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平成22年5月15日 校正すみ

眞鍋正人君の戦い

阿部 克巳


コレスの眞鍋正人君が亡くなった。今年の慰霊祭の時に、同君の消息を72期の友人に尋ねたら、「病状が悪化し、電話で話す事も難しそうだ」との事で驚いたばかりだったが、それから何日も経たずして亡くなられた由で、今となっては心から御冥福を祈るほか無い。

主計科の私は、戦闘機にも航空隊にも縁が無かったが、零戦のベテラン眞鍋君とはつい数年前に知り合った。二人とも持病の治療の為、鎌倉の高橋猛典院長の所にせっせと通っていた頃で、そこで話を交わすようになった。

最後に彼に会ったのは平成6年7月、藤井伸之君の通夜が拙宅の近くの戸塚斎場で行われた時で、なかなか元気に見えた。

(今では高橋院長も、眞鍋君も幽明境を異にしてしまったのだが。)

眞鍋君の話で、同君が昭和19年12月11日午後、零戦特攻隊「第一金剛隊」を掩護して、レイテ島南西岸をオルモックに向かって北上する米軍輸送船団に攻撃を掛け、米駆逐艦「レイド」(Reid)を撃沈した事を知った。

私はたまたま眞鍋君の特攻攻撃のその日に、駆逐艦「夕月」(30駆逐隊)で第9次多号作戦輸送部隊に加わり、レイテ島北西海岸を米軍と同じ目的地、つまりオルモック目指して南下しており、眞鍋隊が米軍に攻撃を掛けたほぼ同時刻には、わが軍輸送船団は米軍機37機の空襲で殆ど壊滅状態になっていた。

二つの戦場は南北に200qも離れてはいない。私たちは互いにそれとは全く知らずに、オルモック防衛の為に、夫々の命を賭けた戦を戦っていたのだ。私は奇縁に驚いた。

米軍の輸送船団(第2次補給部隊―12月7日のオルモック南部上陸戦闘を入れれば3回目の船団)は駆逐艦6、中型揚陸艇LSM8、歩兵揚陸艇LCI4よりなり、「レイド」を第一金剛隊の攻撃で失ってからも引続き北上を続け、12月11日深更オルモック南東近郊イピルの揚陸地点に達し、揚陸を始めた。

一方、レイテ北西岸バロンボン付近で陸兵船団を失ったわが多号作戦部隊は、残る駆逐艦2隻(「夕月」、「桐」)と輸送艦2隻に分乗した伊東陸戦隊400名で同じ11日深夜オルモックの西2キロ地点への敵前逆上陸を決行し、わが駆逐艦は米駆コールドウエル、カグランと砲火を交えた。日米両軍はオルモックの町を挟んで、八キロばかり離れた地点で夫々に深夜の揚陸作戦をやった訳だ。(オルモックの町はその前日10日には米軍の手に落ちて居たが、輸送船団には知らされておらず、この為伊東陸戦隊の一部約50名は敵の待ち構えたオルモックの埠頭に大発で不用意に近付き、一斉射撃を浴びて全滅したと言われる)。

モリソンはその海戦史の中で、これをレイテ戦での(最も予想外の格闘戦)と書いて居る。

私は戦後自分の戦ったこの第九次多号作戦に絡む色々な資料を読んだが、第一金剛隊の特攻についてのモリソン戦史の記述には幾つかの疑問を感じて居た。眞鍋君と知り合ったのを幸いに、モリソンの記述を訳して眞鍋君に送り、何回か原稿を往復し修正を加えて貰った。モリソンの明らかな間違いは数点あるがそれを論ずるのはこの稿の主目的では無く、ページも限られて居るので、眞鍋君の最終稿を見ることにしたい。

『此の時の日本機はセブを発進した海軍第一金剛隊で零戦特攻機4機、援護機7機であった。此の攻撃隊員のうち現存者は眞鍋だけである。

(イ) 第一金剛隊の編成

昭和19年12月10日 ルソン島クラーク地区マバラカット飛行場で命名式を行い同日1400同地発夕刻セブ着。

攻撃隊 

4機 龍野彦次郎、朝倉正一、鈴木清、杉尾忠、何れも13期(前期)飛行予備学生出身で当時中尉

直掩隊 第1小隊

4機 眞鍋正人(兵72、中尉)、松葉三美、飯田義隆、下川邦保(何れも上飛曹)

