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平成22年4月16日 校正すみ

挽歌の海

小河美津彦

巡洋艦 足柄


戦艦山城――実務練習の頃

昭和18年9月、海軍兵学校を卒業して少尉候補生となった私は、同期生82名と共に戦艦山城乗組を命ぜられた。戦時中で練習艦隊の制度がなくなり、実施部隊で2ケ月間の実務練習を行うためであった。

山城は、艦隊訓練泊地の瀬戸内柱島水道に在泊中で、新候補生は乗艦中、航海士、通信士、甲板士官、副直将校などの初級士官の勤務配置に輪番で就けられて、実習することになっていた。文字通り「くろがねの浮城」の威容を誇るこのごつい旧式戦艦は、充分に大きく、適当に不便で、新米候補生の訓練用としては頃合いの艦であったようだ。

「候補生は総員起し1時間前起床」から、「昼間は兵員と共に上甲板で勤務のこと。机上の仕事は夜にやれ」という訳で、一日中艦内を走り廻らされた末、夜間は勤務についての講義がある。その上、「黎明薄暮の天測は必ず行うこと」「月が出た」「月が沈むぞ」それ天測だ、と言っては深夜であろうと容赦なく叩き起こされる。厳しくはあったが、規則正しい時間割の兵学校生活とは大違いで、候補生たちはまず睡眠不足に悩まされることになった。

また、我々の居住区である候補生室ときたら、これは部屋などというものではない。14糎副砲の砲廓なのである。そこへ机と物入れ兼用の腰掛けをぎっしりと並べて、目白押しに坐らせられる。寝るときは天井にハンックを吊るのだが、これが窮屈なうえ、面倒くさいこと(おびただ)しい。一般の下士官兵は、もうハンモックは使用していないのに、なぜか候補生だけが、朝晩ハンモックと格闘しなければならない。

失敗をやらかして指導官(田中中佐)から「酒保止め」を食らったり、巡検後、候補生全員前甲板に整列させられ、(キサマらは気合がはいっていない)と指導官付からブン殴られたりで、江田島ではオールマイティだった「鬼の一号生徒」もここでは二等兵以下、全くカタなしであった。

要するに「何事も将来のため」ということで、徹底的にコキ使われたのであった。新候補生は、2ケ月後には否応なしに第一線の艦船部隊に配属されて、20歳そこそこの身で部下を指揮しなければならない。1日も早く江田島の温室(?)気分から脱皮させようと、艦内生活がハードスケジュールになるのもやむを得ないことだったのだろう。69期の指導官付の中尉が、夜間の坐学中につい居眠りする私達に、「貴様たち眠いだろう。だが俺も眠い。ひと晩でいいから本当にぐっすり眠りたいと思う」候補生に付き合う指導官も、決して楽ではなかったのである。

  乗艦1ケ月後、艦内生活にも慣れ、柱島くらしにそろそろ飽きてきた頃、山城は戦艦伊勢、軽巡竜田と共に内南洋トラック島への陸軍部隊の輸送に従事することになった。初めて外地へ出られる我々は大喜びで、呉の街でサングラスを買い込んだりした。

(われわれは大喜びであったが、同期候補生のうち全艦艇要員の73パーセントを超える多数を、僅か3隻に分乗させて敵潜水艦の行動海面へ送り出した海軍中央部は随分思い切った判断をしたものだと思う。多少の危険よりも候補生の実戦教育を重視した故であろうか。事実、我々のトラック往復は貴重な体験であった。帰途には敵潜の脅威を目撃することもできた。)

出港前夜の巡検後、当時砲術士見習だった我々数名は、副砲分隊の甲板下士官に呼ばれて彼等の酒盛りに招待された。最下甲板の、弾火薬庫付近と思われる一画にたむろした彼等は、上機嫌で酒を勧め、われわれも訳のわからぬままに大ヤカンの酒を湯呑みに受けて飲んだ。やがて歌になり、学校でも巡航でも聞いたことのない歌が次々に出た。我々もその頃には大分好い調子になって、手拍子で一緒に合唱していた。候補生室へ帰って寝たのは、12時を過ぎていた。

 

1015日、豊後水道からはじめての外洋に出たときは、小雨まじりの強風で、海は荒れていた。3万トンの戦艦も外海ではさすがに揺れる。艦体に比例して動揺の振幅も大きく、瀬戸内海しか知らなかった候補生たちは、およそ海軍士官らしからぬ船酔いに苦しむことになった。天測をやれと言われて、動揺によろめく足を踏みしめ、六分儀を構えて天測はしたものの、どうしても計算が合わない。(天候は悪く、何を測ったか記憶にない。あるいは測角の数値が課題として与えられていたのかも知れない)頭痛を抱え、ムカつく胸を抑えながら、私が漸く計算を終って、曲りなりにも海図に艦位を記入し、指導官に提出して昼食にありついた時は、午後2時を過ぎていた。

時化は夜になっても続き、われわれを悩ませた。夕食が咽喉を通らぬ者も出た。上甲板は海水に洗われ、舷側に砕ける怒涛の飛沫は艦橋近くにまで達した。伊勢で水兵が1名、波にさらわれ行方不明という通報があった。

荒天の暗夜では捜す術もないのであろう。艦内では、陸軍兵の嘔吐する声が時々聞えている。海上勤務のきびしさが少しずつわかりかけてきた。

翌日からは晴れわたった好天であった。太平洋のうねりは相変らず大きく、同行の軽巡竜田や駆逐艦などは、上甲板がいつも波で洗われているようで、乾舷の高い山城でも、波の飛沫が上甲板を濡らしていた。

しかし空はどこまでも青く、はるかな水平線上の積乱雲のさまざまな形は、亜熱帯から次第に熱帯への変化を見せてわれわれを飽きさせなかった。艦首波に驚いて一斉に飛び立つ飛魚の群れ、艦と並んで悠々と浮き沈みする海豚の大群、そして四周に果てしなくひろがる海の、深い濃藍色の美しきは実に印象的であった。

(ただし、この海面下には敵潜水艦のひそむ率は高かったのである。当然、艦隊は警戒航行中であった。我々も南の海の美しさに酔ってばかりはいられなかった。)

10月18日、アグリガン島(マリアナ諸島)が見えた。丸3日、海ばかり眺めていた眼には、大きな握り飯のような島がひどく珍しいものに見えた。

 

1020日、艦隊は無事トラック環礁に入り夏島に投錨、搭載物件を陸揚げの後、10日間滞在した。

トラックには連合艦隊主力数10隻が在泊中であった。1日、候補生は連合艦隊旗艦武蔵を訪問して司令長官古賀大将の訓示を受け、艦内を見学した。大和と並ぶ世界最大の巨艦の内部は、精緻にして壮大、旧式戦艦の山城とは大違いで、われわれにとって見聞するものすべて驚嘆の連続であった。

水路見学では、透明な海底に見える鮮やかなリーフ(珊瑚礁)に驚き、やけつく太陽の下の美しい緑の椰子林、椰子の水、コブラ、パンの実の味など、生まれてはじめての南洋の風物に、強い印象を受けた10日間であった。

1031日われわれはトラックを出港、内地への帰途についた。あらたに空母隼鷹と重巡利根が同行していた。北上するにつれて、蒸風呂のような艦内が次第にしのぎ易くなり、半袖の防暑服が冬服にかわって、11月5日豊後水道を経て徳山に入港した。

この日、豊後水道入口で、隼鷹が敵潜水艦の魚雷を艦尾付近に受けて損傷した。飛行甲板の後端が垂直に跳ね上がり、薄い黒煙を上げながら舵故障らしく旋回中の隼鷹を見て、私ははじめて「敵」の存在を実感した。

山城、伊勢、竜田は徳山から呉に回航した。数日後、候補生の新しい配属先が発表された。私は、南西方面艦隊の巡洋艦足柄乗組であった。

そして1115日、2ケ月の実務練習を終了して山城ほかの各艦を退艦した候補生は、18日上京、皇居参内、拝謁の後解散、その場からそれぞれ第一線の新任地へ出発して行ったのである。

 

3 昭和191025日未明、私は足柄乗組の中尉として捷一号作戦(比島沖海戦)に参加していた。南方からレイテ湾に突入するため、暗夜のスリガオ海峡を北進中の我々は、突然、遥か前方に激しく交錯する弾道を見た。先行した第2戦隊(山城、扶桑、最上ほか)の戦闘らしい。左右から執拗に襲ってくる敵魚雷艇を排除しながら、漸く現場付近に到達すると、右前方に炎上する大艦2隻が見えた。

巨大な火焔の(かたまり)が2個、暗黒の海面に赤く映えて炎々と燃えている。火焔の中から更に小爆発の火が、時々空中に噴き上がっている。凄惨な光景であった。炎に包まれて艦型は全くわからないが、おそらく山城、扶桑の2艦であろう。私の脳裡に、1年前の山城での候補生時代が(よみがえ)った。

戸惑いながら走りまわった艦内、暑苦しい候補生室、暑さに堪えかね、夜半ひそかに毛布を担いで寝にいった高い前檣楼(しょうろう)朴訥(ぼくとつ)な東北弁の兵員たち、一緒に酒を飲んだ元気な下士官たち(あの炎の中に彼等がいる)1年前のさまざまな情景は、忽ち現実の猛火に包まれ、眼前には、火焔の塊のみがあった。

艦隊は、火焔を右舷千メートルに見ながらそのまま前進を続けた。今はわれわれも突入の途中であり、他を顧みるいとまはなかった。私の思いをよそに、2つの火焔はみるみる後方へ遠ざかった。約1時間後、旗艦那智が損傷し、第5艦隊がレイテ湾突入を中止して反転、再び海峡を南下したとき、山城、扶桑の姿は、既に海峡の何処にも認められなかった。西村司令官以下乗員数千の生命とともに、艦はスリガオ海峡の底に沈んだのである。

