を推薦され、委員会差し戻し、再選考となり、最終的に私が演者の一人に加わった。

 坂元正一教授は、きっと嫌な思いをされたに違いない。そこで、選考から発表までの2年間、この3人の教授の恩に応えるよう死にものぐるいで研究に没頭した。坂元先生に嫌われているのではないかという私の心配は、先生の大きな心でかき消してただいた。

 ある日、先生から思いもかけぬ誘いをいただいた。昭和54年世界産婦人科連合学会が坂元会長のもとで開催され、その翌年、これに出席された欧州・米国の重鎮の教授から招待を受けているので一緒に行こうとの誘いであった。日本各地から総勢16が参加し、訪問先では施設見学とともに、各々の研究を発表討論した。この長期間に及ぶ旅行は、私にとって生涯の友を作ってくれたし、研究への情熱を焚き付けてくれた。まさしく先生のお陰である。悲しいかな、16人のうち、既に重岡一、外西春彦、新井正夫、桑原慶紀、西島正博の各先生が他界され、この度、団長の坂元先生までも失ってしまった。

 先生の自称弟子は全国に広く分布し、先生から多大な影響を受けた。まさにカリスマであった。これらの若い医師たちを啓発し、日本の周産期医療レベルを世界一にされたと言っても過言ではない。

 また、私は日本産婦人科医会において筆舌に尽くせない程の薫陶をうけた。これを述べるにはあまりにも字数が少なく、他に人に譲ることにしたい。

 今はただ、先生の偉大な功績をお讃えし、心よりご冥福をお祈り申し上げるばかりである。

坂元先生の思い出 

東京都 安達 知子

 先生のお名前を初めて知ったのは、私が研修医2年目の1979年で、その年の10月に日本で初めてのFIGOの会長をなさった年でした。今にして思えば、先生の顔写真の載ったセカンドサーキュラーを見たからでした。しかし、東大教授で国際学会の会長でいらっしゃる先生は、とても遠い雲の上の存在でした。時が経って、1984年、東京女子医大に先進的な母子総合医療センターを開設すべく、初代センター長に東大を退官した先生が就任なさいました。初めて病院を視察された時、偶然研究室でホルモン代謝のオートラジオグラフィをしていた私をご覧になり、主任教授不在であった時期でもあることから、研究の指導、日産痕学会抄録作成の指導、学位論文の指導をしてくださいました。東大の教室員でも卒業生でもない私に、たくさんの時間を割いてくださり、「私が女子医大で研究指導する、最初で最後の医局員です」と、おっしゃってくださいました。

 先生は女子医大の教室員や同門生を前に所感を述べられたり、挨拶なさることが多々ありましたが、いつもその時の世情を反映した出来事、ちょっとした逸話や話題となっている著書などの一節から、生き生きと面白く、ロマンを感じさせる雄大なお話につなげて話され、誰もが先生のお話を楽しみにしていたものです。

 その後、第1回国際周産期学会の会長を務められた後、女子医大を定年退職されましたが、その少し前に産婦人科医会の会長に就任されました。私は医会の幹事になったことで、またご指導をいただく立場となり、3年前には先生がセンター長を務められる愛育病院へ勤務移動したため、さらに先生の下で、臨床、研究、社会的活動をさせていただく立場になりました。

 先生はいくつになられても、学会や研究会では一番前の席に座られ、熱心にメモをとって勉強なさる方でしたが、さらに大変記憶力のよい方で、若い医局員の発言や研究活動などを大変よく覚えていてくださり、さりげなくサジェスチョンしてくださったり、褒めてくださったり、その人の興味のある話題を提供してくださったりと、分け隔てなく、若い人たちにも大変優しいお心遣いをされる方でした。

