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平成22年5月10日 校正すみ

谷田 哲郎君の死

斎藤 義衛

昭和51年6月1日未明、谷田哲郎君は急逝した。

 余りにも突然の死であり、その報に接し、しばしこの世を疑わざるを得なかった。

我々53期110名は、54名が戦後一人も欠けずに余録の第二の人生を歩んできた。(他の級には、その例がないと思う)

戦後30年の今日迄全員がそれぞれの道に奮闘してきた。谷田の死に接し、我が級も不死身でないことを感ずるとともに我々も余録とは言いながら、愈々最後の航海に入ったかという思いにかられざるを得ない。

ここ数年谷田とは、級の中でも最も濃いつきあいをして来ただけに身内の不幸のような衝撃が今も尚つづいている。彼と最後に会ったのは3月3日、小生が京都に社用で訪れた時間の合間に美濃吉の本店で昼食をともにしたつかの間で、次回はゆっくりやろうと別れたのだったが、相も変らず端麗で何時もの如く健康管理について説教されるのは小生の方(小生大阪在任中45〜49年 12指腸潰瘍にて倒れ、大阪日生病院に入院中は何から何まで世話になってしまった。)だった。

美濃吉の専務として毎月東京の出店の視察があり近く東京でということだったが期末やらで四月は会えずじまいに終ってしまった。5月20日の夜、小生帰宅すると谷田夫人より電話があったというので(たいてい本人からなので)不審に思い電話をしたところ本人が出て「肝臓ガンだ、明日入院する。」と思わざることを口走るので「お前何を言っているのだ、勝手に自己診断なんかするな、少しゆっくり休養しろよ。6月早々に京都に行くから、その時はゆっくり話をしよう。」といった会話で電話を切ったのだった。その日も来ないのに6月1日の朝5時、嫁いだ娘さんの御主人より計報の電話を受け取った。

葬儀は3日と言うので小生は2日の午後家内を伴って京都に赴いた。

(通夜及び密葬)

左京区一乗寺の谷田邸(白川ハイツ)に着いたのは19時少し前、入院する1週間前に千里より引越しを終ったばかりという新居に設けられた通夜の風景は余りにも痛々しく、小生には、谷田の死はまだ信じられないことだった。

通夜には、コレスの桂、クラスは在阪の森川、野崎、加藤、小田が程なく馳けつけしめやかに行われた。

 密葬は、翌3日13時より左京区三条の超勝寺にて盛大に取り行われた。50期の松本氏、クラスの安藤が東京より、また54期の横山氏も参列された。火葬場まで、桂、加藤、小田、斎藤が同行し、最後の別れをつげた。谷田の死の顔を見とどけたが従容とした姿であったことを報告する。

(追記)

小生、谷田とは、大阪在任中の4年間仕事の結び付もあり深いつき合いであった。前記の病気の時も然りであるが、世話になりっぱなしで逝かれてしまったようである。そんなことで谷田の一人娘の重子さんも小生の媒酌で小生の大阪支店の社員と結ばれたことは、せめてもの恩返しと思っている。生まれた孫を愛し、婿殿を愛し、小生と会うと良縁を喜ぶのが口癖でかえってこちらの方が辟易するくらいであった。谷田が死んだ6月1日は、奇しくもその孫娘智子ちゃんの2歳のお誕生日であった。

(なにわ会ニュース35号13頁 昭和51年9月掲載)

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