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なにわ会のブログ 23年6月

61

 昭和2061日、海軍兵学校72期、海軍機関学校53期、海軍経理学校33期は卒業後僅か17ヶ月半で海軍大尉に進級した。(少尉候補生6月、少尉6月、中尉7月半)

 

 昭和196月にはあ号作戦があり、その時の戦死者6名を加えて、196月までに兵32、機4、経6、計42名が亡くなっている。

 

 それから1年後の206月になると、もう戦局は、押されぱなしで動ける艦艇は殆どなく、生き残った僅かの艦艇も大半は最終場面に備えて、敵の空襲から避けるために偽装していた。動けるのは潜水艦と、あとは僅かな航空部隊だけ、艦艇要員の大部分は、潜水艦学生と回天、蛟竜、海竜、震洋等の特攻部隊に配員された。

 206月の戦没者は艦艇2名、航空部隊5名、潜水艦2名、兵器1名の計10名であった。

そして、この1年間に亡くなった者は、兵289、機50、経12、計351名が亡くなっている。

なんと44%がこの1年間に亡くなっていた。

 

今年の永代神楽祭は64日(土) 集合時刻1330  参拝1400 懇親会 神楽祭終了後靖國会館で実施。会費は参拝のみ 1000円  懇親会まで参加 3500

 

この日の戦没者なし

 

戦後物故者

谷田 哲郎  昭和5161日逝去

斎藤 義衛の「谷田 哲郎君の死」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-tanida-saitou1.html

 

森川 恭男の「谷田 哲郎君永眠す」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-tanita-morikawa1.html

 

 泉 五郎君から山田良彦君の石津寿君に関する記事の写真が違っている(石津滋君の写真)と知らせてくれたので写真を削除した。泉 五郎君の石津滋君の記事がHPに取り込んで無かったので取り込んだ。

62

戦没者・戦後物故者ともになし。

 

64日の永代神楽祭の参加者現在次の通り。

懇親会まで参加  会員24名 ご遺族24  48 

参拝のみ     会員 7名 ご遺族17名 計24

総計 72

 

63

戦没者なし

 

戦後物故者

吉田二三男  昭和6363日逝去

村山  隆の「故吉田二三男兄の葬儀に参列して」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-yosida-murayama1.html

 

64日 永代神楽祭

戦没者なし

 

戦後物故者

佐藤 秀一  平成1164日逝去

 

なにわ会ニュースにあった「海軍兵学校72期生徒受験から卒業までの主要行事」をHPに取り込んだ。ニュース目次を順に再チェックして、未だ取り込んでいない主要記事をHPに取り込んでいる。(会誌と1号から60号まで終了)

 

74期訃報

宮下 幸橘様(1学年47分隊)

平成2356日逝去

65日 

6月5日の戦没者

 67年前 昭和19年  なし

 66年前 昭和20年 

 渡邊 清實(332空 戦闘機) 

 本土に来襲のB−29を兵庫県上空で迎撃、これと交戦戦死(雷電)

 

戦後物故者

谷口 好輝  平成2165日逝去

 

4日第3回永代神楽祭が行われた。参加者は会員32名(うち懇親会まで25名)、遺族39名(うち懇親会まで29名)計71名(うち懇親会まで49名)であった。

今年も天候に恵まれ、暑過ぎる感じの1日であった。今回はなにわ会以外の参拝者が約10組あったが、昨年同様全員本殿で拝礼することが出来た。

 懇親会は靖國会館において村山 隆君の司会で行われた。最初に、今回全般の面倒を見てくれた上野三郎君の挨拶、次いで遺族を代表して堀江保雄様のお言葉があった後、同氏の音頭で献杯、伊藤正敬から今後の事についての説明があり、懇談に入った。懇談半ばで猪口智君の妹星野道子様のお話、神戸から見えた93歳の牛尾佐和子様のお元気なお話、伴 弘次君の弟伴 辰三様のお話、更に樋口 直君の一言があり、最後に相澤善三郎君の音頭で軍歌を歌い、解散した。

 なお、昨年までは余り感じなかったが、今年はご遺族の名前が上手く浮かんでこなかった。年をとったからかも知れないが、参加者の希望もあり次回からは名札を準備したいと思う。

 

 

66

戦没者

67年前 昭和19年  

  中沢達推(水無月 駆逐艦)  

