伴弘次の日記と最後について
押本 直正
伴弘次は昭和18年5月30日付で、子供の時から、とくにキリスト教を通じての人生の師であつた千葉芳枝先生に宛てて
「前略一生懸命だった宮島遠漕も終り、今日から又航空派遣教育(編 注、岩国航空隊)に参ります。卒業もあと半年に迫り、あれこれと考へねばならぬことのみ頭に一杯で、過去の修養の不足を佗しい様な気持で反省させられることがあります。(中略)弘次は思い立ッて三月の末から入校以来の日記の整理を始めました。
―青葉模様の大きなノートに〃思い出草〃と書いて―先生とお母さんと啓子叔母様に読んで頂けたらと思つて・・・後略)」
と手紙を書いている。
ここに紹介したのはその〃思い出草〃の全文である。伴は兵学校入校前から日記をつけており、入校後もそれを続けている。
「思い出草」はその日記を整理清書し直したもので、( )の年月日は清書した日付を示したものである。
残念乍らこの「思い出草」は昭和17年6月8日で中断している。想像するに丁度その頃繰上げ卒業が発表になって、清書の時間的余裕がなくなったものと思われる。
しかしながら、昭和15年11月(合格発表の日)から約19ケ月間のわれわれの「共通の歴史」を見事に再現してくれている。われわれはこの伴の几帳面さに敬服し、その努力に満腔の謝意を表するものである。
伴 弘次
昭和15年12月1日 愛知県立豊橋中学五年在学中海軍兵学校入校(72期)
昭和18年 9月15日 海軍兵学校卒業 飛行学生を命ぜられ霞浦海軍航空隊入隊
同 年 9月29日 水上機操縦学生として茨城県鹿島航空隊に転勤
昭和19年 2月26日 同右 練習撥教程修了 香川県詫間航空隊で飛行艇操縦を訓練
同 年 5月10日 台湾東港航空隊へ進出
同 年 6月11日 戦死(のち殉職と認定)
(戦死と殉職)
この間の経緯は現存する文書によれば次のとおりである。
19・07・15付電報 (原文カナ)
父君信次あて
海軍少尉伴弘次19年6月11日台湾方面に於いて名誉の戦死を遂げられたり。取敢ず御通知努々(原文はゴツウカタガタ)御悔み申上ぐ
尚生前の配属艦船部隊名等は機密保持上お洩しなきよう致された。 海軍省人事局長
19・7・21付 巻紙毛筆(書留速達親展)
拝啓 海軍少尉伴弘次殿戦死二関シテハ先般電報ヲ以テ取り敢へズ御通知申上侯処同官ハ昭和十九年六月十一日台湾方面ノ戦斗二於テ御奮戦中遂二壮烈ナル戦死ヲ遂ゲラレタル次第ニ有之誠ニ痛惜ニ堪へズ 玄ニ慎ミテ深甚ノ弔意ヲ表シ申候
右ノ趣上聞二達スルヤ畏クモ生前ノ戦功ヲ嘉セラレ特ニ海軍中尉ニ被任御沙汰ヲ拝シ候 茲ニ官記同封御送付申上候ニ付御査収被下度候
尚戸籍手続ハ当局ニ於テ致スベク又合同海軍葬儀ハ名古屋二於テ執行セラルル予定ニ有之、期日場所等ニ関シテハ更ニ名古屋地方海軍人事部ヨリ御連賂簡上グべク・・∴以下略)
海軍省人事局長 三戸寿
退職賞与として43円を給す。
海人第2号ノ953
昭和十九年八月二十六日
海軍省人事局長
故海軍中尉 伴 弘次殿
遺族御中
祭粢料伝達ノ件通知
左記殉職者二対シ
皇 后両陛下ヨリ思召ヲ以テ琴ニ祭粢料下賜相成侯条及伝達候追テ宮中へノ御礼ハ本省ニテ取計済
記
祭粢料 金弐拾円 海軍中尉 伴 弘次
写送付先 第九〇一海軍航空隊司令
(終)
19・9・15(海軍罫紙タイブ)
謹啓
初秋ノ候貴家益々御酒穆ノ段奉慶賀候
陳者海軍中尉伴弘次殿御戦死ノ旨先般書面ヲ以テ御通知申上置候処其ノ後調査ノ結果戦死卜通知セルハ公務殉職ノ誤ナルコト判明致侯
右ハ全ク書類ノ不備並二当方ノ調査不充分二基クモノニシテ御遺族二対シ御迷惑ヲ御掛ケ申候 誠二遺憾二不堪、茲ニ謹ミテ訂正申し上げ候条御寛容被下度候
追テ右の理由ニヨリ名古屋ニ於ケル合同海軍葬儀モ執行セザルコトト相成タルニ付御諒承被下度候
昭和十九年九月十五日 海軍省人事局長 三戸 寿
伴 信次殿
19・11・10(海軍罫紙タイブ打)
謹啓 故海軍中尉伴 弘次殿殉職二関シテハ先般書面ヲ以テ御通知申上候通ニ有之突然戦死ヲ殉職卜訂正申上ゲ御