私の海上生活の第一歩となった戦艦山城、闇の中に燃え上がる巨大な火焔の色の記憶は、30数年後の今も、私の脳裡に鮮烈である。

 

捷一号作戦断片

捷一号作戦の全貌については大方の戦記に詳しい。これは、この作戦に一支隊の巡洋艦乗組員として参加した私の体験である。私としては初めての戦闘体験であった。

 

1 出  撃

昭和191014日、台湾沖航空戦の直後であった。私は軍艦足柄の甲板で、ひとり憤慨していた。

「それ見ろ、俺の思った通りじゃないか。大体この緊迫した時機に、半舷上陸の遠足など以ての外だ。司令部の連中は一体何を考えているのだ!」

柱島在泊中の第5艦隊は、当日半舷(乗員の半数)上陸で陸上行軍に出ていた。そこへ連合艦隊司令部から、急遽出撃準備の命令がきたのである。

「台湾沖航空戦の戦果拡充と戦場掃蕩」が、その任務であった。

各艦とも直ちに陸上に連絡して上陸員を呼び戻し、大急ぎで出撃に備えて、不用品、私物の陸揚げ作業にかかった。私は、陸揚げ用内火艇の指揮を命ぜられて、岩国航空隊の格納庫へ陸揚げ品を運んだ。

帰艦すると、艦隊は直ちに徳山へ回航、給油を行った。

同日夕刻徳山出港、国東半島姫島沖仮泊。15日午後零時姫島沖抜錨、深夜の豊後水道を南下した。第5艦隊固有兵力、那智、足柄、阿武隈、駆逐艦7隻(曙、潮、不知火、霞、若葉、初春、初霜)の計10隻であった。

 

私は、足柄の右舷高角砲指揮所に立って、暗黒の海上を眺めていた。兵学校卒業以来1年余、内南洋トラックからジャワ、スマトラ、北太平洋に及ぶ作戦行動の間、当然危険もあったが、本格的な戦闘を目的とした出撃は、今回が初めてである。1ケ月前に中尉に進級したばかりの満20歳の私は気負っていた。

同期生の中からすでに約50名の戦死者が出ている。(いよいよ俺も死にどきだな・・・・)ふと、そう思った。暗夜で何も見えなかったが、右舷遠くの九州東岸へ向かって、私は軽く頭を下げた。父母への別れの挨拶のつもりであった。見収めになるかも知れない故郷の山々が見えないのが、少々心残りだった。

30年後の今になって思うと、あの半舷上陸は、一度出撃すれば生還を期し難い艦隊将兵に、内地の山河に最後の名残を惜しませるための、司令部の思いやりだったのかも知れない。事実、この日出撃した10隻のうち、6隻が僅か1ケ月の間に沈み、その後約半年の間に3隻が喪われ、傷つきながらも終戦まで生き残り得たのは、駆逐艦潮ただ1隻だったのである。)

 

2  戦場まで

「なんという非常識なことをする。こんなに高くしたら艦橋からうしろが見えんじゃないか。」私は、航海長音津中佐から叱られていた。私のいる高角砲指揮所のまわりの弾片除けが高過ぎるというのである。普段は腰までの高さの手摺なのだが、戦闘に備えて周囲を鉄板で囲って、釣床のマントレットを括りつけたものである。私の身を案じた補助員の森兵曹の苦心の作であった。少しでも安全なようにと、胸の高さまで積み上げたのが、艦橋の望遠鏡の後方視界の妨げになったらしい。叱られている私の傍で、森兵曹が済まなさそうな顔をしている。

捷一号作戦に参加することになった第5艦隊(第2遊撃部隊)は、西村中将の第2戦隊(山城、扶桑、最上ほか)と協力して南方からレイテ湾に突入、敵艦船を攻撃するために、1024日午前2時コロン湾出港、スルー海を航行中であった。その日の午後である。

1015日内地出港から、この日までの経緯については、5艦隊長官志摩中将の手記、及び森幸吉氏のスリガオ戦記に詳しい。この間に連合艦隊命令は二転三転し、捷一号作戦参加を望む志摩中将を悩ませたのである)

25日未明の突入に備えて、艦内各部署とも最後の準備中であった。私は、指揮所の防弾設備については何も知らずに艦橋へ行ったところで、航海長につかまって叱られたのである。結局例の弾丸よけを30センチ程低くすることで落ちついた。

ガンルーム(士官次室)寝室で戦闘服装に着香えて、また指揮所に上がると、森兵曹が防弾チョッキを出してくれた。遮蔽物のない危険な配置の者に配給されたらしい。一応着けてみたが、野球のプロテクターに鉄板を入れたようなもので、いかにも重い。

「こんな重いものはいらん。しまってくれ。」と森兵曹に返した。彼は「はい」と言ってさっさと片付けてしまった。ちょっと惜しい気もしたが、もう仕方がない・・・。

午後7時過ぎ、連合艦隊司令長官豊田大将から各隊へ激励電報があった。

「天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ」

(その夜の夜食は豪華であった。ガンルームの食卓には、美しく盛り合わせた料理のほか、大きな盆に虎屋の羊羹が山と積まれて出ていた。なにしろ最後の食事になるかも知れないのである。皆大喜びで食ったあげく、残った羊羹をポケットに押し込んで配置についた。)

 

3 夜 戦

暗夜である。時々スコールが来て視界は良くない。艦隊は、速力22ノットでミンダナオ海からスリガオ海峡南口にかかっていた。当隊には敵の小艦艇(魚雷艇)が触接中らしい、との通報が入っていた。高角砲指揮官の私は、右舷指揮所の配置についていた。

スコールが上がって視界が少しよくなり、足柄の右側に航進する僚艦阿武隈の黒いシルエットが見えていた。と、その前甲板に突然、高く水柱が噴き上がった。(魚雷だ!)ドーン、と鈍い爆発音が聞えた。阿武隈の艦首がすっと沈下して、速力がみるみる落ちる。艦隊は28ノットに増速、那智、足柄、駆逐隊(4隻)の順に単縦陣となり、針路0度でスリガオ海峡に突進する。阿武隈は忽ち落伍した。

左右から魚雷艇が銃撃してきた。距離があるので、曳痕弾がゆっくり飛んでくるように見える。応戦しながら前進を続ける。「魚雷艇1隻撃沈」の報告が聞えた。

午前3時過ぎ、突然、遥か前方に照明弾が揚がった。その下に艦影らしいものが照らし出される。同時に、猛烈な射ち合いが始まった。(予定時刻よりも早い・・・)と思った。

先行した西村部隊の戦闘らしい。左右から交錯する弾道が花火のように見える。間もなく、一方の艦がパッと炎上した。不意に、私の全身に戦慄が走った。

恐怖感は全くない。・・・が震えは止まらない。(おかしいな・・・) と思った。他人に気付かれたくなかったので、私は下腹に力を入れ、「うん、・・・うん」と声を出しながら、鉄帽の紐を結び直した。震えが止まった。時間にして10秒くらいだったろうか。(これが初陣の武者震いというものか)と思った。(今から、あの戦場へ飛び込んでいくのだ・・・)

艦隊は28ノットで前進を続ける。やがて右前方に、炎上中の大艦2隻が見えてきた。巨大な火焔の塊が2個、暗黒の海面に赤く映えて炎々と燃えている。火焔の中から、更に爆発の火が闇の空中に噴き上がる。凄絶な光景であった。

炎に包まれて、艦型は全くわからない。はじめは敵艦かとも思ったが、おそらく山城、扶桑の2艦であろう。

炎上艦を右舷約1000メートルに見ながら、艦隊はスリガオ海峡を北進した。艦橋は沈黙している。乗員も無言である。2個の火焔は後方に遠ざかった。間もなく、旗艦那智の電探(レーダー)が右前方1万メートルに大型艦らしい目標を探知した。「魚雷戦用意」が下令された。駆逐隊(曙、不知火、霞、潮)が全速で突撃を開始する。

前方は煙幕、右前方に敵味方不明の艦が1隻炎上していた。

「左魚雷戦・・・・」那智、足柄は高速で右に回頭しながら、煙幕の中の探知目標へ、片舷全射線8本ずつ、計6本の魚雷を発射した。

このとき、回頭中の先頭艦那智に、炎上艦が異常に接近していた。操艦機能が損傷していたらしい。両艦はそのまま触衝した。

(西村部隊の重巡最上であった。艦長、副長、航海長が戦死し、舵機破壊、砲術長の指揮で辛うじて動いていた状態であったという)

「那智衝突・・・」炎上する最上は、随分大きく見えた。(ほのお)包まれた艦橋付近から、信号拳銃らしいものが発射された。味方識別信号のつもりであったろうか。

 最上と離れた那智に続いて、足柄は暗黒の海上を更に北上した。(・・・と私は思っていた)。もう来るか、もう来るかと思っていた敵の砲撃がない。

 とうとう夜が明けてきた。艦隊の前方に広い海面が開けていた。

(これがレイテ湾か、敵はいないのか・・・)

私は始めて不審を持った。海上に兵員用の手箱がひとつ浮いていた。沈没した味方の艦のものであろうか。

(実はミンダナオ海であった。那智衝突後間もなく、艦隊は突入を中止、反転していたのである。四周は全くの暗闇で何も見えず、多分緊張していた私は、うかつにも全く反転に気付なかった。反転の経緯についても、前記志摩、森両氏の手記に詳しい。)