  船団護衛中、 タラカン沖で敵潜の雷撃を受け沈没戦死

 

戦後物故者なし

 

66年前 昭和20年 

 水谷 潤(戦303 戦闘機) 

 本土に来襲のP−47を鹿児島上空で迎撃、これと交戦戦死(零戦)

編集部の「水谷潤君へクラスメートからの手紙」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-mizutani-tegami1.html

 

 小林 晃(戦405 戦闘機)

 本土に来襲のP−47を宮崎県上空で迎撃、これと交戦戦死(紫電)

編集部の「故小林晃君の遺影について」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-kobayasi-iei.html

 

67

戦没者 

 67年前 昭和19年  

   西田和夫(早波 駆逐艦) 

   敵潜掃討中、タウイタウイ沖で敵潜の雷撃を受け沈没戦死

 

 66年前 昭和20年 

   山崎 登(戦701 兵器) 

  比島タルラック西方の山中行動中、土民軍の狙撃を受け戦死

 

戦後物故者

松元 金一 平成0567

足立 喜次の「松元金一君を偲んで」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-matumoto-adati1.html

 

浦本  生の「松元 金一君への弔辞」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-matumoto-uramoto1.html

 

昨日椎野 廣君の画集について泉五郎君から電話を貰い、更にその画集を編集した山本省吾君からメールを貰った。その詳細については別途ブログに掲載する。

泉五郎君、山本省吾君有り難うございました。

 

椎野 廣君の画集について

山本省吾君から、「春の関西クラス会席上で椎野君と話が弾み、彼の年賀状を画集にする手伝いをしました。画面・文章とも非常に洒脱です。泉五郎君からよければブログで随時紹介すればとの荷電がありました。ファイルを同封するので一覧下さい。」と次の文章が添付されていた。

(椎野 廣君)

 「本当に本人がガックリする程 去年あたりから老化の速度が速まった。聞いたこともない病名の病気に襲われるし、あちこちの筋肉は減り、けだるい思いの起床時、貧血気味の灰白色の細くなった足を見ればやがてのお棺を連想するし、体力だけでなくて気力も衰え、溜息ついて何んの為に俺は生きとるのかと自問自答し、剰え現今の政治屋の連中の劣化現象を見るとストレスは累積されるばかりだし、何んと生甲斐のない世の中よーと嘆いていたら今回の小冊子。そう昵懇でもなかった山本君の奇特な好意でやっと爽快な青空が見えた。

 ネービーという種族は概して真摯で感激屋でしかもスマートだが、今回の山本君の行動で久し振りにああこれがクラスだ、コレスだ、ネービーだなと生きる喜びを感じたよ。

 勿論、潮氣があって、碧空のように澄んで海のように広い心の今の俗世とかけはなれた貴重な離れ駒集団も少しずつ放れて行く。大事に励まし温めあわねばとつくづく思う。」

そして、画集が沢山送られてきた。これから逐次ブログで紹介していきたい。

本日はその一つを披露する。

 

68

戦没者

 67年前 昭和19年  なし

 66年前 昭和20年 

 坂梨 忠(足柄 巡洋艦)

  陸軍部隊輸送のためジャカルタ発シンガポールに向け航行中、バンカ海峡で敵潜の攻撃を受け被雷沈没戦死

この足柄が太平洋戦争における海上戦闘の最後の沈没艦であった。

この足柄については、故小河美津彦君の『挽歌の海』↓に詳しい。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-bankanoumi-ogawa1.html

 

この足柄の生存者を救助したのも駆逐艦神風であり、神風は終戦までシンガポールを基地として活躍していた。

 

昨日椎野 廣君の画集をブログに取り込んだが、今日は平成6年の賀状を取り込んだ。

 

 メリケン波止場といっても神戸はヨーロッパ系の港である。(横浜はアメリカ系)異人館もヨーロッパ系だ。身近な話だが私の隣にはドイツ人のレーマンさん、イギリス人のハンプトンさんが住んでいた。阪神大震災でテレブルと仰って自国へ退散した。ななめ向いはトルコ人のキルキーさんが住んでいる。私が神戸支店に勤務している時、最も親しかったお客さんはトルコのヤコブさんだった。

 神戸のパンはドイツ系とフランス系で旨いよ。

 