遺族ノ心中如何許リヤト深ク御詑ビ申上條 実ハ所轄ヨリ戦死卜報告有之侯モ直接敵卜交戦セラレザルモノヲ
戦死トスルハ統制上困難ニシテ且又是ノ種ノ死没者トノ振合モアリ殉職トシテ処理スル様所轄二照会セシモノニ有之同乗者モ全テ殉職トシテ処
理済ニシテ其ノ経緯ノ詳細二関シテハ所轄二於テモ承知致候二付親シキ人二就キ機密二旦ラザル範囲二於テ御間合差支無之候条申添候 敬 具
昭和十九年十一月十日 海軍省人事局長 三戸 寿
伴 すず殿
通知に接し早速その理由を尋ね戦死として取扱はれ度旨再度交渉致慎も結果は努力の効もなく誠に残念至極に候(中略)
五月十六日当隊着任後間もなく00方面に進出連日敵潜水艦出現頻々たる南支那海に於て困難なる対潜作戦に従事しその武勲見るべき
もの有之候処六月十一日船団護衛を命ぜらるるや連日長距離飛行の疲労の色も見せず午後
十時三十分勇躍出発せり
然るに発進後十分も経過せざるに基地一帯は突然突風と雷鳴を伴ふ大スコール来襲し一同深く伴中尉機の安否を憂ひ指揮所にて待機致
居候ひしに附近監視哨より基地西方洋上に飛行機の火災らしきもの見ゆとの報告あり直ちに救助艇を出動せしめ附近海面を隈なく
捜索致候も何等手掛を得ず翌々日に至り基地北方海岸に死体漂着致候 察するに伴中尉機は落雷による火災により墜落機長伴中尉
以下全員壮烈なる殉職を遂げられたものに侯(中略)
戦死殉職の言葉は有之候もその質に於てその
心情に於て何の異る所有之候や 御令息は全く戦死も劣らざる立派な最後を遂げられたるものに候(後略)
ウ三二四部隊司令 上出 俊二
要するに帝国海軍は最初「戦死」と公報し間もなく「殉職」と訂正したのである。御遺族の無念さはいかばかりであったろう。
もなく封脚に残念至極」 て、茂√一た.
終りに伴が東港着任直後、御両親に宛てられた最後の手紙をかかげて同君の冥福を祈りたい。
前略 今日台湾の東港へ着任しました。暑いこと暑いこと、整備員は皆裸で水中作業を泳いでやつてゐます。矢張り台湾の南だけある
と思はされました。そして内地から台湾の果まで、たつた一飛びで来る飛行機、大したものだと思ひました。今日着いたばかりなので
未だ何も分りませんが、航空隊の立派なこととバナナの畠の多いことに感心しました。
今日から此の航空隊で勤務します。海を隔てた向岸には在支米軍がのさばつてゐます。確かり最善をつくして御奉公する覚悟です。
此の間葉書でお頼みした帽子送つて下さつたでせうか。皆お元気に。又お便り致します。
千葉先生はじめ平山君や御近所の方々に宜敷く申上げて下さい。
館山へ帰る飛行艇便に託して
昭和十九年五月十日 弘 次
父上様
母上様
乱筆御許し下さい。
前略 軍帽有難う御座居ました。館山に要務飛行に行つた飛行艇が積んで来て呉れました。
その飛行艇に家に出す手紙をあつらへたところ、出すのを忘れて又台湾へ持つて帰つてしまつたので、台湾着任の第一便がこんなに遅
れてしまひました。此処では大忙しで未だ外出したのは着任宴会の一回だけです。東港の街はまるで支那を思はせる様な感じでした。
西瓜、バナナ、パパイヤ等果物は実に豊富です。毎日々々青空を強く区切つて台湾山脈に大横乱雲(入道雲)が湧き、未だ一度も台湾山脈
の峰々をはつきりと見たことがありません。弘次の仕事は全部夜飛ぶことはかりなので、昼は寝、夜は仕事と云ふ恰好で健康体力の保
持に頭を使つてゐます。雨季がもうぢきやつて来ますが、寝冷えをせぬ様、お腹をこわさぬ様に充分気を付けてやつて行く心算です。
今迄使つたことがない腹巻をする様になりました。地上では暑いので薄着の儘飛行艇に乗ると空では寒くてたまらぬことがあるので腹
巻は妙計です。家では皆御元気ですか、千代子はしつかり勉強なさい。ピアノはどうしましたか。是非習はせて下さい。お父さんもお
母さんも御元気に御体に気を付けてお暮し下さい。お兄さんの御墓はどうしましたか。手紙は御地から航空便で出すと一週問で台湾迄
届くさうです。 左様なら
昭和十九年五月二十日 弘 次
父上様
母上様
(台湾東港海軍航空隊気付 ウ三二四士官室)
(なにわ会ニュース37号51頁 昭和52年9月掲載)