那智は衝突のため、艦首の水線付近が(わに)口のように裂けていた。

 

4 空 襲

明け方、海峡南口付近で合同した艦隊は、午前8時過ぎ、敵艦上機約40機の空襲を受けた。雷爆撃と機銃掃射であったが、敵機は主として損傷した那智、遠方の最上に攻撃を指向し、無傷の足柄に来襲する機は多くなかった。機銃掃射も受けたが、照準は不正確で海中に飛沫を上げるだけ、命中弾はなかった。

1機だけ、執拗に足柄を狙っている雷撃機があった。大部分の敵機は爆弾魚雷を落としてしまったあとである。

「分隊士、あいつに気をつけろ。まだ、魚雷持っているぞ。」

高射指揮官武藤大尉から注意された。乱舞する敵機の中に、TBFアヴェンジャー1機が隙をうかがうように足柄の周囲を飛んでいる。腹に抱いた魚雷の頭部が赤く塗ってあるのが見えた。(何時、落すつもりか……)些か不気味だったが、彼は足柄の対空砲火のため遂に寄りつけず、雷撃を諦めたようであった。

 

結局、この空襲で最上は致命傷を受けて後に自沈し、足柄だけが無傷のままであった。1時間後に一度、午後更に約70機の空襲を受けたが、このときも数機を撃墜し損害皆無であった。

足柄は翌26日午後ミンドロ島南西で、一時航行不能になっていた第1遊撃部隊の熊野と合同、これを護衛してコロン湾に入泊した。その後、那智は応急修理のためマニラへ回航、足柄はパラワン島バクダナン湾に仮泊したのち、11月7日ボルネオのブルネイへ入港した。

ブルネイには第一遊撃部隊(栗田艦隊)が入泊していた。シブヤン海の激戦で武蔵を喪い、大和は前部揚錨機室に被弾して投錨することができず、艦隊から離れた位置で漂泊していた。             

ここでB‐2450機の空襲を受けた。このとき大和の46糎主砲の三式弾射撃をはじめて見た。来襲する敵編隊の前面に、大和の第1撃が炸裂、無数の弾子がキラリと光りながら円形に拡散する。1番機が被弾したらしく、高度を下げた。編隊が乱れて水平爆撃はほとんど命中せず、敵機は去った。

 

捷一号作戦は終った。

第5艦隊残存兵力は、内地出撃以来僅か1ケ月で足柄と駆逐艦3隻(うち1隻は損傷、修理中)に激減していた。しかし、作戦の目的は殆ど達せられなかったのである。

(スリガオ海峡で損傷した阿武隈は1026日爆撃により沈没、1027日不知火、11月5日マニラにおいて那智、1118日、曙、初春、1024日、本隊に合同中の若葉、と相次いで沈没。内地を出撃した10隻のうち、この期間に6隻が喪われたのである。)

 

サンホセを撃つ

昭和1912月15日、フィリピンに進攻した米軍は、レイテに引続き艦艇60隻を連ねて、ミンドロ島サンホセに上陸を開始した。約2個中隊の日本軍守備隊を撃破して、忽ちサンホセ飛行場及び市街を占領し、飛行場の修理拡張工事にとりかかった。ルソン島攻略への足がかりである。

この事態に対して南西方面艦隊司令部は、シンガポール南方のリンガ泊地にあった第5艦隊魔下の第2水雷戦隊(司令官木村昌福少将)に、サンホセ攻撃の命令を発した。1225日夜、サンホセの敵泊地に突入、在泊艦船を撃破すると共に、飛行場、物資集積場を砲撃せよ、というものである。

使用兵力は、2水戦の霞、清霜、朝霜、榧、杉、樫の駆逐艦6隻に加えて、足柄、大淀の巡洋艦2隻、計8隻である。「礼号作戦」と呼称された。

作戦参加部隊は直ちにシンガポールに回航、足柄にあった第5艦隊司令部は、一時戦艦日向に移乗、その他の艦もそれぞれ不用品、可燃物などの陸揚げ、弾薬の搭載等、出撃準備をととのえた。

戦隊(挺進部隊と呼称された)は、1221日シンガポール出港、インドシナのサンジャックを経て23日カムラン湾に到着した。ここは日露戦争の際、ロシアのバルチック艦隊が東洋回航の途次、最後に碇泊、補給した処である。

薄曇りのうすら寒い感じすらする日であった。泊地からは、湾内の陸上に人家は見えず、鮮やかな筈の線さえ黒ずんでいて、一見荒涼とした風景であった。どういう訳か、曇り空に凧が一つ揚がっていたのを憶えている。わが戦隊も、ここで燃料を補給し最後の準備を完了した。

24日朝カムラン出港、水上機基地の零式水偵2機が、前路の対潜哨戒に当る。戦隊は艦首を真東へ   針路90度、速力20ノットで一路ミンドロ島へ向かう。約1時間後、飛行機は哨戒を打切り、カムラン基地引き返していった。

私は、自分の戦闘配置である足柄の右舷高角砲指揮所の小さな椅子に腰をおろして、鉛色の海を眺めていた。後方に遠くかすんでいたインドシナの陸地も、やがて全く見えなくなった。秋から冬にかけての南支那海では季節風の影響で荒天の日が多い。今日は割に静かだが、それでも青空は見えず、海上は白波が立ち、双眼鏡で見える水平線は銀である。海面上約18メートルの高さの高角砲指揮所でも、1時間もいれば全身しっとりと湿ってくる。海水の飛沫を含んだ風のためである。私はその頃の癖で、小声で歌を口ずさんでいた。低い歌声は潮風に飛ばされて、付近の者は誰も気付かない様子であった。

夕食後、副直将校として艦橋勤務に就く。暗黒の海上にほの白い航跡を引いて、対潜警戒の之字運動をしながら、基準針路90度で真東へ向かっている。時折、当直将校の操舵の号令がゆったりと響くだけで、暗い艦橋内は静かであった。各種計器の文字盤の夜光塗料だけが青白く輝いている。平常の航海と全く変らない。

艦隊司令部からサンホセの敵情が入電した。数十隻の船団が在泊中で、護衛は海防艦か駆潜艇程度らしい。突入すれば鎧袖(がいしゅう)一触、存分に敵を粉砕できる。艦橋内に活気が流れた。

当直を終りガンルームへ帰ると、航海中の慣例で夜食が出た。いつもは、うどん程度なのに、明日の戦闘に備えてか、今夜はなかなかの御馳走である。一同大喜びで美しく盛り合わせた御馳走を詰め込んだ。夜食を終って、あすの今頃はもう戦闘かも知れないな、と思いながら寝る。閉め切った艦内の暑苦しいのだけが閉口であった。

 

 2 1225日、曇天。配置教育なし、整備作業を行う。午前中いま一度、各部の準備を点検する。高角砲指揮所、高射器、測距儀、各高角砲及び機銃群を巡回する。既に弾片よけのマントレットも完備して、それぞれ兵器の最後の点検整備に余念がない様子であった。中下甲板へ下りて弾薬庫や供給装置をまわる。各区画の通路は、最小限のくぐり穴を残して厳重に閉鎖されているので、それらをひとつひとつくぐり抜けるのが大変だ。ひと廻りで汗びっしょりになった。

通路の要所、要所には、消火栓のほかに防火用水として、満水したドラム缶が置かれていた。士官室には「戦時臨時治療室」、士官室浴室には「戦時死体収容所」の木札が下がっている。治療室はともかく「戦時死体収容所」には、いい気持はしない。当然の準備には違いないけれども…。

やっとひと廻りして再び指揮所に帰り、暫くしてガンルームに下りて休憩、昼食。

午後、偵察および砲撃の弾着観測のため、搭載していた水上機2機を発艦させる。任務終了後はマニラへ帰投させる予定であった。

燃料を満載し、両翼に小型爆弾を装備した零式水偵は、艦長以下乗員の見送る中、カタパルトで射出された瞬間、海面すれすれまでフワリと沈んだが、すぐに機首を立て直して上昇し、やがて東の空へ姿を消した。

出港当時は荒れていた海も、フィリピンに近づくにしたがってずっと静かになった。艦の動揺も比較的少ない。

ガンルーム寝室で戦闘服装に着替える。下着から全部清潔なものに替え、それまで着ていた防暑服、下着などを一包みにする。申し合わせたように、各自身廻品の整理をした。

艦隊の行動は、まだ敵に察知されていない様子だった。表面的には至極平穏無事な航海のようだ。私は上甲板で休憩中、第2分隊長武藤大尉に話しかけられた。時刻は日没に近く、海風が(こころよ)かった。

「分隊士、もうひと息で今夜は成功するかも知れんな」

「はあ、暗くなるまで発見されなければ・・・。現場へとっつきさえすれば、もうこっちのものですね」

しかし、事はそう簡単に我々の思い通りにはならなかった。間もなく見張員が、右前方3万メートルに機影を認めたのである。殆んど同時に、僚艦大淀のマストにも「敵発見」の信号が揚がった。

「配置に就け」 のブザーが艦内に鳴りひびいた。指揮所に上がって望遠鏡を覗くと、高曇りの空に、かすかに機影がひとつ見える。

哨戒機であろう。遠距離で機種ははっきりしないが、大型機 どうやらB24らしい。

艦隊は、警戒航行隊形から戦闘隊形に展開する。足柄、大淀の縦陣の両側に駆逐艦3隻ずつが配置される。速力は24ノットに増速された。おそらく味方は発見され、敵基地に通報されるであろう。艦隊の現在位置、針路から推して、ミンドロ島へ向かっていることは容易に察知されるに違いない?(もう1時間、発見されなかったら・・・)と残念がったが、あとの祭りである。もっとも、敵の制空権下を8隻もの艦隊が、全く発見されずに敵に接近できるとはわれわれも期待しなかった。