訃報

溝井 清 君(兵科)(名簿P32)が 平成2367日(火)2308 逝去された。
(今年2週間前に転倒し、頭部を打撲、入院加療中肺炎を起こして逝去)
喪 主  溝井 千津子 様
御通夜  平成236月 9日(木) 1800〜
告別式       610日(金) 1030〜
斎場   茅ヶ崎斎場
住所   〒253-0008 茅ヶ崎市芹沢1700
電話:  0467-53-1505 
(
溝井夫人からの電話による)
平成23年6月8日 発信
謹んでご冥福を祈る。

 

69

戦没者なし

 

戦後物故者

齊田 元春 平成1869

金枝 健三の「齊田 元春兄の葬儀に参列して」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-saida-kaneeda1.html

 

75期訃報

吉田 学様(元海上幕僚長、元海将)7日午前1037分、呼吸不全のため東京都世田谷区の自衛隊中央病院で死去。84歳。葬儀は15日午前9時45分から品川区西五反田5の3220の桐ケ谷斎場で。

 

 普段でも沖縄の夕日は凄味がある。ましてやこの日は雨が近づいていたので空模様は鬼気迫るものがあった。昭和二十年三月、早朝非理法権天の幟を立て、沖縄え出撃してゆく潜水艦の期友と言葉を交わすことなく見送りそこねて慙愧の念を抱きつづけていたが、ここで慰霊の辞を読みあげて少しばかり安らんだ。このみなそこで彼は眠っている。

 

 

610

 6月10日の戦没者 

67年前 昭和19年  

  真崎三郎(谷風 駆逐艦)

  敵潜掃討中、タウイタウイ沖で敵潜の雷撃を受け沈没、その際重傷を負い収容後戦死

 

 66年前 昭和20年 

  熊川 博(熊野 巡洋艦)

   熊野は敵潜の攻撃を受け沈没、その際救助されて比島に上陸後横鎮付となり、その後マラリヤに罷り戦病死

 

 森実貞雄(伊122 潜水艦) 

 20410穴水に向け舞鶴発回航中消石川県緑剛岬の1206浬で息を絶つ(戦死認定)

 (米潜水艦スケートの雷撃により20410沈没:米軍資料)

藤田 直司の「森実貞男君の霊鎮まり給え 慰霊塔建立  洋上慰霊祭」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-morizane-fujita1.html

 

高松 道雄の「祭 文」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-morizane-takamatu1.html

 

戦後物故者

眞鍋 正人 平成10610

大谷 友之の「眞鍋正人君の最期」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-manabe-ootani1.html

 

阿部 克巳の「眞鍋正人君の戦い」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-manabe-abe1.html

 

左近允尚敏君から溝井君のお通夜について次のメールを頂いた。

「なにわ会のお通夜参加者は樋口君、松崎夫人と小生でした。以下略」

 

椎野画集の説明

阪神大震災から十七年経った今、六甲の崖崩れ、土砂崩れも緑に覆われ街も小綺麗になり高層マンションも高さを競ってニョキニョキ。折角の海と山の景観の視界を狭めている。御影界隈も防災重点で由緒ある松や桜もバッサリ切り落され谷崎好みの邸宅はマンションになったり数個に分割矮陋化されて下町風。神戸独特のモダニズムはどこえやら、空しさと溜息のみ。復興というシロモノは優雅な文化を破壊するものだと実感している。

 

611日

戦没者

 67年前 昭和19年 

 伴 弘次(901空 大艇操)

 船団護衛の為台湾で離水直後、墜落殉職(九七大艇)

 

押本直正の「伴 弘次君の最後について」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-bann-osimoto.html

 

次の伴 弘次の日記等が有る。

思い出草(海軍兵学校生徒伴弘次の日記)その1(第1学年時)

 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/kaihei-omoidekusa-bann-sono1-1.html

 

思い出草 その2(2学年時代)

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/kaihei-omoidekusa-ban-sono2.html

 

思い出草 その3 追加

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/kaihei-omoidekusa-ban-sono3.html

 

思い出草(その4)航空隊の部

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/kaihei-omoidekusa-ban-sono4.html

 

片岡 紀明氏の「ネイビーブルーの残影(伴 弘次中尉)」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-bann-neibi-1.html

 

 66年前 昭和20年  なし

 

