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平成22年5月5日 校正すみ

空遥か

山田 良彦

押本!  君もとうとう逝ってしまったのか。

11月8日、入院の報、奥様のお許しを頂いて、翌日見舞う。大分やつれていたたが、「ヤア」と迎えて呉れた。余りの長話もと心配したが、何のその、昔の記憶を次から次へ。

「実家が宇佐空の第4旋回点の真下で、中学生の頃から飛行訓練を見ていた」

「兵学校の1年の休暇に宇佐空を訪ね、肥田眞幸さん(67期)に97艦攻に同乗飛行させて頂き、飛行将校に憧れた。」

「霞ヶ浦から百里に移る時、2、3日の休暇あり、遠くて家に帰れない岩村舒夫、田村尚信、貴様と俺で真冬の塩原温泉の有名な茗荷屋(現存)に清遊した」

「高橋義郎と草薙隊の話」

「受持教官は荒カンこと荒瀬中尉(71期)」

「中川とのペアでの降爆疑襲の際、ヨーイ・テー(爆弾投下の合図)の連絡悪く、疑襲体制乱れ、着陸後、薬師寺隊長(66期)の前でヨーイ・テーを連呼させられ、ギザ(罰金)を取られた」等々次から次へ、挙句の果、「貴様は俺の10日兄貴だったなあ。貴様の誕生日まで命があれば、祝ってやるよ」と。

 兎に角、見舞いする方がびっくりするばかり。余り疲れさせてもと「オイ、辛いだろうが頑張れよ」と手を出すと握り返して呉れ、「オス」と挙手の礼をするとベッドの上から「オス」と挙手の答礼をして呉れた。

 

 1114日、再び見舞う。前日お通じがあったとかで前回に比べ、顔色もよく生気が蘇ったように見受けられ、梅干や故郷の漬物をほんの少し口にしていた。奥様も少し気分が良いようですとのお言葉。病院で失礼とは思ったが、「飛行学生の歌」「艦爆隊の歌」「別府音頭」を歌ってやった。彼も非常に喜び、手調子を軽くとりながら併せてくれた。

 「百里卒業の折、百里―鈴鹿往復編隊飛行があったが、往は貴様,復は俺が前席のペア。編隊長の故長尾栄二郎が目標の船橋の鉄塔を見損じ帰着が遅れた」と言う。60年前のことを言われて、只々唖然、握手、挙手は前回通り。少しずつ持ち直してくれるだろうと祈りながら帰る。

 彼は昭和27年片肺を取り、61年胃ガンで猛典先生に胃の大半の切除手術を受けている。その2年後、小生も同じ途を辿った。ところが同じような経緯なのに、貴様は割合食えるが、俺はソバ2、3口でフウー、また2、3口でフウーだ。寿司を食べても半分以上小生の胃袋に。何故!どうして!と何回も聞かれた。カナダ旅行の最後のお別れパーティでのオマール海老も大半頂戴した。済みませんでした。

  カナダ旅行の際、許可を得て、コックピットに入り、極光を眺めながら飛行学生の歌を歌い、ヨーロッパ旅行の時はモスコー経由でシベリヤ上空を飛んだ際、

「ウラルアルタイ手挟んで

    コンロンヒマラヤ下駄にはき

 北シベリヤを飛び行けば

    モスコーにや既に数時間」

と口ずさみ本当だなあと相槌を打ちながら飛んだことは忘れられない。

 平成五年左近允君のご好意で斉藤茂太氏、応蘭芳女史等の一行に貴様と2人同行、鹿屋基地一泊旅行に参加した。今でも帰りのP2Jのフライトで見張り室(操縦室の真下で四面硝子張り)の中にへばりついて楽しんだ思い出、また、その翌年同様の経緯で眞鍋君、山下(茂)君を加え、硫黄島への一泊フライトに参加、摺針山砲台、海軍濠跡等々その戦跡のすさまじさに言葉を失い、同島から出撃散華していった期友の鎮魂を祈ったこと、何時までも忘れ得ない。

