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平成22年5月14日 校正すみ

藤井伸之君への弔辞

中井 末一

 藤井君 突然の君の計報に、信じられない思いです。最近君が体調を崩しているらしいと言うことは、かねて耳にしていたが、元来健康そのものであった君のこと、これ程の重態とは思わず、年末のクラス会には、またいつもの元気な姿を見せてくれるものと思っていたのだが。

君との出会いは、海軍兵学校第三学年の時、同分隊・隣同志で机を並べ、文字どおり起居を同じくした時に始り、以来旧海軍潜水学校学生、また戦後は海上自衛隊においてと、実に五十年余りに亘る長いお付き会いであった。海軍兵学校当時の君は、成績優秀一点非の打ちどころのない模範生徒であり、分隊伍長として分隊員の尊敬を集め、また慕われていた。小銃射撃訓練、カッター訓練、また弥山登山訓練等あらゆる面で分隊員の先頭に立って、自ら範を示していた凛々しかった若い君の姿が今も目に浮かんでくる。

君は、山口県豊浦中学から海軍兵学校に入校し、昭和18年9月優秀な成績をもって兵学校を卒業、軍艦八雲、長良乗組を経て、当時最新鋭の航空母艦大鳳に航海士として乗組み、マリアナ沖海戦に出撃、熾烈な航空戦の中、大鳳は敵潜水艦の雷撃を受け、なお奮戦するも武運つたなく艦は沈没、君は幸運にも味方駆逐艦に救助されました。その後、潜水学校学生、ロ500潜水艦乗組、潜水学校教官と専ら潜水艦配置で活躍されました。

また、戦後海上自衛隊発足と同時に入隊、旧海軍に引続き終始潜水艦関係の配置にあり、特に部隊指揮官として、くろしお艦長、第2潜水隊司令、第1および第2潜水隊群司令等、数々の要職を歴任、その間、君本来の旺盛な研究心と積極的な実行力をもつて、海上自衛隊潜水艦界の発展に大いに寄与され多大の功績を残されました。

平成5年春の叙勲において、勲四等旭日章受章の栄に浴されたのも、戦中戦後の君の残された功績によるものと思われます。  

君は、情熱家であり、また、大変な勉強家でもあった。米海軍関係の資料や過去の海戦の戦史等一つ一つ徹底的に分析究明し、潜水艦のすう勢、また、その運用は斯くあるべしと熱っぽく論じていた君の姿が今も彷彿と浮んできます。

若い頃から人一倍健康管理に留意され、クラスで最も長生きするのは藤井だろうと言われていただけに、あまりにも早い君の旅立ちには、残念であり、また、真面目で誠実な君の人柄が惜しまれてなりません。

毎年クラス会の旅行には、いつも奥さんと連れだって、仲よく参加しておられましたが、君のあの幸福そうな姿も今はなつかしい思い出となってしまった。藤井君 安らかに眠って下さい。さようなら。

 平成六年七月三日   中井 末一

(なにわ会ニュース71号14頁 平成6年9月掲載)

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