 先生の弟子の1人にしていただいたことは、私にとって大きな幸せです。坂元先生、どうぞ安らかにお休みください。

お別れの時 

東京都 岡井 崇

 2月4日、新宿へ向け走らせていた車を道路脇に止め、私は、いつもしないワイシャツの第一ボタンを掛けてネクタイを締め直しました。亡くなられる3日前にお見舞いに伺った時、先生はもう目を開けては下さらず、お傍にいたその数分間は私の記憶が欠損していて、その時、何と言葉をお掛けしたかも、今は思い出すことができません。それから1カ月、ついに“お別れの会”の日が来てしまったのです。泣いてはいけない、献花に訪れる大勢の人たちの前で恥ずかしい、と思ううちに涙が滲んで目の前が霞んでまいりました。

 先生は恩師の一言で表し尽くせない大きな存在でした。産婦人科医師として、今私が持つほとんどは先生から授かったものです。祭壇の上に飾られた先生のご遺影を見つめていますと、お元気な頃のお姿が彷彿として蘇ってまいります。FIGO東京大会で礼服に赤い棒を掛けて開会の言葉を述べておられる先生、第1回国際周産期学会で天皇皇后両陛下を先導し諷爽と入場してこられた先生は、産婦人科の偉大なリーダーでした。私たち教室員はその堂々たるお姿を誇りに思い、胸を張ったものです。公式の場での先生のお話は、いつも同席者の志気を鼓舞し、強い力で私たちを牽引する言句に溢れていました。そして、ご自身の力でそれを次々と実行してこられたのです。これ程頼りになる教授はいない、と教室員の誰もが思っておりました。中でも、先生の創始されたME研究室に入れていただいた私は、直により多くの教えを受けた果報者だと思っております。国内外の学会にお伴することも多く、先生の素顔を存じあげている方だとも自認しております。私は、先生に諭されたことはあっても叱られた記憶がありません。

 私的な場でも、先生は常に暖かく、優しく、広いお心で私たちを包容して下さいました。その大きなお背中を眩しく感じながら、よちよちと後に続く私たちを時々振り返っては、少しは成長したな、と目を細めて下さいました。

 東大を退官された後も日本の産婦人科医療の向上に情熱を傾けてこられた先生は、現在の危急の事態に道遥としてはいられず、つい先日も、自分たちの力でこの難局を打開しようと熱く語っておられました。そんな時勢の真只中で先生とお別れしなければならない無念は言葉に尽くすことができません。

 今、弔辞の朗読が終わろうとしています。異口同音に「本当にありがとうございました」が結語です。ここに参列しておられる多くの方々が、皆同じ気持ちでいらっしゃることでしょう。私たち門弟は、それと共に、先生のご遺志を引き継ぐのが務め、との思いも強くしております。

 坂元先生、天上から見ていて下さい。心安らかにお眠りになられる時がきっとまいります。35年にわたるご指導とご恩への御礼、と先生との思い出のすべてをこの菊の花に込めて、ご霊前に捧げます。

 

 

君の動きは僕の意志だ

東京都 北村 邦夫

 「北村君の行動を全面的に支持するから精一杯やりなさい。君の動きは僕の意思だと思っていいよ」

 忘れもしません。低用量経口避妊薬(ピル)の承認に向けた戦いの渦中のことでした。実際、先生はピルの承認が遅れたままになっていることに苛立ち、当時の山口事務次官と接触し、坪井日本医師会長に書簡をしたため、森喜朗自民党幹事長の選挙参謀とも言われた日母会員との連絡などを精力的にお取りいただきました。低用量経口避妊薬の承認への戦いが佳境に入った1999年春のことです。そして遂に1999年6月、米国に遅れること40年、国連加盟国中最後の承認国となりました。

 2006年2月に「低用量経口避妊薬の使用に関するガイドライン」が改訂された折りにも、2004年8月に改訂の話が持ち上がってから1年が経過する中、「僕が交渉してみよう」と日本産科婦人科学会武谷雄二理事長との調整役を買ってでてくださいました。

 そんな先生と一昨年の10月末、秋の奈良路を散策する機会がありました。ある寺に参拝した時のことです。「北村君、仏像を前にした時に人は座ろうとするが、それは間違っている。仏像の目が自分の日とぶつかり合う位置を選ぶことが大切。したがって立つこともあれば座ることもある。自分が仏像から見られていることを感じ取れた時に人は謙虚になれる」と。そう指摘されてみると確かに「見つめられている」というよりも「見透かされている」ようで従来経験したことのない緊張感が体全体に走りました。