直掩隊 第二小隊 

3機 野末甲子 石田貞吾(何れも上飛曹) (二飛曹)

(ロ) 戦闘概要

12月11日1630 「スリガオ」水道西口西航中の敵駆逐艦攻撃のため「セブ」発進 1705船団を捕捉、F4F (グラマン・ワイルドキャット)の妨害を排除して突入、駆逐艦1隻に2機命中轟沈、1機突入せしも命中せず。攻撃1機消息不明。直掩2機(松葉、襖)突入時分離、未帰還。1730直掩5機「セブ」着。

(以上は攻撃部隊要務士作成の記録による。)

(ハ) 眞鍋氏の所見

@ 当日雲高約800m、レイテ方面は雲低く殆ど見通せなかった。攻撃部隊は敵のレーダーを避け雲の下を海面上低く進撃した。直掩の第1、第2小隊とも高度約200乃至300m、特攻隊はそれより50乃至100m低く、また、第1小隊は特攻隊の左前上方に、第2小隊は右後ろ上方に占位した。

敵の船団直衛機は3機前後だったと思うが、雲の上に居り、第1金剛隊に気付くのが遅れた。モリソン戦史ではコルセア(F4U)とあるが、眞鍋氏自身及び隊員の観察ではグラマン・ワイルドキャット(F4F) だった。

米輸送部隊は、スリガオ海峡通過後、レイテ島とボホール島の間のカニガオ海峡に向かい、複数(2列?) の縦列を構成する揚陸舟艇の左右を、駆逐艦の縦陣が併航護衛して居た。

A 攻撃隊は敵船団の左舷側方向から、敵を発見しそのまま進撃、特攻隊は突入に移り、船団最左翼の護衛艦列の先頭艦(レイド)に攻撃を集中した。直掩第一小隊は、左前方に進出、レイドを進路右に見る位置に転位、特攻機がレイドに近接した時、直掩第二小隊の襖二飛曹機が米直衛機の攻撃を受け、火柱となりレイドの左横五百m位の海面に突入した。

(モリソン記録では特攻二番機を右舷正横五百ヤードに撃墜したとあるが襖機のことと思われる。

 

特攻一番機はレイドの左舷艦橋付近に命中した。(モリソン記録では右舷)。同艦の艦橋斜め左前の防御砲火は物凄く、瞬く間に艦前面は真っ黒な硝煙に包まれた。特攻二番機は、レイドの左舷至近の海面に突入した。恐らく、敵の防御砲火によると思われる。(戦果報告では、「突入せしも命中せず」とした)。

特攻三番機、四番機は突っ込んで行ったが、敵の砲煙に隠れた、と思った直後にレイドの艦尾付近に爆発光が見えた。三番機または四番機のどちらかが見事に命申したのだ。(報告では特攻機の一番機と三番機、または、一番機と四番機の二機が命中とした。)続いて大爆発が起り、煤煙が薄れた中に見えたのは、レイドが中央部で真二つに折れ沈んでゆく姿だった。それは文字通り轟沈であった。跡には、沈没を示す波紋が大きく広がって居た。特攻三番横または四番機でレイドに突っ込まなかった方はどうなったかと思って、揚陸舟艇群の方向を見渡したが、煙も、火も見えず彼等に損害を与えたかどうかは分からなかった。(特攻一機消息不明と報告)。

また、直掩第一小隊の松葉上飛曹機は、攻撃中に左方に分離したが未帰還となった。あるいは、船団に銃撃に向かったのではないかと推測される。

 

B モリソン戦史にあるレイド沈没位置の北緯九度〇五分は九度五〇分の誤りと思われる。

 

C モリソン戦史では米駆逐艦コールドウエルもまた特攻機に狙われたとあるが、事実に反する。コールドウエルとレイドの戦闘状況の記事は酷似しており、記載がダブったと考えられる。コールドウエルを襲った特攻機を米直衛機が追尾した記事があるが、レイドについて同じ情景を眞鍋氏は見て居る。モリソン戦史にある一七〇九頃(注 日本機の攻撃が終わったとされている時刻)、眞鍋氏は、艦砲射撃を受け、高度百m、海面すれすれに全速戦場離脱中で、他に日本機は居なかった。

(阿部注 この攻撃が成功したのは、特攻四機がすべてレイドに集中した為であろう。他艦に特攻を加える余裕は無かったと思う。)