戦後物故者

土岐 宗男  平成11611日逝去

 

 

小灘裕子さんから次のメールを頂いた。

「先日(5/14)の県民小ホール「Kyupic ピアノ協奏曲コンサート プロオーケストラとともに」は、お天気にも恵まれ、お陰さまで盛況、好評をいただく事が出来ました。

長い準備期間の苦労が報われた思いで、ほっと致しております。

(写真を3枚添付されていましたが、1枚掲示します。)「

今回、72期の方からも、励ましをいただきました。

 

故押本直正君がなにわ会ニュース64号から73号にかけての連載記事の大部分をHPに取り込みました。

 

椎野画集の説明

 「おいどは太目の人がいい」を「椎野サンは肥えた女が好きなんだナー」と解釈する人が関東の人に多くてガッカリした。関西ではお尻のことをおいどという。おいどをおいどんと思ったのだろう。

 柳腰ならまだ情緒があるがマネキンより細い足・腰の今風の若い女を見ているとクラゲのような宇宙人を連想してリツゼンとするよ。

 

6月12

戦没者

 67年前 昭和19年 

  菊地 修(鴻 水雷艇)

  船団護衛中、サイパン沖で敵機動部隊の空襲を受け沈没戦死

 

 66年前 昭和20年  なし

 

戦後物故者なし

 

椎野画集の説明

この頃、次々と三人の孫が生まれたのでお宮参りが多くなった。必然的に若い母親やお婆さんの着物姿に目を引かれた。描いてみたくなった。特に後姿を。締めた帯の様子がよくわからないので着物姿を追っていたらキツイ目付で睨みつけられたこともあった。口の悪い友人は「女のケツを描かせたらピカ一ですよ」と宣伝されて少々恥ずかしかった。「貴様の絵を見たらムズムズしてきたよ」と白状した正直な奴が何人かいた。そうさせたいと思いながら描いた卑しさがそうさせたのであろう。呵々。

 

海軍兵学校2学年第54分隊時代の歌

 

作詞 巻 石蔵(72期)

作曲 田中公夫(71期)

 

流離の定め人のせ世に  有情四十の丈夫が

奇しくも結ぶ一年の   名残を長く留めんと

森の木陰に夢の花    乱れて咲きぬ五十四

 

君知れりや丈夫の    期せし覇業は難くとも

遂げずば止まじ胸に湧く 若き血潮の雄叫びに

見よ古鷹の峯高く    北斗の空も揺るぐなり

 

ああよしさらば暁の   海に鍛えん此の腕

血に固めなん此の契り  伝統此処に創む可く

必勝の気に燃え立ちて  今ぞ勝利の道を行く

 

作詞 宮地(冨士)榮一(72期)

作曲 田中公夫(71期)

 

貴様は九州薩摩芋    俺は東北雪達磨

だけど今では江田島の  北も南も戦友だ

 

貴様はバテレンクスチャン    俺は真言ナンマイダ

それも今では糞喰え   俺にゃ貴様が仏様

 

貴様は髭面親爺殿    俺は可愛いお稚児さん

それも同じ三号の    泣くも笑うも風任せ

 

何の縁か同じ世に    俺だ貴様と呼び合って

 

613

戦没者なし

 

戦後物故者

高杉 敏夫  平成22613日逝去

 

椎野画集の説明

私の小学生頃の権威とは喧嘩に強いこと、相撲に強いこと、リレーのメンバー、ピッチャーで四番、ドッチボールが旨い、剣玉が上手、高所からの飛込、etc。級友のタケシ君は木登りが得意だった。登りにくい杉や竹でもスルスルと足裏に吸盤があるのではないかと思うほど上手だった。私はどうしてもタケシ君より上には登れず見上げては劣等感をもった。椋の大木を見るといつも彼を思い出す。

 

614

戦没者・戦後物故者ともになし。

 

椎野画集の説明

数学をやっていれば論理的な考え方が出来る。ラグビーをやっていれば一人よがりにならず、人との協和がどれだけ大事かという事もわかる。一人のミスがどれだけ他人に迷惑になるかもわかる。浮ついた俗理・俗論・俗情に流されないドッシリとした人間になって欲しいと孫に願う気持ちなんだ。

 

615

戦没者・戦後物故者ともになし。

 