敵機は2機、3機と次第に増加して、味方の射程限度付近で触接を続けている。もはや空襲は必至、間もなく爆撃機の編隊が現れるだろう。

やがて双発双胴の戦闘機P38の編隊が現れた。これもわれわれの射程外を軽快に飛び続ける。

太陽は漸く後方の水平線に没して、残照の中に、次第に数を増す機影が点々と見えている。熱帯の夕暮れは短い。あたりは急速に暗くなってきた。

夕食は配置に就いたまま、敵機を見ながら戦闘配食の握り飯を頬張る。間食用として、乾パン2包、ミカン缶詰、菓子包などが各自に配られていた。

立ち上がって鉄帽をかぶる。ずしりと頭に感じる重さに身の引き締まる思いがする。防弾チョッキは重くて窮屈なので着けなかった

いつの間にか空はすっかり晴れて、満月が明るく輝いている。もう全く夜になり、肉眼では機影は見えなくなっていた。速力は28ノットに上げられた。海上は湖のように凪いで、高速にも拘らず艦の動揺はほとんど感じられない。

舷側の白波だけが、夜光虫でほの白く光りながら飛ぶように後方へ走っていく。

 

 3 艦隊は、サンホセへ向かってまっしぐらに進んでいる。もう之字運動もしていない。敵機は、その後更に数を増し、夕闇を利してぐっと接近してきたようである。中空に1個パッと真紅の火の粉が散るのが見えた。敵1機が、機銃の試射でもしたらしい。

「対空戦闘」が下命された。

「大型機編隊、こちらに向ってくる」

見張員が報告する。直ちに、高射器、測距儀へ目標を指示する。

(さあ、来るぞ・・・)全艦の対空砲火の銃砲ロは、一斉に敵の来襲方向へ向けられ、乗員は、明るく澄んだ夜空に、肉眼ではまだ見えぬ敵機へ(ひとみ)をこらした。

(米軍側の記録によれば、このときの来襲機は、サンホセ飛行場から飛び立ったB25爆撃機 13、P38戦闘機 44、P47戦闘機 28、P40戦闘機 20、計105機であったという)

敵の第1撃は、大淀への銃爆撃に始まった。大淀が応戟する。双方の機銃弾の曳根が交錯して美しい。味方は橙色、敵はピンクがかった赤色、無数の光の矢が闇の中を飛び交う。

大淀への爆撃は外れて、どす黒く見える水柱を何本も海上に噴き上げた。月光を受けて銀色に縁取られた水柱は、黒い杉木立のように伸び上がり、やがて、ゆっくりと崩れた。

足柄に来襲する編隊は、高度を下げて接近してくる。

「測的よし」高射器からの報告、続いて「射撃用患よし」

()ち方始め」発射指示のブザーが響く。

「ダァン・・・」右舷4門の12.7糎連装高角砲が一斉に火を吐いた。一瞬、パッと閃光がきらめいて、生温かい爆風が顔に吹きつける。ツーンと鼻をつく火薬の匂い。引続き4秒間隔で次ぎつぎに発射される砲弾に、敵は編隊を解いた。射撃を中止して動静を見守る。

右舷後方からP38が機銃掃射してきた。左舷からも攻撃してきたらしい。中部後部の25耗機銃群が応戦する。すさまじい音を立てて艦体に跳ね返る敵の曳跟(えいこん)弾は、大粒の(あられ)そのままである。寸秒の後、敵機は味方の弾幕をかわして、吾々の頭上をすり抜けた。敵機は、各に分散して銃爆撃を加えている。各艦とも、全対砲火をもって応戦中だ。

月明の海上は、今や閃光、爆音、銃砲声の坩堝(るつぼ)と化した。護耳器をつけていても耳が痛くなるような、いや、頭の中を引っ掻きまわされるような轟音が渦巻き、目に突き刺さるような閃光が、海上一面に交錯する。

「直上爆音 !」見張員の声。低空爆撃か・・。

「面舵いっぱい、急げ」・

落ち着いた航海長の声、航海長音津中佐は爆撃回避の第一人者である。

艦は大きく傾いて右に回頚を始めた。左舷上空に、シュシュシュシュ……という音が聞える。爆弾の落下音だ。(何処へ落ちるか・・・)

息詰まる数秒、やがて、「ボボン」と左舷海上に鋭い音、(外れた・・・)・ホッとした次の瞬間、落下点にズズーンと凄まじい水柱が噴き上がった。

艦は、右に左に転舵して銃爆撃を躱している。

澄みわたった夜空を背景に、翼を拡げた真黒な怪鳥にも似たB24が、のしかかるように頭上に迫る。機銃弾の赤い曳跟(えいこん)が、(しゅう)のように降りそそぐ、飛び散る。味方の機銃弾が機影に集中する。真上から反対舷へ抜ける寸前、機体から火焔が、金粉のような火の粉を散らしながら、さっと尾を引いて流れた。

「命中」誰かが叫ぶ。機影はそのまま反対舷に消えた。

右舷正横から機銃掃射が来た。無数の赤い閃光が視界いっぱいに飛び込んでくる。25粍機銃が応射する。高角砲が発砲する。鼓膜をつき破るような音と、交錯する火箭。

「3番高角砲射手重傷、砲台下士官が交代しました」と報告がくる。敵弾が、高角砲の鉄の防楯を貫通したらしい。機銃員にも、既に数名の負傷者が出た様子である。

「ガガーツ、ヒユーン・・・」反対舷から攻撃してきた1機が、マストすれすれに頭上に現われ、急上昇して夜空に消えた。

艦は回頭している。後方に水柱が上がった。小型爆弾らしい。また右後方から機銃掃射。

照準が外れて、銃弾は舷側に跳ね、海面一帯に飛沫を跳ね上げる。

「大淀、前甲板に爆弾命中、火災」と声がする。右後方の大淀の前甲板から、夜目にも白く、煙が(なび)いているのが見えた。速力は落ちていないらしい。その大へ、また敵機が襲いかかって行く。はげしい射ち合い。だが傍から見ていると、実に綺麗な光景だ。赤い光芒の中に浮き出た黒い艦型から、無数の閃が噴出している。まるで仕掛花火のようであった。

足柄にも同様に、各方向から銃撃が続いている。が、前方からはあまり来ないようだ。

敵は、最も大型の足柄を旗艦(戦艦と誤認していた)と見て、攻撃をかけてくるようだが、まだ負傷者だけで、ほかに被害はない。機銃掃射も、案外当たらないものだな、と思った。

駆逐艦清霜が被爆して、損害が大きいらしいが、私の位置からは見えない。大淀の白煙は消えたようであった。この方の被害は少なかったらしい。

各艇とも損害を受けたようだが、敵も数機を撃墜されたようであった。彼等の低空銃爆撃は、勇敢であった。困難な夜間攻撃にも拘らず、防禦砲火の中を至近距離まで突っ込んでくる。燃えながらフラフラと着水して沈みかけながらも、火焔の中から曳跟弾を発射している機もあった。そして残ったものは、相変らず執拗に攻撃を続けている。爆弾は尽きたらしく、専ら機銃掃射を繰り返してくる。

私はふと、敵の機銃弾の曳跟が、街のネオンサインの赤いチューブによく似ているのを思い出した。彼我の銃砲声のために、私の聴覚は殆んど麻痺していた。

4 「高角砲射ち方待て」高射指揮官武藤大尉から命令があった。

比較的発射速度のはやい高角砲も、この乱戦では、目標捕措、射撃諸元調定、射撃という一連の操作は、不可能に近くなっていた。

その上、発砲の閃光が、付近の機銃員の視覚の妨害にもなっていたらしい。月明の夜にも拘らず、敵の機影は至近距離に来るまで見えなかった。機銃の曳跟の光に眼が眩惑されていたのである。高角砲の閃光となれば尚更であろう。主砲は、最初から射撃していなかった。

 

私は「射ち方待て」を高角砲に下令した。

周囲の海上を見渡すと、大淀は無事に戦っているようだが、被弾した清霜は、火災を起して停止していた。1隻の駆逐艦が救援に接近している。

私は、ふと気がついて、ポケットから菓子と乾パンを出して食った。菓子は甘くて旨かったが、乾パンは口が渇いていてあまり食えなかった。ポケットがガサガサして邪魔なので、残りを指揮所のまわりの断片よけの釣床の隙間に押し込んだ。あとで出して食うつもりだった。

上空の敵機の跳梁は、まだ続いていた。またドッと機銃弾が右舷正横から飛んできた。「あっ、来た……」叫んで、近くにいた若い信号兵が2、3名、立っている私の足許へ駈け込んできて(うずくま)

「こらっ、邪魔だ。どかんか。」森兵曹が怒鳴りつける。

弾丸はあちこちにあたって跳ね、赤い光が縦横に飛び散る。曳跟の光で周囲が薄赤く染まり、物の形や人影が黒く浮きあがる。3メートル程離れた電探室で異様な叫び声がした。 機銃弾が、壁の鉄板を貫通して室内の電測見を殺傷したらしい。

 「1名即死、1名負傷」と報告する声が聞こえた。

 各艦とも、最大戦速で右に左に転舵して、敵の執拗な攻撃をかわしながら、じりじりとサンホセの方向へ進んでいる。損傷した清霜はずっと後方になっていた。

左舷側から機銃掃射が来た。低い、殆んど水平の弾道の曳跟が、急に多く、激しくなった。思わず左舷側を振りむくと、「ドーン」と鈍い音がして左舷の4番高角砲付近が、パッと明るくなった。