 

 国内旅行もアチコチ同行したが、中でも足摺岬中心の四国旅行で四万十川の中村で、浴衣がけで「愛染かつら」の滑稽な踊り、初めて君の踊りを見た女性陣はエエッとびっくりしていたようだ。

 

 また、53年押本家の改築と品川弘君の退院祝いを併せ、押本家でバーベキューを楽しんだ。集まった者、品川、冨士、高橋、眞鍋、加藤、押本、樋口、足立と小生、例によって例の如し。その際、押本の書斎の机の上に、新婚の初々しい奥さんの写真を発見、その裏に記されていた押本の一言に皆ウーンとうなった記憶がある。9人中6人が鬼籍に入ってしまった。

 ゴルフは体調もあり、余り積極的とはいえなかったが、体調許せば参加して呉れた。58年の江田島クラス会の帰路、岩国奥の美和カントリークラブで湘南のゴルフ愛好者で湘南CGCを発足させた。優勝者を「湘南艦隊司令長官」と称し、高橋君寄贈の軍艦旗に、美和で優勝した押本が脚立を寄贈、初代長官のペナントを吊るすことになった。この会合は今でも続いているが、年ごとに参加者が減り、寂しい限りだ。軍艦旗は旅立つクラスのお棺に覆われ、クラスの面々に担がれることも間々あり、今回もお役に立つことになった。

 

 彼は五臓六腑が欠如した障害体にかかわらず、本当に努力家であった。戦後、復員船、掃海艇の航海長等を約2年勤め、甲種一等航海士の免許をとった。名実共に空と海の名パイロットと言う訳だ。その後30半ばにして大学に入り、日本能率協会、海外移住国際交流関係の業務に携わり、南米を主に、ヨーロッパ、アメリカ、カナダ、豪州等にその足跡を残している。退職後は富山県南米移民史の編集委員としてその執筆に当る傍ら、横須賀市民大学で「奥の細道」「近松」「西鶴」「万葉集」等を受講、いつぞやは「市の職業訓練の造園科の修業が終わったので、貴様の家の木の手入れをしてやろうか」との電話があったが、落ちて怪我でもされては大変と丁重にお断りした覚えもある。兎に角障害を持った人間の技とも思えぬ八面六臂の努力と好奇心の強さ、ただただ恐れ入る。

 兎に角、一旦目標を定めると「真白いマフラーをなびかせてニッコリ笑ってヘルダイブ、艦爆兄さん素敵だね」ではないが、目標に向かって一直線、微に入り細にわたり自分が納得するまで追及して已まなかった精神力に只々頭を下げ恐れ入るのみ。

 

 なにわ会ニュースを昭和48年に引き継いで平成13年まで、29号から84号まで、彼の言わば心血を注いだ結集である。従って時には編集方針に批判が出ると「俺はもうやめた。貴様やれ。」との激しい口調が飛んだり、些細なことで感情の齟齬(そご)を来たしたりしたこともあったようであるが、要するに頑固な反面、責任を負った事は自分流に仕上げて行った。誠にお見事と言う外はない。このなにわ会ニュースの仕事が如何にクラスの団結、結束,交流のきずなとなり、クラスは勿論、遺族の方々から感謝されたか、計り知れないと思う。告別式でクラス代表として樋口兄がその功をたたえ、感謝の辞を述べたのも宜(むべ)なるところであったと思う。

 艦爆35名、戦死22名、戦後死5名、残り8名。寂しさ余りあり。

押本よ! 

最後に飛行学生の歌  「君が行くなら俺も行く  
狭い地球にや住みあいた  やがて行かんマース星  
そこにやナイス(クラス」や  シャン(爆)が居る。」

御冥福を祈る。

(なにわ会ニュース86号51頁 平成14年3月掲載)

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