平成22年5月6日 校正すみ
郡 重夫君の思い出
押本 直正
涼風に ニューマリの友 偲ぶなり
「贈 郡大尉 20年6月 美幌にて」の前書きがある句が自啓録の片隅に書かれている。
郡との親交は昭和19年の11月に始まった。その事については既にこのニュース54号21頁(横須賀軍港の1ケ月)に詳しく書いたが、要約すると「砲術学校ケプガンだった郡と体操講習員として横砲に留学?した小生が、同じく横砲教官の中村正人と共に、土井輝章君の家で居候同様に振舞っていたという話である。
郡は昭和20年5月に結婚した。それまで3回も乗艦が撃沈され、正しく九死に一生を得た経験上、郡家としても結婚を急いだのであろう。現役の海軍中尉であったから、海軍大臣の認可を得たのは当然である。
新居は横須賀市馬堀海岸の土井家の二階であった。私は5月初旬、霞ケ浦航空隊の疎開で北海道に移動したので、新婚の二人を見ることは出来なかったが、戦後、土井夫人に聞いたところによれば、「二人は睦ましく寄添って居て、新婚の浮ついた気分は見ることが出来なかった。で借りてきたお雛様のようだったそうである。
彼の結婚祝いに北海道特産の瑪瑙のカウスボタンを贈った記憶があったので、通夜の時その話を文子夫人にしたところ、「確かに戴きました。然しそれがバターと一緒でしたので、バターの中に溶込み、土井のおば様に手伝って戴いてやっと取出す事が出来ました」との話であった。カウスボタンは覚えていたが、バターを一緒に送った事はすっかり忘れていた。
戦後、横須賀に居を構え、復員輸送の仕事をしていたが、その後、追浜の富士モーターに移り、粟屋徹、坂元拓運、富士川正彦、吉峰徹などの諸君と共に、米軍車両の修理に従事した。朝鮮戦争の特需景気の頃であった。
その関係で自動車修理に一家言を持つようになった彼は、日産自動車に入り、亡くなるまでその仕事を続けた。
郡は仕事を追掛けている感じだった。性分かも知れぬが、常に忙しそうに飛回っていた。
いつかゆっくりと、彼の乗艦であった翔鶴、雲鷹、磯風の奮戦の話を聞きたいと思っていたが、それもかなわなかった。
よく食い、よく飲み、健康そのものの感じだったが、病魔にはかてなかった。
高橋猛典先生に看取られながら、この世を去った。謹んで御冥福を祈る次第である。
(なにわ会ニュース67号14頁 平成4年9月掲載)