平成22年5月14日 校正すみ
藤井伸之君を偲ぶ
左近允尚敏
前号の締切り時期の関係であろう、藤井伸之君の追悼文が少なかったので私も少し書いてみたい。
藤井君が私と共に第一期講習員として海上自衛隊(当時はまだ警備隊だった)に入ったのは昭和27年7月である。クラスの入隊はその後30年ころまで続いて64名になったが、兵学校のハンモックナンバーは彼がトップだった。30年に私が米海軍から貸与される「あさひ」の回航委員として渡米したころ、藤井君も潜水艦「くろしお」の要員としてやはりアメリカにいた。ボストンだったか、彼が数名の乗組幹部と共に訪ねてきてくれて歓談したことがある。
海自では藤井君は潜水艦、私は水上艦だったこともあり、陸上も含めて勤務を共にしたことはなかったが、ときどき会合で顔を合わせていた。50年代半ばに2人共退職してからはクラス旅行でよく一緒になった。山形旅行では一緒のバスだった。伊藤孝一君が最後部の座席で健康相談に応じていた(煙草のみの相談には応じぬという厳しい先生だった)が、彼によると健康面の模範生の筆頭は藤井君だった。
私の行く六本木の研究所にもときどき来てくれた。外見だけでなく気分も若々しくて、多くの諸兄がご承知のように戦争中の潜水艦のことを調べるのに情熱を燃やしていた。私のところにくる本のカタログを見せ、何冊か取り寄せて喜んでもらった。昭和19年にフィリッピンのゲリラが福留聯合艦隊参謀長携行のZ作戦計画を入手しているが、それをオーストラリアに届けた米潜の名前を知りたい、と言っていたのを思い出す。
藤井君は「大鳳」に乗っていたから空母にも関心があり、エセックス空母の本を取り寄せて渡し、あとで所見を聞かせてもらったこともあった。
オーストラリアに行くと言うので、少し前に一度行っただけの私だったが少し話をした。帰国して土産話を聞かせてもらったのが、最後だったように思う。
藤井君は私が敬愛するクラスの一人だった。頭が切れ真面目だが、人間的な温かみがあり会話は楽しかった。もう心の中でしか声を交わせない。謹んでご冥福を祈る。