 先生は絵画の世界でも著名な方で、繊細なタッチで描かれた絵が日本産婦人科医会報の一面を飾ることも時々ありましたが、仏像に見入りながらしばし瞑想にふけっておられた先生の姿を横で拝見しながら、ひょっとしたら心の中でペンを動かしているのではないかと思ったものです。

 日本の産科医療の危機とも言われる今日、その打開のためにまさに働きずくめだった先生の日常を思うにつけ、先生におかれましては天国でごゆっくりとお過ごしになられ、旧友との再会の日々をお楽しみください。(合掌)
 

どれだけ勇気を与えられたことか

兵庫県 小林 正義

 先生が神戸出身ということもあって、早くから色々とお付き合いをさせてもらっていました。特に、私が医会の理事、監事になってからは、色々な面でご指導いただきました。また、再々にわたり神戸や京都でゴルフをしたり、食事など楽しんだことも、昨日のように思われます。年齢が近いということもあって、お友達のようになれなれしくさせていただきましたが、長い間の数々の思い出の中から、神戸に関係ある思い出を1、2記して、先生を偲びたいと思います。

 その一つは、昭和5711月の故東條伸平先生の告別式です。坂元先生は、当時東大教授でしたが、FIGO会長と事務総長の関係で東條先生とは特に親しくされていました。告別式で、坂元先生が唯一人、弔辞をお読みになりました。大勢の参列者がみんな感動する立派な弔辞で、先生のとうとうと、そして、話しかけられるようなお言葉に、涙する人が非常に多かったことでした。今でも、私たち同門のあいだでは語り草になっています。

 二つめは、平成7年1月の阪神淡路大震災の時です。その節は、本部の先生方、全国支部の先生方にお見舞をいただき感謝に堪えません。震災直後、電話が非常にかかりにくい中、坂元先生からは何回も電話をいただき、激励していただきました。そして、どうしても一度見舞に行くとおっしゃられ、交通がほとんど寸断されたなか、大変苦労して、当時の清川幹事長と共にご来神いただきました。大学病院の玄関でお二人にお会いした時は、思わず目頭が熱くなりました。その後2月に入り、日母おぎゃー献金基金より、心身障害児施設などの災害に対して義援金を贈呈下さることになり、新幹線はまだ新大阪までしか通っていない時、代替バスなどを乗りついで、当時の松井常務理事と共にご来神いただきました。県庁で贈呈式が行われ、その後、多くの被災施設に分配贈呈し、大変感謝されました。

 こうして、震災直後の交通が非常に不便ななか、二度にわたりご来神いただき、お励ましをいただいたことは、私たち会員にとって、どれほど勇気を与えられたことでしょう。当時を思い出して、感謝に堪えません。

 昨年10月の郡山市における学術集会ではお元気でした。懇親会の折、先生に引っぱられて一緒に写真を撮ってもらいましたが、これが先生との最後の写真になろうとは……。その節、来年春の日産婦学会(4月)が終わったら、ゆっくりとご来神いただき有馬温泉でも、と申し上げると、喜んで必ず行くよと言っておられたのに、実現できず残念です。今はただ、ご冥福をお祈りするのみです。

 

何物にも替え難い一生の宝宮崎県 

大淵 達郎

 昭和48年に第3回目のFIGOがモスクワで開催された。当時はまだロシアではなくソビエトであったが、クレムリンにもモスクワ大学にも中に入れるということであったので、これはチャンスだと参加してみた。開会式でまず驚いたのは、雛壇の正面中央近く大変目立つ場所に坂元先生のお姿を拝見した時であった。その6年後の昭和54年には東京でFIGO会長をしておられる。

