TOPへ    物故目次

平成22年5月8日 校正すみ

坂田善一郎君の遺骨を拾おうとは

高松 道雄

1226日は、この時期の北陸では珍しく南高北低の夏型の気圧配置で、2日続きの暖かい朝だった。

 日本経済新聞最終頁の阿川弘之の「私の履歴書」を、今まで断片的にしか読んでいなかったので、第一回分から通し読みをしていた。氏の昭和18年、19年、終戦頃の記事を、自分の憶い出と重ね合わせて読んでいた。タイムカプセルに乗って、帝国海軍初級士官当時に引き戻されているような気分に浸っていた。

突然、坂田の奥さんから、「今朝、主人が亡くなりました。」と電話を受けた。後でわかったことだが、彼が自宅で就寝中、26日の未明に「心臓が苦しいから救急車を呼んでくれ。」と言われ、近くの県立中央病院まで運んだとのこと。病院に運ばれる途中、もう意識がなくなっていたのでないか、との由だった。

彼は1年半程前に、直腸がんの手術をしたが、人工腸をつけて彼の店の仕事をしたり、通院したりしていると聞いていたが、最近は県内海軍関係の会合に顔を見せていないので、一度会いたいと思っていた矢先だった。訃報を知らされた時、「シマッタ!」の感じと同時に、当面の問題が先走り、頑を一発ガーンと殴られたような感じだった。

坂田とは、同じ小学校、中学校、そして兵学校へ入った関係だったから、(そうだ。小学校の同級生から順番に知らせてやれば良いな。)と自分に言い聞かせて、少しずつ落ち着きを取り戻した。72期関係は、押本、市瀬、西尾博、鏡に連絡した。小、中、兵学校、県内海軍関係と順次に連絡したあとを反省しながら、「まず之で良し」と、ゆとりを感じていた。あたりがやや暗くなり始めた午後5時ごろ、予め打ち合わせておいた小学校の友人と、一緒に車で彼の家へ出かけた。

拙宅のクラス会の写真、遺影となる

彼の一番末の弟(五人兄弟姉妹)とは顔なじみだったので、快く中へ案内された。室に入るとすぐに彼の写真が目に飛び込んで来た。落ち着いた、いい顔だと思った。遺体と写真の前に、線香、鈴、焼香などの仏具が準備されてあった。室内には、奥さん、娘さん、親戚の人、7〜8人のようだった。小学校の友人にならって心ばかりの焼香を済ませ、遺体のそばにより、友人に続いて顔の白布を少しあけた。穏やかな死に顔だった。やや間をおいて奥さんに、「いい写真ですね。」と言うと、「あれが一番良い写真でした。」とのこと。

601015日に、押本が、富山県南米移住史編さんのため来富した時、(それじゃ、俺の家でミニクラス会といくか。)と、鏡、坂田、押本と拙宅に集ったが、その時の写真(なにわ会ニュース第5428頁掲載)が遺影となった。私にも経験がある。海軍を離れて他の職場にいると、何かとトゲトゲしい。そこで写られた写真には潤いがない。それと比べて、海軍の会合になると一遍にうち融けて、心も和む。家族も一番良い写真と感ずるのも無理のないところだろう。

私も嬉しかった。やはり何かの因縁であろう。

 

お通夜

27日朝、目がさめると、北日本新聞の訃報を見た。坂田善一郎氏(さかた・ぜんいちろう=北陸ディバッグ社長)26日午前2時25分、急性心不全のため県立中央病院で死去、65才、自宅は(略)。葬儀は28日午前10時から同市藤の木、円正寺で。喪主は長男、善之(よしゆき)氏、

元自衛隊呉水雷調整所長、護衛艦ながつき艦長

 金沢の西尾と魚津市の鏡が、葬儀当日私の車で一緒に式に出席することを確かめ、午前中にお寺から富山霊園(火葬場)までの道順を車で実地に検分、午後6時からのお通夜に出席した。クラスからの供物、焼香のこと、駐車場のことなど、式当日の駄目押しをして家を辞した。

 