(あ、4番砲がやられた・・・)4番高角砲射手堀田兵曹の童顔が脳裡をかすれた。4番高角砲の下は魚雷発射管室に隣接している。4連装の発射管が4基、計16本の93式魚雷が装填してある。その魚雷が誘爆を起したら・・・、艦の運命は明らかである。艦橋はサッと緊張した。

電話についた伝令が、頻りに発射管室を呼んでいるが、連絡がとれない。 水雷長松田少佐が自ら伝声管について大声で呼ぶ。

「発射管室、発射管室。被害はないかっ。情況知らせ」

応答はない。付近の通信装置は全部故障したらしい。艦橋から伝令が走った。入れ違いに中部上甲板の応急員から報告があった。

「第3兵員室に爆弾命中、火災」

4番高角砲は無事だった。第3兵員室は広い居住区で、戦闘力に直接の影響はない。ややホッとたが、兵員室の下は機械室、上は発射管室、その後部は魚雷用の第2空気(酸素)室である。どこへ延焼しても重大事態になる。

火災はかなりはげしい模様だが、発射管室は無事らしい。その発射管室の真下の第3兵員室に爆弾とは変だな、と思ったが、私にはそれ以上考える余裕はなかった。

(実は爆弾ではなく、米軍機が体当りしたのだった。足柄の機銃で被弾したP38が、射撃を続けながら舷側に激突したのである。機体は無残に壊れながらも、舷側に大穴をあけて艦内に飛び込み、燃料や弾薬が飛散

して火災を起した。だが.このことが判明したのは鎮火後であった)

応急員や水雷科員及び付近の電機科員等の懸命の消火作業にも拘らず、火は、第3兵員室一杯に燃え狂い、隣接区画が次第に熱くなってきた。自然発火の危険もある。発射管室では、魚雷に水をかけて冷却していた。火災現場では、電気室、第2空気室への延焼を防ごうとしていた消火隊員が、激しい火焔に煽られて次々に斃れた。

 

煙が、次第に中甲板の他区画へも進入していた。缶室、機械室が無事なので速力は落ちていなかったが、舷側の破孔から火と煙を吐いている足柄に対して、敵機は更に攻撃を繰り返してくる。右舷から、左舷から、後部機銃群へ、機銃弾の雨・・・。頭上や横を弾丸が飛び抜けるシュウン、シュッという音、各部にあたってパチパチと跳ね返る音、低空銃撃の爆音や応射する味方の銃声、すぐ近くだが、ずっと遠方のように聞える。

火災の情況が、つぎつぎに報告されている。万一に備えて「魚雷発射用意」が下命され、発射管が海面に向けられた。火災が拡がって危険になった場合には、魚雷を海中に投棄するためである。(後になって投棄された)

通信料の後部電償室の連絡が絶えた。熱気とガスのために全員が斃れたのである。

後部左舷の機銃揚弾装置が一部作動不能、供給員2名負傷の報告があった。火勢は意外に強く、大きな焔でひとなめされると、ひとたまりもなく斃されるらしい。

 

さきに被爆し、遅れていた清霜は、遂に沈没した旨、報告があった。駆逐艦1隻に、乗員生存者の救助が命令された。敵機の攻撃は、やや緩慢になった模様である。

 

5 暫くすると、敵機は攻撃を打切り、引揚げ始めた。艦隊は隊形を整え、サンホセへ向かって突進を続ける。

漸くひと息ついたところで、足柄の受信機に米軍の放送がはいった。平ら文である。

「今夜12時を期し、在フィリピン航空兵力を挙げて、ミンドロ島に来攻した日本艦隊を撃滅する」というものであった。威嚇牽制であろうと思ったが、些か薄気味が悪い。サンホセ到達予定は午後11時頃になるので、砲撃の時間はある。それまでに敵の第2次空襲がなければいいが・・・・。また、サンホセに敵船団はまだいるのだろうか・・・。われわれが発見されてから、かなりの時間が経過していた。船団が避退する余裕はあった筈である。

 

前方に、夜目にも黒々とミンドロ島が見え始めた。空襲の気配は全くない。今度は潜水艦か、魚雷艇か・・・)。2ケ月前のレイテ湾口、スリガオ海峡の夜戦が思い出される。予定の進入航路に従って変針、島に接近する。

後方に大淀が続いた。

 

やがてサンホセに近づく。危惧した通り、敵船団は不在で、僅かの小艦艇しかいないのではないかと思われた。予想外に静かで、敵の気配がなかった。熾烈な空襲を排除して、やっと辿りついたのに、と思うと残念であったが、あとは飛行場と、河口の物資集積場を砲撃することである。

 

「主砲、照明弾射撃用意」号令がかかる。

「面舵」航海長の声。いよいよ射撃針路に入る。速力は20ノットに下げられた。

「左砲戦」待望の号令である。

先刻の対空戦闘に一発も放たず、満を持していた20糎主砲は、ゆっくりと旋回を始め、十門の砲口は左舷前方サンホセの方角へ、ピダリと向けられた。

「只今から、主砲射撃を開始する。」力強い声が、拡声器を通して艦内に伝達された。艦橋、射撃指揮所、測的所、発令所、各砲塔―――全射撃系統が、最後の目的に緊張する。

後部中甲板の火災は、表えてはいたが、まだ燃え続けていた。必死の努力を続ける消火隊員にも、この声は届いたであろうか。

「照明弾射撃用意よし」いよいよ射撃開始。

「射ち方始め」「ダァーン・・・」20糎主砲が一斉に火を吐いた。

目の前がカッと明るくなり、熱風がドッと全身に吹きつける。艦全体がビリリと震動する。火薬の匂いが立ちこめる・・・。

敵地の上空にパッパッと照明弾が開く。引き続いて斉射、また斉射、全乗員の期待をこめた砲弾は、夜気を揺るがせて暗闇に吸い込まれて行く。

大淀の15糎主砲も射撃を開始していた。敵の反撃は全くない。弾着地点は炎上し始めたらしい。一航過の後、180度反転、主砲は右舷にまわって再び射撃が続けられる。閃光と轟音と、爆風と震動と、すさまじい中にも、鬱積したものを一気に吹き飛ばすような、一種の爽快さがある。遭難者救助で遅れた駆逐艦も、漸く到着して警戒に当っていた。

 

右舷正横7000メートルに魚雷艇を発見した。暗い海上を左に移動する黒影が双眼鏡に映る。

高角砲の水上射撃の好目標である。高射器、測距儀は既に目標を捕捉していたが、照射用意が下令された。

「照射始め」の号令と共に、探照灯の青白い光芒(こうぼう)が、灰色の魚雷艇を照らし出した。私は、急いで的針的速を判定して、高射器へ指示する。衆人環視の中での射撃である。指揮官の私は張り切った。

「射撃用意よし」「射ち方始め」

右舷4門の高角砲が再び火を吐いた。初弾は目標の左方に落ちた。修正弾は苗頭正中。瞬間、魚雷艇は水柱に覆われた。命中かと思ったが、敵は煙幕を展張して、その中に姿を没した。更に数斉射、煙幕の中へ射ち込んだが、効果不明のまま、照射、射撃を中止した。

 

主砲射撃も既に終り、いよいよ帰途につくことになった。

 

6 艦内の火災は多くの犠牲者を出しながら、漸く第3兵員室に局限され、徐々に下火になっていた。可燃性のものは、もう殆んど燃え尽くしていたのであろう。

私は高角砲指揮所に腰をおろして、残しておいた乾パンを食べようとしたが、ひとつもなくなっていた。主砲射撃の爆風と震動とで、飛ばされてしまったらしい。

 

月は傾いていたが、海上は明るく静かであった。月光を反射して銀色に輝く海、これが数時間前の戦場―― 無数の銃砲弾が射ち込まれ、爆弾が水柱を噴き上げ、1隻の駆逐艦とその乗員、そして撃墜された飛行機など、敵味方の多くの生命を呑んだ海とは思えなかった。銀色の海に黒いシルエットを浮かべる各艦の姿も・・1隻を失い、残った艦もそれぞれ傷ついてはいたが・・表面は、何事もなかったように、往路と同じく警戒航行を続けていた。

時間が経過した。敵の呼号した「大空襲」の気配は遂になかった。

すこし寒くなった。服は夜露にしっとりと湿っている。私は雨衣を着て、指揮所に腰かけたまま居眠りを始めた。

「第3兵員室、火災鎮火」という声を聞いて目を覚ました。暗い艦橋内に、安堵の空気がひろがっていた。甲板士官として消火指揮に当っていた、同期の西川中尉のことが、私の気にかかっていたが、何も知らせのないのは、無事のしるしだろうと思って、私は再び居眠りはじめた。今度の眠りは、前より深かった。

 

目が覚めたときは、夜が明けかかっていた。後方の水平線が明るくなり、各艦とも何事もなく西へ航行を続けていた。東の水平線近くの雲が、金色に染まりはじめた。見馴れた海上の日の出だったが、やはり美しい。

 

火災現場の後片付けに、指揮所からも作業員1名を出すようにとの連絡で、伝令の安藤兵長を出した。1時間程で彼が帰ってきての話では、現場にはまだ熱気がこもり、床には消火のために注水した海水が黒くよどみ、30センチ近くも溜まっていて、その排水作業をしたのだそうだ。そして、その溜り水の中に戦死者が倒れていて、ひどいものです、と言う。