 ずっと以前、エーザイから「クリニシアン」という小冊子が毎月出ていた時期があった。その表紙裏の頁に各科有名教授の随筆が掲載されており、興味を持って拝見したものである。普通片面1頁のものが多かったが、たまたま拝見した坂元教授のものは前後2頁にわたる甚だ熟のこもった小品であった。その文章で初めて坂元先生のご先祖は都城島津家御家中の武士であられることを知った。宮崎県都城市内のやや西寄りに庄内という土地があるが、その後漏れ承ったところによるとお墓は元は庄内にあったというお話であった。都城から神戸に出られて三代になられるともお聞きした。

 日母九州ブロック協議会をはじめ様々な会合で先生には何度も九州にお出でいただいたが、特に宮崎ではすっかりくつろいでリラックスしていただいたような気がしている。酒席で様々なお話も承ったが、この偉大な人格の一端に触れさせていただいたことは、小生にとって何物にも替え難い一生の宝となった。

 先日「お別れの会」で京王プラザホテルに参上し、大勢の旧知の先生方にお会いした。私は支部長を後輩と交替して5年になるが、医界における産婦人科の勢力がまだ今よりも盛んであったような気がする。それ以後の幸い時代が先生に随分ご苦労をお掛けしたのではないかと拝察する。

心からご冥福をお祈り致します。

 

早すぎた先生とのお別れ

京都府 平井 博

 坂元先生からは多くの直筆の書簡をいただきましたが、平成181019日付の最後となった手紙には「私も来年は、会長立候補しませんし、片付けられる雑事は始末するつもりです。どんなに楽になるか今から楽しみです。いずれお会いできれば積る話がはずむでしょう。敬具」と書かれていました。私が福島での日産婦医会学術集会は欠序しますが、会長退任の平成19年3月の総会には必ず出席する旨の手紙に対するお返事でした。

 坂元先生とは昭和41年三谷 靖会長のもと長崎で開催された日産婦学会総会の懇親会以来のお付き合いです。学会あるいは日産婦学会委員会などでお会いするたびに親しく話をさせていただきましたが、日母の理事、常務理事、日母産婦人科大会会長など坂元会長とは縁深くお付き合いすることになり、学者として人間として尊敬する先生のもとで日産婦医会の発展と改革に協力させていただきましたことは非常に幸せでした。

 平成10年、日頃ご多忙な先生を慰労するため、京都伏見へ遊びに来られるよう申し上げたらご快諾され、4月29日、30日の連休に桃山御陵、黄築山萬福寺、宇治平等院を観光、翌日田辺ccでゴルフを楽しみ、伏見の小さな料理店で歓談して帰られました。気楽に話し合える集いがお気に召したのか、その後平成11121314年と5回伏見に遊びに来られ、神戸の小林正義先生とご一緒に第1日目は観光、第2日目はゴルフの会を持つことになりました。私の家にも2回泊られ、くつろいだ時間を過ごされたことが忘れられません。一緒に飲もうと貴重な清酒一升瓶をさげて来られたのには驚きました。

 会長職から解放され、日本産婦人科医界の頂点を歩まれた先生の昔・今・明日を語っていただきたかったし、文才に秀でた先生の随筆も読ませていただきたかった。そして素晴らしい絵画も鑑賞させていただきたかったのですが、果たせませんでした。

惜しい人の生命を奪う病魔を憎むのみです。 祈祷

 

一号生徒 

鈴木 正彦

 私が昭和1712月海軍兵学校へ入校した時、坂元さんは最上級生(一号生徒)でした。私は2年後輩(三号生徒)になったわけです。学科については多くの教官がいましたが、放課後になると今までの横のクラスごとの教育が縦になり、各分隊に分かれて海軍士官としての躾が厳しく行われます。主として一号生徒が三号を鍛えるわけですが、この時鉄拳が数多くとびます。生徒の数が多かったので私は直接坂元さんにしごかれなかったのですが、坂元さんのクラスの卒業式の時、坂元さんは成績優秀ということで天皇より御賜の短剣をいただいたことで初めて知りました。