椎野画集の説明

 私の好きな京都は桜や紅葉や詩歌管弦の華やかさではない。

「羅生門」や血風吹きすさぶ鴨川の生首やオドロオドロの魔魅の妖気が染みこまれた京都が大好きなのだ。山鉾巡行を観ていても絢爛たる長刀や月よりも役行者山や山伏山の方が興趣が湧く。この絵のオバサンのファスナーはもっともっと開いていた。一心不乱の後姿に電気が走り一瞬の間の歴史を感じたのだ。

 

616

戦没者 67年前 昭和19年 

 山本幸一(128 輸送艦)

ニューギニア北西でソロンに向け航行中、敵機の攻撃を受け沈没戦死

 

 66年前 昭和20年  なし

 

戦後物故者になし

 

 

椎野画集の説明

 私の父はポッポ屋でしたから子供の頃は線路の側で育ちました。枕木をかためる鶴嘴の線路工夫や、ヨイトマケのオバサンの掛け声を聞くのが好きだった。「帯は解けても心は解けぬー、ヨーイ、ヨーイ、ヨイトナー!」なんてね。意味を母親に尋ねたら『大人になったらわかる』と一蹴された。

 正面の自転車を持っている絣の着物の子供は私なんです。

 

617

戦没者なし

 

戦後物故者

品川  弘 昭和53617日 逝去

浦本  生の「品川 弘君への弔辞」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sinagawa-uramoto1.html

 

加藤 孝二の「品川 逝く」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sinagawa-katou1.html

 

編集部の「品川を偲ぶ会」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sinagawa-hensyuubu1.html

 

茂木  允 平成18617日 逝去

泉  五郎の「茂木 允君への弔辞」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-motegi-izumi1.html

 

昨日、歩こう会 平塚「花菜ガーデン」散策会が行われ、フラワーゾーンで「ゆり」、「ばら」などを観賞して来ました。参加者は写真の八名です。

 

後列、左から深尾秀文、幸田正仁、中井末一、浦本 生、高田俊彦

前列、左から品川夫人、深尾夫人、伊藤夫人

 

椎野画集の説明

 この帽子はゴ自慢なのだ。自分で染めてリボンと錨のボタンは小間物屋で、徽章は船具屋で求めた。旅行中、長崎の出島の停留所で電車を待っていたら反対側の停留所の見知らぬオッサンが「その帽子、俺に呉れ」と叫んだが「世界に一つしかない帽子だからやれん」と謝った。酔顔のオッサンの帽子を欲しがる心情を知りたいとも思ったが・・・・。

 

618日 

戦没者なし

 

戦後物故者

大河原茂美  平成09618日逝去

 

椎野画集の説明

「いや陽は又昇りますよ」と励ましてくれた後輩が去年脳梗塞で先に沈んだ。GNPは嘗ては日没するところの中国に蹴落とされるし、頼りない「二位ではダメなんですか政権」の落日寸前、とてつもない津波が来た。ますます浮揚は大変だ。昇るのはイチローと遼君だけだろうか?

 

619日 

昭和19年6月19日は太平洋戦争の「あ号作戦」で日本海軍の空母部隊が壊滅した日である。この作戦で航空母艦 大鳳、翔鶴、飛鷹を失って作戦は失敗した。

 

戦没者 67年前 昭和19年 

 高木滋男、田 功(大鳳 空母)

「あ号作戦」時マリアナ西方に於いて第1次攻撃隊発進後、敵潜の雷撃を艦首に受けたが戦闘航海に支障なく航行中、原因不明の大爆発が起こり沈没戦死

 

小尾清彰、野村 繁、三田 進、森 茂樹(翔鶴 空母)

「あ号作戦」時マリアナ西方に於いて1120分頃敵潜の雷撃を受けたが応急修理のうえ、戦闘航海を継続中、逐次被害増大し、1430分頃遂に沈没戦死

 

66年前 昭和20年 

 江崎良則(332空 戦闘機)

和歌山南方で 和歌山県上空を哨戒中、B-29に遭遇、交戦戦死(雷電)

 

戦後物故者なし

 