火災の原因が、爆弾ではなくて飛行機が飛び込んだらしい、という話をこの時はじめて聞いた。

朝食になった。昨夜と同様、握飯が配られる。食後にミカン缶をあけた。咽喉に泌みるような旨さであった。艦内は、漸く戦闘配置が解かれ、第2警戒配備となった。

私は、指揮所をおりて各高角砲や機銃群をまわり、後部へ行ってみた。なまなましい弾痕が、至たるところに残っていた。鉄製の手摺や支柱が、幾個所も射ち抜かれていた。3番高角砲射手を傷つけた弾丸は、鉄の砲楯に径3センチ程の孔をあけていた。4番高角砲の砲身が2ヶ所、鶏卵大にえぐられていた。使用不能であろう。右舷機銃群指揮所の、指揮官の頭の真後にあたる位置に弾痕の孔があいていた。よく指揮官にあたらなかったものだ。25粍機銃が数基、壊されていた。飛行甲板に飛行機の翼が落ちていた。星のマークの一部が見える。突入したP38戦闘機のものが、激突の瞬間に千切れて飛んだものらしい。

 

発射管室から第3兵員室へおりてみると、戦死者を後甲板へ運んでいた。死者の数が多くて、無残に焼け爛れた広い内部には、焦げ臭い鼻を刺すような強烈な異臭がこもっていた。

多くの作業員が、後片付けに忙しそうに動いていた。戦死者を後甲板に運んでいた。死者が多くて浴室の収容所に入りきれないのである。作業中の若い兵員の表情がこわばっていた。

途中で会った西川中尉と、一応ガンルームに引揚げた。前夜の消火指揮の苦闘を物語るように、彼の顔は薄黒く汚れ、眼が窪んで、一夜で憔悴(しょうすい)した表情になっていた。何度も水を浴びたらしく、着ている雨衣に塩が白く浮いて、裾の方はまだ濡れていた。机の曳出しから煙草を出して火をつけ、旨そうに一服吸ってから、火災の模様をぽつりぽつりと話し出した。ガンルームには、まだ誰も来ない。

「とにかくあれだけで精一杯だった。あの近くへ、爆弾がもう一発でも落ちたら、どうしょうかと思ったよ……」

彼は一度に疲労が出たという様子だったが、やがて思い直したように立ち上がって、部屋を出ていった。

 

私は、臨時治療室にあてられた士官室へ行ってみた。室内は負傷者で満員だった。薬品の匂いがこもり、一応の手当は終ったらしく、割合に静かであった。

3番砲射手の井上兵曹は、右肩から胸部へかけて包帯をして寝ていた。昨夜は、主砲射撃の音で意識を回復し、「俺も射つんだ・・・」と何度も起き上がろうとして付添をてこずらせたらしいが、今はよく眠っている。腹部に弾丸を受けた機銃員の宮城兵曹は、横になると却って苦しいらしく、上半身を起してかすかに(うめ)いていた。機銃弾に片腕を潰ざれた17.8才の電測兵が、(ひとみ)をうるませていた。顔面、手足など見えるところ全部を、包帯で真白に覆われている者も何人かいた。負傷者の過半数は火傷であった。

 

昼食は、丸1ぶりにガンルームで()った。ガンルームのメンバーは一応無事で、また顔を合わせたのでみる。食後、遠藤少尉が米軍パイロットの死体を発見したときのことを話していた。見つかったのは焼け(ただ)れた上半身だけで、焼け跡に散乱した器物にまじって投げ出されてあったそうである。しかも遠藤は、気付かずにその上に乗っていて、部下から注意されてはじめて判ったのだそうだ。

「いや、なんにも知らずに、丁度いい踏み台だと思って乗っていたんですよ。ところが、それ一体なんですかって言われて、よく見たら茶色の髪の毛らしいものと、白い骨の端が見えたんで、びっくりして……」

彼は当分の間、肉を食う気になれなかったそうである。

 

7 戦死者の水葬が、日没前から後甲板で行われた。

戦隊は、基準針路270度・・・真西へ速力20ノットで航行を続けている。夕凪の海は静かに輝いていた。

当直以外の乗員は、全員後甲板に整列した。艦橋では、艦位が確認された。戦死者は47名、遺体は髪と爪とを採った後、毛布に包まれ、演習用の20糎砲弾が1発ずつ、錘としてつけられていた。

葬送曲「水漬く屍」のラッパが、長く余韻を引いて鳴り終る。儀杖隊の弔銃が海面に響く。夕日が、赤々と後甲板を照らしていた。

甲板に並べられた遺体は、一人ひとりの官姓名を呼び上げられ、艦尾から出された道板を滑って、つぎつぎに夕映えの海に沈んでいった。

最後の遺体は、普通の3分の1程の包みだった。突入した戦闘機のパイロットである。

上半身だけの「彼」も、本艦の戦死者と同様に取り扱われた。足柄の損害の大部分は、彼が与えたものだったが、同じ軍人として、その壮烈な最期に敬意を表したのである。「彼」もまた、乗員の敬礼を受けて海に沈んでいった。

水葬は、各艇とも同時に始められたが、足柄の戦死者が最も多く、終った時には、陽はすでに水平線に没し、海上は薄暗くなって夜の風が吹きはじめていた。

その夜おそく、重傷者が2名死亡した。また水葬が行われた。

夜中に2度ばかり潜水艦に脅かされたが、翌朝無事カムラン湾に到着した。2日間碇泊して、艦内の破損個所の応急修理、整備を実施した。左舷の大破孔は、自力では修理が不可能であった。飛行機が激突した個所は、舷側が大きく横に裂けていて、内側から海が見わたせた。継目のリベットがちぎれて飛び、厚い鉄板が内側へ押し拡げられていて、衝撃の凄さを物語っていた。

第3兵員室には、戦死者を祀る祭壇が設けられていたが、室内の強烈な異臭は、まだ残っていた。

1230日カムラン出港、往路と同じくサンジャックを経て、漸くシンガポールに帰り着いた。明るく晴れ上がった朝であった。

負傷者を早く入院させるため、一旦港外に投錨し、内火艇が卸された。負傷者は、艦長以下乗員の見送る中を、重傷者から順番に担架で舷門を運びおろされていった。

その後再び抜錨、今度は本格的修理のため、港の西端にある工作部岸壁に横付けした。

雑然とした岸壁では、横付作業に働く裸足のマレー人作業員たちが、呑気な顔でローブを引きずっていた。私は、別世界を見るような感慨で、その光景を眺めた。徐かに、緊張感が解けはじめ、漸く気持ちが和んでくるのをおぼえた。

岸壁の白いコンクリートに、赤道直下の強烈な日射しが照りつけていた。昭和20年1月1日の午前であった。

(後 記)

1 この作戦は、2ケ月前の捷一号作戦とは異なり、小部隊による奇襲作戦であり、足柄が作戦の主力ともいうべき艦であったため、私のような下級士官にも、作戦経過の全貌が大体わかった。できるだけ事実に忠実に書いたつもりであるが、何分にも下級指揮官としての狭い視野での見聞である。記憶違いや事実誤認もあるかも知れない。

突入の日は、公式記録では1226日になっている。また、サンホセ在泊中の米軍輸送船(リバティー型ジェームス・A・ブリーステッド等)を撃沈したという記録もある。私の記憶とは違っているが、ここでは私の記憶にしたがって書いた。

一般には知られていないが、戦争末期において、一応の成功を収めた数少ない海上作戦であった。

宇垣纏中将(開戦時連合艦隊参謀長、終戦時大分基地より特攻機に搭乗戦死)の日記「戦藻録」の昭和191229日付に次の記載がある。

「我水上部隊は26日夜基地部隊の策応の下ミンドロ島に殴り込みを行い、輸送船団、魚雷艇を撃沈し、敵飛行場及物資集積所を砲撃した。サンホセ方面泊地突入には最適の地点、此の事のあるを望めるが、よくぞやりたり。我等在隊せば、当然参加する処をと思う」

挽歌の海(3)

昭和20年6月7日、軍艦足柄は、陸軍部隊1600名を乗せてジャカルタを出港した。

随伴は駆逐艦神風、ジャカルタからシンガポール(昭南)への、第2回目の輸送作戦であった。10号輸送作戦と呼称された。

1回目の輸送のとき、ジャカルタ入港直前に、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けた。このときには無事回避したのだが、今回も当然、攻撃を受けることを予想しての強行輸送であった。

私たち足柄乗組の将兵は、敵潜水艦に対しては、殆んど絶対と言っていい程の自信を持っていた。優秀な見張、敵の追随を許さぬ優速、熟練した操艦などで、つけ入る隙を与えず、これまでの戦闘航海を生き残ってきた艦である。前月15日、僚艦羽黒がアンダマン補給作戦の途中(このときも随伴駆逐艦は神風であった)ペナン沖で英国艦隊と交戦、悲壮な最期を遂げて以後、日本海軍の巡洋艦以上の軍艦で、洋上で作戦行動していたのは、足柄ただ1隻であった。

警戒航行を続けながら、無事6月8日の朝を迎え、スマトラとバンカ島に挟まれたバンカ海峡にさしかかった。海峡通過のため「第2警戒配備」の号令がかかったのは午前11時頃であった。私は配置につくために、前部中甲板の自室から、双眼鏡だけを持って、艦橋後部の右舷高角砲指揮所に上がった。 

海峡には、対潜警戒のために神風が先行し、既に北出口付近で、掃蕩にあたっている筈である。天候は薄曇り、風が少しあったが海面は静かで、まず平穏な航海のようであった。

第2警戒配備のため、通信長安福大尉が、当直将校として操艦にあたっていた。私は、指揮所の手摺にもたれて、ゆっくりと周囲の海や、右側のバンカ島を眺めていた。艦は海峡を出かかっていた。2000メートルばかり前方に、駆逐艦神風の姿が見えていた。時刻は正午を過ぎていた。

突然、「雷跡!」という叫び声が艦橋の方で聞えた。ハッとして海面を見ると、青い海面にはっきりと白く、魚雷の航跡が4本(と私には見えた)右舷正横からまっすぐに、本艦に向かって伸びて来る。

(近い、回避は、間に合わないだろうと直感した。)

私は無意識のうちに、指揮台から片足を.おろし、両手で手摺の支柱を握って、衝撃に備える姿勢をとっていた。その姿勢のまま、海面の雷跡を喰い入るように見つめる。

艦は、転舵一杯で回避運動をしているが、迫ってくる雷跡に対しては、まるで静止しているかと思うほど、緩慢な動きに見える。(浅海面を低速航行中で、舵の効きもよくなかった)雷跡は、ぐんぐん迫ってくる。(命中する、あたる・・・)口の中で(つぶや)いた。随分長い時間のような気がした・・・。雷跡は、舷側のすぐそばまで来た。一瞬(あ、艦底を通過したか・・・)と思った途端、「ドッスーン・・・」ものすごい震動が、艦全体をゆるがした。爆発音は聞えなかった。私は思わず手足に力をこめ、身を堅くして激震を堪えた!