 坂元さんは卒業後海軍航空隊へいきました。私も2年遅れてやはり海軍航空隊へいきました。同じ航空隊でも先輩たちはいろいろ分かれたわけですが、私は少し経ってから千歳の航空隊でゼロ戦に乗っていました。坂元さんはすぐ隣にあった千歳の航空隊で私のクラスの教官として艦上爆撃機に乗っていました。そして終戦を迎えた時、坂元さんは海軍大尉、私は海軍少尉でした。

 二人とも大学を受験、各々東京大学、新潟大学へ入学しました。卒業年度は一緒になったわけですが二人とも母校の産婦人科教室へ入りました。その後私は昭和45年、新設なった杏林大学へ教授として着任しました。

 坂元さんは私より少し遅れて東京大学の教授になったわけです。そして日本産科婦人科学会、また同地方部会の会員として一緒に過ごしました。こう考えると二人は本当に因縁浅からぬ仲だったわけです。坂元さんの業績については、私が今更ここで云々する必要はありません。周知のことですので。

 比較的晩年だったと思いますが、学会の時話をしました。あまりにも忙しい生活をしているので奥様に対するサービスが欠けていたことを後悔しているとのことでした。私にとっても耳が痛い話でありましたが。

 私にとって生涯一号生徒であった坂元さん、どうかゆっくりと安らかにお眠り下さい。

坂元正一さんのご逝去を悼みながら

青森県 品川 信良

 その母校東京大学に対してばかりでなく、日本産科婦人科学会、FIGO、日本産婦人科医会などに、長年にわたり絶大な貢献をなされた坂元さんのご冥福を、心からお祈り申し上げます。

 思えば、貴方に私が最初にお会いしたのは、昭和30年か31年頃、東大の構内で、何かの学会があった時にでした。私が座っていたベンチの隣りに、神戸からいらしたという、極めて気品のある老紳士が座っておられました。何とはなしにその方とお話をしましたが、実はその方が、貴方のお父様でした。「うちの倅は血の気が多く、海兵に行ったものですから、皆さんより遅れて医者になりましたが、どうぞよろしく」などと言われたことを、今でもよく覚えています。そんな話をしているところへ、間もなく、長谷川敏雄(元)教授と一緒にお見えになったのが貴方でした。貴方のお父様は、長谷川教授とは同門の、旧知の間柄でした。

2度目に貴方にお会いしたのは、昭和3536年頃、私が小林教授の広汎子宮全摘術を見学に、お邪魔した時でした。

「私の手術のアトラスを措いてくれた名画家」として、小林教授は貴方を紹介してくれました。貴方は幼少時、「将来は画家になるように」と、小中学校の先生方などに勧められたというお話も、その時小林教授から伺いました。

 それはそうと、貴方は若い時、海兵で鍛えられたせいもあってか、いわゆるMEにも極めて明るく、この方面でも大きな功績を残されました。産婦人科のMEと貴方は、切っても切れない関係にあります。

 しかし、貴方の最大のご功績は、その抜群の統率力にあったかと思います。もしも、旧帝国海軍が、今に、その後も残っていたとしたら、貴方はきっと連合艦隊司令長官などにもおなりの方と、私は遥かにお見受けして参りました。

 そのせいもあってか、昨年の秋(実は貴方にお会いするのはあれが最後になりましたが)、産婦人科医会の理事会の際に、大野病院間題などで苦労しておられた貴方のお姿には、昭和1820年の海軍の幕僚のそれにも近いものを、私は感じました。あのご心労などが、あるいは貴方のご寿命を縮めたのではないかとも、ひそかに考えております。

 何せあの難職に、18年も留まられたのですから。

 貴方は余りに有能で、「余人をもって代えがたい」お方でした。しかし、「もう少し休ませてあげたかった」と申し上げて、私のお悔やみの言葉を終わります。

 

哀悼文 

神奈川県 関口 允夫

 坂元会長に心から哀悼の意を表します。

 最も古い思い出となると、東大教授時代の頃のゴルフの一件である。

 正確な時日の記憶はないが、皇后の手術をされた年の3月で、手術をするかしないか迷っていたらしい。よく、疲れると鎌倉の佐藤病院へ来て所在を隠したり、私とゴルフをしたりして気分転換をしていた。