D この日セブに帰った直掩零戦五機のうち二機(野末上飛曹、飯田上飛曹)は三日後の十二月十四日、第三金剛隊の直掩としてミンドロ侵攻の敵船団攻撃に向かったまま帰らなかった。また、残った下川上飛曹、石田上飛曹も二十年四月それぞれ台湾、沖縄で戦死し、眞鍋一人が生き残ることになった。』

次にモリソン戦史にある「レイド」の最期を見よう。

Terrible Second』として知られている梯団は、LSM(中型揚陸艇)8隻、LCI(歩兵揚陸艇)4隻、駆逐艦6隻からなり、12月10日0930レイテ湾を出発した。次のミンドロ島上陸作戦(12月12日レイテ湾発進、15日上陸)に備えて、ぎりぎりの艦艇しか割けなかった。船団がスリガオ海峡を南下する際の直衛戦闘機として、コルセァ四機が割り当てられただけで、船団の「直掩機指揮官」(駆逐艦スミス座乗)は、増やすよう要求したが無駄であった。 1700頃丁度船団が、12節で進路307度を取って居る時、約10機の日本機jill(天山? 零戦の間違いか)の攻撃を受けた。日本機4機は、駆逐艦レイド(Reid)に襲いかかった。1番機が右舷艦首付近に命中し、同艦は火災発生、また水練下に損害を受けた。2番機は対空砲火が命中し、右舷正横約500ヤードの空中で爆発した。3番機は、爆弾または魚雷を投下したが、幸に命中しなかった。四番機は艦尾方向から低空で飛来し、左舷艦尾の三番砲と四番砲の間に命中爆発した。レイドは高速で旋回しながら傾斜、転覆し、2分以内に沈没した。位置は、北緯09度05分、東経124度55分水深600尋の地点であった。

(注 此の緯度は南により過ぎて居ると思う)。

沈没直後恐るべき水中爆発が起り、近くの上陸用艦船の羅針儀は、磁気、転輪ともに損傷を受けた。付近の艦船は煙幕を張り乗貞の救助に当たったが、約半数の152名が助かっただけであった。』

『真珠湾以来の戦歴を誇る軍艦が、また1隻姿を消した。過去3年間同艦は上陸作戦13回、陸上砲撃18回に参加、敵機撃墜12機、敵潜撃沈1隻、5インチ砲弾発射弾数約一万発の戦歴を挙げた。』 

(阿部注‥モリソンの記述で、右舷と左舷の取り違えが多いのは何故かよく分からない。西(左舷側)のセブから飛来した零戦パイロットが幾ら勇敢でも、敵船団の回りを低空で回って右舷側から突っ込んだとは考えられないからだ。)

 

結び

@ 平成7年11月筆者はフイリッピン慰霊巡拝団に加わりセブ島を訪れた。セブの町から少し北に向かい、リロアンの海岸から海を眺めると、南東の方角に一つだけ小さな島影が見えた。案内の人はボホール島だと言う。

そんなに小さな島では無いはずだが、下の方は水平線下に隠れて居るらしい。レイテ島は見えなかった。第一金剛隊はセブを発進し、ボホールの島影に隠れるように敵に近付き、島をすれすれの低空で越えてそのまま敵船団に突っ込んだのだろう。

レイテ戦を通じて海軍の航空基地はセブ島にあったが、搭乗員は激しい空襲を避けながら、レイテ島、カモテス海、スリガオ海峡、ミンダナオ海まで出撃し、戦いそして散って行った。眞鍋君は今霊界に有って、当時の戦友と話して居るに違いない。

 

A 上記の米第2次補給船団は、帰路12月12日朝0800頃にも、オルモック南方約58qのヒムキタン島付近で日本陸軍石腸隊他の特攻機の攻撃を受け、駆逐艦コードウエルに火災発生、戦死行方不明33名負傷40名の大損害を受けた。(コールドウエルは前夜オルモック湾内で我が「夕月」「桐」と遭遇、「桐」は先制して魚雷を発射、また砲撃を加えた。コールドウエルは煙幕を張り、逃れ、被害を免れた。私とも縁の深い敵だ。

「コールドウエル」はこの時日本軍の陸上砲台から照射砲撃され、しばしば挟差されたが被害はなかったと報告して居る。

(平成10年7月26日記)

(なにわ会ニュース80号26頁 平成11年3月掲載)

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