次の瞬間、視界が真っ白に変った。魚雷の爆発による水柱である。

艦は、みるみる右舷に傾いて行く。頭上から、何かがバラバラ落ちてくる。沸騰した水柱は、一転、すさまじい滝となって崩れ落ち、私の全身を叩く。ブーンと何か火薬のような匂いがする。まだ周囲は真白で、何も見えない。海水の滝は、私の頭を、両肩を、ドスドスと抑えつけるように絶え間なく落ちてくる。艦の傾斜はますますひどくなって、滑り落ちそうな感じである。誰かに、横から身体を押されていた。(このまま転覆、轟沈か・・・)という思いが、脳裡をかすめた。

大傾斜のため、ドッと左舷側に移動しょうとした、艦橋付近の兵員たちに押されて、私は指揮所から3、4メートル離れてしまった。

「落ち着け!」と怒鳴った。半分は自身に言った言葉だった・・・。人を押し分けて指揮所に立った頃、やっと水柱も収まって、水平線が見えてきた。

ああ、まだ浮いている! 艦は停止していたが、傾斜はかなり復元した。

漸くほっとして前甲板を見おろすと、負傷しているのか、砲塔の蔭へ()って行く陸軍将校1人のほかに人影はなく、奇妙にしんとした感じの中に、陸軍の長靴が片方、転がっていた。

2 前部砲塔は、見たところ異常はないようだったが、それから前部は・・・、何もなかった。艦首がなくなっていた。

後部を見ようとしたが、艦尾は蔭になっていて、よく見えない。すると艦尾付近の海面に、推進器の廻るらしい小波が立ち、今まで停止していた艦が、すこし前進しはじめた。

(まだ動けるぞ……)と喜んだのも束の間、すぐに止まってしまい、以後遂に動くことはなかった。ごく徐々に、また傾きはじめたようである。

艦橋見張員が叫んだ。

「潜望鏡、右60303000米)」

私は、指揮所の12糎望遠鏡を右舷60度に向けて覗いた。視野は、まっ黒で何も見えない。衝撃で破損したのだ。すぐに、胸に下げている筈の双眼鏡に手をやったが、何もないのに気付いた。どこかへ飛んでしまったらしい。

かぶっていた帽子の顎紐の片方がちぎれて顔の横にだらりとぶら下がっている。ずぶ濡れの全身に風があたって、ガタガタ震える程寒い。

怒りが、こみ上げてきた。「畜生っ……」

「右戦闘!」思わず号令が、口をついて出た。上からは、まだ何の指示もない。

「右、戦闘・・・・」

号令は伝達され、右舷高射器、測距儀、高角砲は、私の号令通りに操作を開始した。

「対潜弾用意」「右60度、潜望鏡」私は、つぎつぎに号令した。

「目標見えません!」と高射器。見えない筈だ、そういつまでも、敵が潜望鏡を上げているわけがない。とにかく、右60度方向、距離3000メートルの海面へ、対潜弾をうてるだけ射ち込んでやろう、と思った。

「右60度に備え」・・・

「右60度、よし」

30!」右舷4門の12.7糎高角砲は旋回をはじめ、砲の仰角は距離3000メートルにセットされた。  対潜弾射撃は、普通の水上射撃よりも大仰角である。

「射撃用意よし」報告がくる。

思い切って「()ち方始め!」 

「ダァン」

4門の砲口が一斉に火を吐いた。・・・弾着

海面に、小さい水柱が4つ上がる。対潜弾(潜水艦攻撃用の砲弾)は、爆雷と同じく水中で炸裂するので、海面の水柱は小さい。

戦闘艦橋の、副長佐久間大佐から 「弾着を敵潜よりも手前に落せ」と指示があった。水柱で敵潜の視界を遮ろうというのである。

「対潜弾を使用しています」と答えて、引続き右舷3000メートルの海面に対潜弾を射ち込んだ。効果は、あまり期待できなかったが、少しでも威嚇になれば良い、あるいはこれが、最後の射撃になるかも知れない、と私は思っていた。

(射撃開始は艦長の命令によることになっている。が、このとき私は、上司の許可を受けた記憶はない。緊急の場合だと思って、独断で射撃を命じた。副長の指示を聞いて、事後承認されたものと解釈した)

射撃を続けるうちにも、艦は次第に右舷に傾いて行く。左舷注水による傾斜復元も、あまり効果がないらしい。右舷が下がっていくので、砲の仰角はそれにつれて大きくなり、遂に仰角一杯になってしまった。

「各砲、仰角一杯」と報告がくる。

「そのまま射て」射撃を続行させたが、間もなく「傾斜のため揚弾磯動きません」仕方がない。「射ち方待て」を命じて射撃を中止させた。

3 これより先、艦橋へ報告に来た前部砲塔員があった。彼の顔面や手足の露出部分は、火傷でどす黒く焦げ、皮膚のところどころが、白く剥げていた。前部砲塔内は、かなりやられたらしい。中、下甲板も同じような状態だろうと思った。機関長M中佐が艦橋に来ていた。

私は(おや……)と思った。様子を見に機械室から上がって来たのだそうだ。

(後日、この人の行動は、我々の間でちょっと話題になった。たとえ病気入院の葛西中佐の補充のための臨時機関長とは言え、機関科最高指揮官の職にある者が、配置・運転指揮所を離れて艦橋へ来るのは無責任ではないか、というのである。

機械分隊長坂梨大尉・私の同期、既に転勤がきまり、後任者も着任していた。以下多数の機関科将兵は、爆発火災のため、又は脱出がおくれて戦死している。

第3分隊長大山大尉などは、涙を流して憤慨していた。私の海軍生活中唯一の不快な思い出である)

前部砲塔の方を見ていると、突然、2番砲塔の上部天蓋が、内側が吹き開けられた。直径1メートル程の円形の出口から、黄色い煙が噴出している。

(あ、弾火薬庫が爆発する……)

一瞬、鼻筋がシュンと冷たくなったような気がした。

砲塔の直下は、弾火薬庫になっている。黄色い煙は、火薬の燃焼に違いない。砲塔内に充満して、上部天蓋を噴き上げたのだ。私は、そう思った。弾火薬庫が爆発したら、艦体は真二つに折れて轟沈する。

艦橋では、砲術長田口中佐が艦長(三浦速雄少将)に

「艦長、弾火薬庫爆発の(おそれ)があります。直ちに総員を後部へ下げて下さい」と進言したそうである。

「総員、後甲板。注水関係員そのまま」号令がかかった。緊急注水装置の関係者以外は、総員後甲板に集合せよ、という命令があった。私は、この号令を「砲戦関係員そのまま」と聞き違え、射撃態勢のまま、高角砲指揮所に残っていた。補助員森兵曹も私に倣って、そのままである。通りかかった第2分隊長武藤大尉が、私を見て大声で 「おい、何をしている。総員後甲板だ」「砲戦関係員そのまま、じゃないですか」 「バカッ、注水関係員だ。早くさがれっ」

私は、傍に控えていた森兵曹に「射ち方やめ。総員後甲板」の命令を電話で伝達させた。

艦は大きく右に傾き、右舷上甲板の端を海水が洗っていた。

「さあ、降りよう」と森兵曹に言うと、彼は「分隊士、ちょっと待って下さい」と待機所へ走り込んだ。すぐに出て来た彼と、艦橋内通路の階段を降りようとしたが、傾斜がひどくて、とても降りられない。やむをえず、艦橋左側の外壁の、鉄梯子や突起物などを伝って、左舷上甲板まで降り、傾いている上甲板の通路を、器物につかまりながら後部へ歩いていった。高角砲にも、いくつかの機銃座にも、通路にも、人影はなかった。「ゴーッ」というような低い音が、かすかな震動とともに、艦底の方から聞えている。私には、それが足柄の断末魔の(うめ)きのように思えた。この1万トンの鉄の構造物は、もはや軍艦ではなかった。漸く飛行甲板まで来た。飛行甲板から後甲板へかけて、あちこちにいくつかのグループが集まっているのが見える。陸軍の兵隊達は、すでに群をなして、海中に入って泳いでいた。

先頭は、もうかなり艦から離れていた。大傾斜のため、甲板に立っていられなくなって、私は左舷側に出ようとした。甲板の端にあった艦載ランチに近づいて中を見ると、負傷した陸軍兵が1人、横たわっていた。