  二人だけでよいから木曜日にゴルフに行くとの連絡があったのに、前日にキャンセルをしてきてその月末に皇后の手術が報道されて迷っていたのがわかった次第。

 それから、ご母堂が皇室の慶事を前にして、自ら尊厳死、をして息子の喪中を避けたという裏の事情を、恐らく誰にも言えなかったことを私にだけは知らせてくれたのだろうと思っている。

 なお、彼は海軍大尉でこちらは少尉候補生なのだが、医局も違い立場も異るので互いに気を許していたともいえる。

坂元大尉安らかに眠れ。合掌。

 

 

感謝の気持ちでいっぱい 

 

岩手県 嶋  信

 

先日(2月4日)先生の「お別れの会」(於新宿京王プラザホテル)に参加する機会に恵まれ、先生の遺影を見ながら数多くの教え子(医師、助産師、看護師、患者様など)の方々と共に献花して参りました。その時改めて先生の遺徳の素晴らしさに感動しました。ご生前の数々の偉大なご功績に対して、産婦人科を学んだものの一人として感謝の気持ちでいっぱいであります。特に日本産婦人科医会(旧日本母性保護医協会)の会長として、約18年もの間、われわれ会員に示唆するもの多大なものがありました。

 地方都市へ会長がわざわざ来られるということは数多いわけではないと思いますが、たまたま平成8年101213日に第23回日母産婦人科大会が東北の地岩手県盛岡市において開催され(当時の日母岩手県支部担当)、その際に広報担当の役員の一人として参加しました。この時前年の開催地視察では役員との懇親会での楽しそうな酒宴で大いに盛り上り、そして本番の日母産婦人科大会の前日、平成8年1011日には地元の著明なゴルフコース、メイプルccにおいての親睦ゴルフ大会は、ショットガン方式でのスタートを取り入れ、久方振りの青空のもと、先生も張り切って参加されました。その前年の京都大会にも小生も参加しましたが、ゴルフを楽しみ、仲間と親しく語らいながら、スコアを気にせず、思い切ってプレーすることがその日一日のストレス解消にもつながると思います。このような親睦にも率先して参加されていました。

 約10年前の楽しそうな先生の思い出の一端ですが、同じゴルフコースでプレーできたことを幸福に思います。これからも先生の訓導を受けられた方々が、後々産婦人科医療を支えてゆかれることを思うと魅力ある産科医の人的増員計画にも大いに取り組んでいただきたいと切望する次第です。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

(元日本産婦人科医会会員)

坂元先生との医局時代

長野県 中澤 弘行

 昭和30年春、東大産婦人科へ入局し、最初の分娩勤務でのハウプトが坂元先生だった。父親が東大大正9年卒の産婦人科での同級生同士で御父君も存じ上げていたし、また海兵72期と77期と戦争の時には同じ志であったことから非常に親しくしていただいた。

 当時小林隆教授の宿題報告の準備の最中で、先生は兎の椎骨動脈を結紮して性中枢への影響の実験中で後にこの論文で学会賞を獲得された。その合間に臨床医としての手ほどきを懇切丁寧にしていただいた。

 また、小林教授の名著「子宮頸癌手術」の写真作図を絵の才能を活用されて見事な版を作られたが、夏休みには解剖学教室で、独りで骨盤の解剖を勉強れていた。関東中央病院へ出向されていた頃「ダンプカー」のあだ名で活躍されていたが、私と二人で手術の勉強にと慈恵医大の樋口教授の開腹術や杉山四郎先生の東京オペグループの膣式や開腹の見学に出かけたり、小林教授の手術書を作るべく私が症例を準備し、術前に教授・助教授・講師で手技等について討論、記録し、坂元講師が写真を撮っていたが、中途で私が長野日赤へ赴任して中断し、幻の本になったのは残念であったが、手術についても沢山教えていただいた。