椎野画集の説明

 子供の頃のオヤツはランドセルを投げ出して一銭玉を握って駄菓子屋え一目散。一ツマミまけてもらった唐豆、パンダみたいにサトウキビを噛り、家ではかきまぜ棒の引き上げどきがむつかしくペチャンコになったカルメラ、火箸の丸坊主で引き延ばした欠餅だった。野山では解毒用に塩をなめなめ野イチゴや青梅を食べた。自分で作ったゴム銃で雀を落とし母親に焼いてもらった。現今ではコンビニで多種豪華なお菓子棚からよりどりみどり坊やが母親の籠にほうり込んでいる。時勢の差とはいえどちらの子供が幸福だろうかと思う。

 

620

戦没者 67年前 昭和19年 

石間正次郎(瑞鶴 空母)

 あ号作戦中、マリアナ西方で敵機動部隊と交戦中、被弾戦死

 

66年前 昭和20年  なし

 

戦後物故者なし

 

なにわ会HPの閲覧数は現在まで187,216件に達し、取り込み数は1,445件に及んでいる。多数とりこんだので、見にくくなって来た。そこで先日から戦記、戦没者記録、物故記録を整理して、戦記7、戦没6、物故8に分類した。そして、会誌からニュース、なにわ会だより迄105件の目次をHPに取り込んだ。これでニュースの記事を見つけ易くなったと思う。

 

椎野画集の説明

 医学的にみれば風邪・煙草・メタボ等が萬病の原因だろうが、ストレスも一因だ。かかえているストレスは人それぞれ異なるだろうが誰にでもかかる社会的ストレスも馬鹿にはならぬ。この頃の時世、一年を表現する代表的な一字は『偽』なんて清水寺の和尚さんが年末に墨書していた。偽装・偽造・と偽の氾濫。日本人の心の劣化を慨嘆する老人にはこれ以上のストレスはない。音楽をききながらトランプ占いして気をまぎらす以外に手がないではないか。 

 

621

戦没者 67年前 昭和19年 

 今村 一敏(宮崎空 陸攻操)

 九州南東150浬の哨戒線上で哨戒中、消息を絶つ(九六陸攻)

 

 66年前 昭和20年  なし

 

戦後物故者

小谷 義治  昭和29621日 逝去

 

郡  重夫  平成04621日 逝去

新田吉太郎の「郡重夫君への弔辞」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-koori-nitta1.html

 

押本 直正の「郡 重夫君の思い出」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-koori-osimoto1.html

 

中村 正人の「郡 重夫君の思い出」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-koori-nakamura1.html

 

田上 周男  平成16621日 逝去

 

77期の会報 江田島93号を頂いた。その中に

1 77期会からの要請で伊藤正敬が投稿した「なにわ会の活動と現況」が3頁にわたって掲載されている。

2 故大松澤恭一氏の父大松澤文平主計大佐(聯合艦隊主計長)の開戦時からの日記の一部が4頁にわたって掲載されていた。

3 平成23914日関東甲信越地区総会が実施される。

等の記事があった。

 

椎野画集の説明

故、岡田貞寛さん(父君は岡田啓介)の奥さんから「艦内生活のムードを楽しんでいらっしゃるようですね」との返事。

 太平洋を航海中波のしぶきがベッド横の舷窓をバシャーツと叩く。飛沫が尾を引く。舷窓は海の男の魂と郷愁をゆさぶる窓なのだ。

 

 

622

戦没者なし

 

戦後物故者

三原 卓士  平成18622日 逝去

飯田 嘉郎  平成21622日 逝去

 

椎野画集の説明

自嘲気味で10分間で描いた戯画が意外と反響が大きくて「俺もこうなんだ」とか「それにしてもこの格好は・・・・」と喜ばれた。「うまいですナー」と有名な野見山曉冶画伯に褒められた。

折返し「割箸を削って描きました」と言ったら「そういうのが良い・・・・」と又褒められて年甲斐もなくルンルンとしていた。

 

623

戦没者  67年前 昭和19年  なし

 66年前 昭和20年   

 上野典夫(302空 戦闘機)

千葉県上空でP51 と交戦、落下傘で降下中、更に被弾戦死(雷電)

編集部の「上野典夫君について」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-ueno.html

 

戦後物故者

森本 達郎  昭和51623日 逝去

飯野 伴七の「故森本達郎君を偲ぶ」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-morimototaturou-iino1.html

 

藤野 竜弥  昭和58623日 逝去

相澤善三郎 の「藤野 竜弥君への弔辞」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-fujino-aizawa-1.html