人生で最も厳粛な瞬間

28日8時30分頃、西尾と鏡が殆んど相前後して拙宅に到着した。最初西尾が、「車で来ようか」。と言っていたが、道順が難しいから汽車とタクシーを利用した方が良い、と打ち合わせておいたのと、鏡には西尾の到着の時刻を見計って来て欲しい、と言っておいたのが奏功したようだ。30分ばかり3人でこれからのことの細部を中心にして懇談、道路事情、駐車場の状況などを考慮して早目に家を出た。

兵学校卒業後、坂田と西尾は二座水偵操縦の方で一緒だったとの事で、西尾にはその時代のことを中心とした彼の憶い出を、私は式を含めて諸々のことどもを、夫々なにわ会ニュースに載せることに打合わせして、弔辞はしないことにした。

葬儀は定刻どおり、大谷派東本願寺の流儀で行われた。71期の中島孝平氏(富山観光ホテル専務)73期の大松、老田、杉森(旧姓平岩)、その他県内北陸海軍三校会(兵、機、経)の有志が出席した。市瀬より、クラスからの供物として花輪か、生花とのことだったので、遺族の意向を汲んで相当額の生花と果物を供えた。源田実参議員、海幕長、元統幕議長の肩書きで矢田の弔電をはじめ、クラス有志の弔電があった。ここに改めて坂田の遺族に代って、お礼を申し述べたい。

西尾と鏡とには、葬儀終了後すぐ解散するということにはしないで、富山霊園まで三人一緒にゆき、その後の行動は遺族の意向に任せようと云う事に予め相談しておいたので、その通りとした。

霊園で坂田の遺体が荼毘(だび)に付される直前の遺族との対面のとき、奥さんの眼からは涙が溢れ涙声にむせび、情をそった。

最愛の者との離別ほどつらいものはない。今次の大戦で同期の大半を戦死させた我々のクラスだが、戦没者の母親(肉親)の想いもみな同じであったろう。遺体を(おさ)(ひつぎ)が炉に入れられるのには、何度もめぐり会ったが、いつも人生で最も厳粛な瞬間だと思った。

 

彼の遺骨を拾おうとは

遺体が完全に燃えきり骨になるまでには、まだかなりの時間があるというので、ここで西尾と鏡には別れることにした。坂田の末弟が、私に是非にとすすめるので遺休が荼毘(だび)に付されている間のおっとめ(勤行)、そのあとの直会(昼食)に()ばれることにした。昼食中、坂田の憶い出や、ミニ宗教論など話し合っていたが、昼食がそろそろ終ろうとする頃、次兄から、長兄善一郎は坂田家の誇りであり、この誇りを大切にしなければならない。又長兄は葬儀に見たこんな素晴らしい人脈をもって死ぬことが出来て、次兄の私は兄貴がうらやましい云々の言葉があった。30人ばかりの昼食会であったが、私を除いて皆血縁ばかりで、もし私がこの直会に参加しなかったら聞けない言葉であったに違いない。けだし次兄の本音であろう。

 

程なく荼毘(だび)が終った知らせがあり、骨あげのおっとめに入った。私の親戚での骨あげで、骨を骨壷に()れるのは何度も体験ずみのことだが、血縁でないのに骨を納れるのは今回が初めてのことなので、一瞬、納れるべきか、納れずにおくべきか、戸惑った。(しかし待て。良く言うじゃないか。)「死んだら俺の骨を拾って呉れよ。」と。

(骨を拾って呉れ、とは此の事なんだな? よし、そんなら解った。)と自分に言い聞かせ、先程まで尻込みして後の方に居たが、つかつかと前に進み出て、一つだけ遺骨を壷に入れた。やがて長男が坂田の遺骨をいだいて、バスに向った。ここが限界と感じ、遺族の皆様と別れることを告げた。

霊園から見る立山連峰の白雪は、四日続きの青空に映えて美しかった。遺族の一同がバスで立ち去るのを、私一人あとに残り一礼して見送った。午後の陽ざしが、まぶしかった。

    

散る桜  見送る桜も  散る桜

(合掌)

(なにわ会ニュース58号9頁 昭和62年3月掲載)

TOPへ    物故目次