 大学へ講師で戻られた時、医局の研修システムの改変などを講師室で検討したりし、たまたまキャップがほしかったME研究班を引き受けて下さるようにお話して周産期関連の方向へ力を尽くしていただけるようになり、従前の内分泌研究と共に発展されたのも思い出である。

 昭和46年私の開業に際して、先生の筆になる「中澤産婦人科病院」の黒御影の銘碑は病院の前を飾る記念碑である。

 昭和63年秋、関東連合地方部会の宇都宮のホテルの部屋で日母会長出馬を要請し、決意されたのを受け直ちに真田常務理事に伝えて、体調不調であられた森山会長からの引き継ぎ態勢が始まった。それ以来会長とは理事、代議員、支部長として長い間のお付き合いが始まったのである。そして昨年郡山駅で引退の挨拶を終わってホッとした先生に手を振って別れたのが最後でした。合掌。

 

常に志を高く持ち

福岡県 長野 作郎

 先生が「借恩」の追憶から、ご自身の命運を感じられて、日母に夢とロマンの華をとの思いで会長に就任された時から、理事として8年間、その後もさらなるご厚情に接してまいりましたが、先生の強烈な理念と信念に感化されました。

 福岡県支部の50年誌にいただいたご祝辞にも、産婦人科医界が当面する数々の問題に対処するに当たっての信条、倫理観について、また時代の変遷に適応するためには常に志を高く持ち、自分から変わるべきことを説かれ、さらに、20世紀の夕焼けが21世紀の朝焼けにつながることを常に確信して窮状を打破しようと。

 しかし、その後は「仏典」によられ、理念と現実の隔たりを嘆かれる先生の心の遍歴を垣間見る思いでありました。

今は亡き先生のご冥福を祈ります。

 

「マラケシュの水売り」のご褒美

東京都 松峯 寿美

 坂元正一先生、ご入院されたとは伺っていましたが、こんなに早くお別れの時が来るとは思いもしませんでした。

 昨年6月に私の母が他界したことをお知らせした折に、先生はすぐにお悔やみのお便りを下さいましたね。「拝復、このたびは御母上様ご逝去の由承り、心からおくやみ申し上げます。静かな、よいお別れをなされた由何よりでした。

 小生も同い年、そろそろ両方の気持ちが判る年となりました。お疲れが出ませぬように。お悔やみまで。敬具」

 今、読み返すと短い文章の中に医師であればこそ悟るご自身の病状と遠からぬ穏やかな引き際を心静かに待っておられたような先生の心が汲み取れて涙があふれてきます。

 昭和59年春に東京大学産婦人科教室を退官されると、すぐに私たちの東京女子医科大に赴任されてわが国初の母子医療センターを立ち上げられました。常に目を世界に向けて日本の母子医療のレベルアップを心がけられました。日本産婦人科医会会長の多忙なさなかに、′第1回世界周産期学会を日本で会長として主催、国際不妊学会副会長就任、WHO国際人口会議委員などで世界中を駆け巡りながら、私のはじめての実用本『女性の医学ブック』の推薦の言葉を書いてくださいました。一緒に月経困難症の章の内容をチェックした時、私が、「この痛みは経験した女性にしか理解できないと思います」と言うと「そうか。それなら医者はすべての病気を経験しなければなりませんね」といって笑い合いましたね。それ以後はお会いするたびに、あの本は売れていますかと心配して下さり、その度に私は恐縮しました。数年後に「再版が決まりロングセラーになりました」とご報告すると、嬉しそうにモロッコ旅行の印象から「マラケシュの水売り」と題した赤色の印象的な絵画をご褒美にくださいましたね。

 いま日本の大変な産科医療の嵐の中、東京の一開業医として、こんな時、坂元先生ならなんて言うのかしら、どう行動なさるのかしらと考えながら毎日新しい命をとりあげています。

 坂元正一先生、たくさんのご指導ありがとうございました。そしてさようなら。風となって私たちのそばを通り過ぎる時ちょっとおしらせ下さい。

 

