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平成22年5月13日 校正すみ

浜田一郎君を悼む

富尾 治郎

昨年12月初めに大谷君より浜田君の健康状態がよくないらしいとの手紙を貰った。年末月の多忙にかまけてその儘にしておいた処、29日に久米川君より浜田君死去の連絡があったが、既に葬儀も終っているとの事、年末でもあったので、あらためて正月松がとれてから1月18日にお参りしてきたので、ここにタツ子夫人よりお伺いした事等を記して諸兄に報告すると共に、浜田君のご冥福を心からお祈りします。

浜田君は生徒時代に肺結核となり転地療養の末漸く健康を回復し、一号生徒の時に72期にきたので72期としての期間は9ケ月余りであり、二号、三号時代に同期となった人達とも違い、なじみの少ない存在であったが、彼が72期の一号であった54分隊は終戦時において6名の生存者がおり、生き残り率の多い分隊であった。その中には河口君や大谷君等戦後においても大病を患い乍ら健康を回復し活躍している者もいる強い『生』の星の下に生まれた者ばかりである。浜田君とて同じで兵学校卒業以来一度も会ってはいないが、連絡のない事が無事の証し、また、一病息災で健康なものと思っていた処今回の訃報である。

生徒時代の彼は前に述べたように体調も今一つであり、積極的に一号として活躍するよりも、一寸横から他の一号のやり方を眺めていた処があった。身長は高い方だったが声はボーイズソプラノでやや女性的な感じがしたものである。時として一号のやり方をシニカルに見、出しゃばらない自己を抑制した性格は、闘病生活により得たものらしく、タツ子夫人にもその様に話していたようである。

ともあれ兵学校卒業後艦隊勤務ののち、兵器学生となり航空隊勤務であったが、卒業後のことは知らない。

昭和62年度名簿により生き残りとして戦後復興の任務も終り、悠々自適の生活に入り余生を楽しんでいるものと思っていた次第である。

タツ子夫人によると、戦後一時親戚の仕事を手伝っていたが、健康問題もあり自宅近くの大阪熱処理鰍ノ就職、昭和60年4月同社を停年退職する迄、さしたる病気にもならず元気に勤務していた。退職後は夫婦で旅行を楽しみ、孫(息女が結婚、近所に居住)と遊んだりして楽しく過していたし、又退職時の健康診断でも何処にも異常がなく安心していた。

たまたま、61年8月頃より便秘症状をおこす事があり、時に吐き気を催す事があったがさして気にしてなかったが、62年2月頃より体重が減ってきているので、同5月末兵庫医大病院で診て貰った処、多発性進行性胃癌で胃を全部切除する必要があるとの事、まさか1年前に何もなかったものがこんな事にならうとは思いもよらなかった。6月12日9時間に及ぶ大手術をうけ無事手術は成功した。

7月になって肺炎を起したが是も乗り切り、8月末に退院した。癌にも拘らず全く痛がる事なく、本人は勿論癌とはしらずにいたし、家族としても痛がらないのが何よりの救いであった。ただ、退院の時に、今後食物は好きなようにとらせたらよいと云われたので夫人としては、覚悟はしておられたが、少しでも長生きして貰いたいと思っておられた処、12月になり発熱、病院にゆく気力もなく奥様が病院にゆかれた処、直ちに明和病院に入院することとなり12月20日午後3時35分遂に還らぬ人となった。死の3時間前迄意識は明瞭、最後迄痛がる事もなく極めて安らかな死であったとの事である。

 

戒名は、田徳院慈岳一道居士

ご冥福を祈る。

 

洲空兵器会の弔電

浜田一郎氏のご逝去を悼み ご冥福をお祈りし、ご遺族の平安を祈ります。

洲空兵器会代表幹事 鹿村 和則

 

奥様(浜田クツ子様)の手紙

厳寒の候、皆々様ご健勝の御事とお慶び申し上げます。

籾、此の度は夫、一郎の死亡に際しまして海兵72期クラス会より御丁重なる香典を頂き誠に有難く厚くお礼申し上げます。

生前中は御無沙汰のみで過しておりましたのに御親切なるお心くばり只々感謝申し上げる次第でございます。

昨年6月12日兵庫医科大学病院にて胃がんの手術を行い、6月21日2度目の手術、7月13日頃、肺炎を併発致しましたが、幸い生命は取り止め、8月末日には退院、その後家庭療養を続けておりましたが、12月12日再び入院、お陰様で最後の日迄痛みもなく静かに永久の眠りにつきました。

手術から6ケ月余、闘病生活,その間生命の大切さをよく話し合いました。本人も望みを捨てず頑張ってくれました。今は安らかな眠りを念じております(中略)

 どうぞ皆々様御身御大切に

(なにわ会ニュース58号13頁 昭和63年3月掲載)

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