 

名村 英俊の「藤野竜弥君のこと」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-fujino-namura1.html

 

酒井  博  昭和63623日 逝去

加藤 孝二の「酒井 博さん逝去」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sakaihirosi-katou1.html

 

椎野画集の説明

他国者の私が京都の庭がどうのこうのと評するのはおこがましいが、定年后、神戸に住みつく前、長年、東京にいて、じっくり京都を眺めていると目に映る両者の文化の違いに西の涯九州人の私には一入興味深々なのだ。

 

 

624

戦没者・戦後物故者共になし

 

椎野画集の説明

 私が五才の時、晩秋の午后、自宅の裏の斜面の枯草に面白半分で五徳マッチで火を付けた。バチバチと音をたてて見る見る燎原之火となろうとした。(斜面の上には三軒の官舎があった。)その時、全く運よく学校から帰ってきた二人の兄が下駄をけとばして斜面の火を追い上げながら上衣を振りまわし必死で消し止めてくれた。私は呆然として見ていた。(二十坪位は焼けた。)その夜、父母や兄達から叱られた記憶は全くない。然し兄達の焼けた足袋は私が小学生の間ずっと保存していた。事の重大さが解るまでそうしたのであろう。

 今でも若草山の野焼きをテレビで見る度、焼けた足袋が瞼に浮かぶ。

 

平成5年から23年までの椎野君の年賀状を毎日1枚ずつ掲載して来た。

彼の絵はかねてよりセミプロ級だと聞いていた山本省吾君がこれをパソコンに取り込んだ。

彼は椎野廣君のは、絵のみならず文章まで飄々として洒脱・改めて感嘆している。

 

625

戦没者

 67年前 昭和19年  なし

 

 66年前 昭和20年 

  安東種夫(伊361 潜水艦)

 20.5.23回天特別攻撃隊轟隊の一艦として沖縄方面に出撃以後消息を絶つ(戦死認定)

(米護衛空母アンツオ艦上機により 20530沈没:米車資料)

 

戦後物故者なし

 

626

戦没者・戦後物故者共になし

 

73  会報第94号 H23. .25 

1 永代神楽祭

  昨年まで行われていた賛否慰霊祭に代えて、今年から永代神楽祭が322日に行われ、47名が参加した。今年は東日本大震災の直後であって、当初計画されていた懇談・昼食会は取り止めとされた。

2 クラス会員の現状(23420日現在)

 卒業生901名、戦没者282名、物故者373名、生存者246名、生存率27.3

3 訃報

松谷 安明様 H22. 3.30逝去  川嶋 健作様 H22,11. 2逝去

岩間 子朗様 H22.11.18逝去  古家  勇様 H22,11.19逝去

加藤  洋様 H22.11.22逝去  山浦 茂義様 H22,11.28逝去

岡   達様 H22.11.29逝去  杉原外於夫様 H22.12. 5逝去[i]

賀茂 和男様 H23. 1.11逝去  河合登美男様 H23. 1.14逝去

若山 正治様 H23. 1.18逝去  前田  優様 H23. 2. 9逝去

浅羽 賢吉様 H23. 2.14逝去  大坪 虎郎様 H23. 2.19逝去

中嶋 悦郎様 H23. 2.23逝去  川原 源三様 H23. 4. 6逝去

4 記事としては、ミニクラス会の報告が13頁、物故者の想い出等が

31頁、その他42頁で計102頁になっている。

 

627

戦没者なし

 

戦後物故者

伊佐 弘道  平成14627日 逝去

多胡 光雄の「伊佐弘道君への弔辞」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-isa-tago1.html

 

大谷 友之の「三度脱皮変身した伊佐弘道を偲ぶ」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-isa-ootani1.html

 

628

戦没者・戦後物故者共になし

 

 629

戦没者なし

 

戦後物故者

杉本 広安  平成03629日逝去

岸本 一郎の「杉本 広安君への弔辞」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sugimoto-kisimoto1.html

 

630

戦没者なし

 

戦後物故者

石川  正  昭和28630日 逝去

 

藤井 伸之  平成06630日 逝去

中井 末一の「藤井伸之君への弔辞」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-fujii-nakai1.html

 

左近允尚敏の「藤井伸之君を偲ぶ」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-fujii-sakonjyou.html

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