坂元先生とわたし

兵庫県 松本敬明

 先生と私は同門、旧制中学の神戸一中(兵庫県立第一神戸中学校)で、私が39回卒業(昭和13年)、先生が42回卒業。マラソンに例えてみれば私が最前列で先生が後方のスタート。最初の給水地点は日産婦学会評議員で、私が昭和36年からに対し、先生は昭和40年以降であり、ここでは2期4年間で一緒であった訳ですが、所属も兵庫県と東京都と異なっていたこともあり全く接点はありませんでした。

 やがて昭和から平成へ、先生は日母(当時)会長とトップに立たれ、私は昭和末期から2期4年間日母の広報委員としてご指導いただき、かつご協力させていただいておりました。私は昭和42年勤務医を辞し開業しておりましたので『日母医報』でご指導いただく以外先生との接点はなくなりました。昭和47年の日産婦学会総会(於岡山)でシンポジウム「産婦人科領域におけるコンピューターシステムの導入」を担当しておられましたが、開業・分娩を取り扱っており出席できませんでした。

 そのような中で、唯一の接点が平成6年5月1日、母校神戸一中の後身、現神戸高校の創立記念日の行事の記念講演「育まれしいのち」でした。ただし、ご多忙の先生と親しくお話しできる機会は得られませんでした。マラソンで先生はトップでゴールイン、表彰台に立っておられ、私はなんとか完走を目指しているというところでしょうか。富士山を静岡サイドからだけでなく長野県の方から眺めるように、巨峯坂元先生を変わった視点から仰いでみたらと存じた次第でございます。いろいろありがとうございました。

 

燐光のごとし坂元ロマン

静岡県石川 幸次

 森山前会長の時代より日母本部の広報委員会に属していた私は坂元会長時代になってからも続いてそのメンバーを再任、委任されてきた。森山前会長が亡くなられたあと、当時の北井徳蔵副会長ら幹部が坂元先生に日母会長就任を懇願したことを憶えている。なんとかご承諾いただいたあとは本当に日母の基軸として、顔として、リーダーシップを発揮していただいた。もちろん日母に心血を注いだのは坂元先生だけではなく、多くの方々の尽力と結集により日母活動は継続したのではあるが。

 おそらく誰しもが思うことであろうが、先生は東大教授時代から私どもが立っている場所よりずっと先を歩いていて、しかも絶えず前へ前へと進まれていた方であった。人が持っていない、また持ち得ないものをたっぷり抱えていらした。さらに私どもを魅了したのは、あの、人を包むような笑顔と坂元ロマンであった。平成元年、当時の日母(現在の医会)会長就任にあたっての会報掲載の言葉にもそれらは表れている。また、手元にある平成7年読売新聞社編「日本一かわいいわが子の誕生に贈ることば」の巻頭のことばにも坂元ロマンは輝いている。

 平成7年、会長を囲んで広報委員会が座談会を開いた。不躾にも「坂元先生にカリスマ性がある間は……」と私は直接言った。少しお酒が入った席であり「組織の長として一将功なりて……であっては……」なんて厚顔にも口にした。そんな不遜な言葉もニコニコしながら開いてくれた。それゆえさらに大人であるという印象を強くした。

 いま振り返ってみても坂元体制18年は長かった。あるいは長すぎたかもしれない。かつて日母ファミリー、日母フレンドと言っていればよかった平穏な時代より、極めて困難な医療・医業に直面する今、「カリスマ性だけでは、ロマンだけでは……」「戦う日母・医会であらなければ今日は……」と言う私の声を坂元会長がもしお開きになられたらなんとお答えになられるか……?「いや人はいつまで経ってもロマンと前進だよ!」とおっしゃられるかもしれない。

 2月4日、京王プラザでの「お別れの会」の遺影にこうべを垂れ、いままでの御礼を申し上げた。昭和54年に坂元先生がなされた東京FIGO懇親会で流れたホルスト「惑星」の音楽がその時聞こえたような気がした。

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