「おい、こんな処に寝ちゃいかん。死ぬぞ.・・・」

艦が転覆したら、それまでである。呼びかけたが、目を開いるのに反応がない。顔はどす黒く変色し、(まぶた)が赤く(ただ)れていた。服が幾個所も焦げて破れていた。(これはもう駄目だ・・・)私は、ランチを乗り越えて、左舷に出て舷側に立った。甲板よりもずっと楽に立つことができた。

「総員退去」の声が、後部の方から聞えていた。多数の者が、すでに海中に飛び込んでいた。舷側上の人影が疎らになっていた。私は、舷側の上を艦底の方へ歩き(艦が横倒しに近い状態になっていて、楽に歩くことができた)露出していたビルジキールの上から、海中に飛び込んだ。私は夢中で泳いだ。渦に巻き込まれまいとして、艦からできるだけ離れようとした。(こんなことで死んでたまるか)と思った。何十秒かクロールで泳いでから、顔を上げて後方を見た。海上には、もう足柄の姿はなかった。

4 海水は暖かだった。濡れた身体を艦上で風に吹かれているよりは、よほど楽だった。海上には多数の人が浮いていた。もはや戦闘力を失った無力な漂流者の群れであった。筏を組んで、動けない重傷者を乗せ、数人で取り巻いて泳いでいるグループも、いくつかあった。 

陸軍の兵隊達は、全員救命具をつけていたが、足柄の乗員は、木片やドラム缶、木箱など、積荷の浮流物につかまって泳いでいた。

私の部下のうち、どう教えても泳げなかった者が2名いた。気になっていたが、バラバラに漂流している状態では、どうしようもなかった。一緒に泳いでいた森兵曹が、

「分隊士、葡萄酒があります。飲みませんか」と言い出した。

「葡萄酒・・・、どうしたんだ」

「さっき、待避所から持ってきました」

先刻の(ちょっと待って下さい) はこれだったのだ。ジャカルタで買い込んだものらしい。

「栓をあけるものがあるのか・」

「はい、これがあります」

銃剣を持っている。陸軍の戦死者のものでも持ってきたのだろう。用意のいいことだ。

栓を抜いて、ひとロふた口、ラッパ飲みする。甘い。腹の底から、ずんと暖まってくる。2人で交代に飲んだ。

「あまり飲むとのどが渇く。あとで困るぞ」

「そうですね」

残りを、付近に泳いでいる者にまわしてやった。皆喜んでまわし飲みしていた。

陸軍の負傷者が1名、「水をくれ、水をくれ!」と悲痛な声をふり絞っているのに出会った。ひと声あげると、がっくりと頭を垂れる。救命具をつけているので身体は沈まないが、顔が海水につかりそうになる。傍についている兵が「おいしっかりしろ・・・、おい」と身体を小突くと、また顔をあげて「水をくれ、水・・・」声は弱々しい。

「どうしましょうか、水をやりましょうか・・・、もう大分弱っているようですが…」

ついている兵隊が、私を見て聞く。

「さぁ・・・、飲ませたら死ぬんじゃないか」

「はい、多分…」

「しかし、助からんだろうな、この様子じゃ・・・。飲ませてやるか・・・」

「はい、やりましょう。おい、水だぞ」

彼は、持っていた水筒を海面に出し、栓を抜いて負傷兵の口に当てがっていた。

駆逐艦神風が、内火艇やカッターをおろして、負傷者から先に次々に救助しては、艦に運んでいた。あちこちで救助艇を呼ぶ声がしている。負傷者を早く収容してくれ、という声であった。数少ない救助艇では、中々応じきれないようである。

「この負傷者は、もう泳げない。早く上げてくれ」

「もう満員だ。この次にする・・・。もう少し頑張れ」

というような問答が繰り返されていた。

泳いでいるうちに、足柄のカッターが私のそばへ漕いできた。艦が沈む際に、運よく1隻だけ浮いたらしい。岸野中尉が指揮していた。何人か拾い上げた後、「砲術士、乗って下さい」と言われて、私はカッターに上がった。

カッターが動こうとすると、付近にいた陸軍兵が20名ばかり、カッターの縁に取りついて離れない。これでは漕ぐこともできないので、「もう満員だ、このままでは動けない。直ぐ引き返してくるから手を離せ」

「大丈夫、みんな助かるんだから、安心して待っていろ」

などと何度繰り返しでも、彼等は必死の面持ちで、一向に手を離そうとしない。(まるで、一の谷で海上に追い落された平家だな…)

ふと私はそう思った。(これでは手首を切り離したくもなるわけだ…)と妙なことを思い出したが、とにかく陸兵は、海に対する恐怖心が強いようだ。艦上でも救命具だけは片時も手離さなかった・・・。それに、自分達は置き去りにされはしないか、という不安もあるようであった。私は、岸野中尉に言った。

「これじゃ駄目だ。こいつらを離さなきゃ、とても動けない。俺は、もう一度飛び込んでこいつらをまとめる。その間に漕いで行け」(この時、艇内にW大出身の電測士X少尉がいたが、何をするでもなく茫然と坐っているだけであった)

私は、再び海中に飛び込んだ。

「大丈夫だ。このカッターはきっと引き返してくる。みんな手を離して、俺のまわりに集まれ。集まってないと、またあとまわしになるぞ・・・」

彼等は、漸くカッターから離れて、私の周囲に集まってきた。どうやら、こちらの言うことを信じたらしく、先程のこわばった表情は解けていた。カッターは漕ぎ出した。

この兵隊たちは、間もなく全員救助された。私は残った。まだまだ多数の漂流者が、海上にいたのである。

 

5 私は、体力を消耗しないように、あまり手足を動かさず、浮流物につかまって浮いていた。着衣は勿論、靴も履いたままであった。艦が沈んで泳ぐときは、そうするものだと、かねて聞いていたからでる。

浮流物のなかに、大きな木箱がいくつもあった。ひとりが、こじ開けてみると、板チョコがぎっしり詰まっている。ジャワからシンガポールへ送る噂好晶であった。付近にいた者で分けた。あちこちで木箱をあけていた。

皆に分けて余る程であった。陶器の瓶が十数本入っていた箱もあった。中味は酒であった。

酒は、あまり希望者はなかったが、中には瓶を腰に下げている酒好きもいた。私は、チョコーレートを4、5枚受取ったが、1、2枚食べただけで、あとは持っていてもベトベトになるので捨ててしまった。昼食抜きで空腹の筈だったが、あまり食欲はなかった。

私は、また一緒になった森兵曹と、木片につかまり波間に漂いながら、知った顔の誰彼と、ひとりでに近づき、あるいは離れたりしていた。近づくと、お互いに顔を見合わせてニヤリと笑った。時には、声をかけて励まし合った。誰も彼も(おそらく私も)口から顎にかけて、ひげを生やしたように黒くなっていた。海上一面に浮いた重油のためであった。

曇り空の間から、時折、海上に強い陽が射すようになっていた。頭部への日射を避けるために、私はときどき帽子を海水につけて濡らした。

救助作業は、相変らず続けられていた。救助艇のほか、神風が潜水艦を警戒しながら、その合間に時々停止して、舷側からローブを下げ、漂流者を引き上げていた。

腕時計が止まっていて時間はわからなかったが、足柄が沈んでから2時間以上は経過しているだろうと思った。海上に浮いている人数が、大分少なくなっていた。この頃になると、海上にいるのは心身とも余裕のある者だけのようで、沈没当初のような混乱もなく、整然と救助作業が進められていた。

「森兵曹、俺たちも、もうぼつぼつ上がってもいいだろう。今度、神風が近くへ来たら泳いでいこう」「はい……」

妙なもので、それまでは何とも感じなかったが、それからは、神風が来るのが待ち遠しく感じられた。神風が、私達の近くで停止したのは、それから小1時間も経っていた。つかまっていた板を離して、私は付近にいた者と一緒に、舷側まで泳いでいった。この時、もういいだろうと思って、履いていた靴を脱ぎすてた。

舷側にはローブが何本か垂れている。私はその1本を把んだ。まだ体力に余裕があるつもりで、自力で舷側をよじ登ろうとしたが、どうしたことか腕に全く力がはいらない。

(気が緩んだな)私は舌打ちして、ローブを体に巻きつけ、「引っ張ってくれ」と上から覗いていた神風の乗員に呼びかけた。

彼らから引き上げられて、私は漸く神風の上甲板に立った。陽に焼けた鉄の上甲板は、海水にふやけた足の裏に、ひどく熱く感じられた。(靴を脱がなければよかった……)後悔したが後の祭りである。先に救助されていた部下が、すぐに寄ってきた。

「服を脱いで下さい」と私を裸にして、全身を布でごしごしこすりながら拭いてくれた。

私の全身は、重油で焦茶色に染まっていた。

「艦長は……」立ったまま拭いて貰いながら、私は尋ねた。

「はい、ご無事です。副長も、もう上がって居られます」

他の者の詳細は、まだよくわからなかった。

服は、代りが間に合わないので、一旦脱いだものを絞って、茶色に染まったのを、また着た。

救助された者は、神風の乗員に、まず煙草を請求して吸っていた。深呼吸するように大きく吸い込んで、煙を吐きながら、「旨いなぁ……」 いかにもうまそうで、嬉しそうであった。私も勧められたが、煙草を吸わなかったので、ことわった。

(俺はこの楽しみを知らない)と思うと、何か損をしたような気がした。それから間もなく漂流者は全部救助され、神風は現場をあとにした。陽は傾き、バンカの海は何事もなかったように輝いていた。沈没から約5時間後であった。

その夜は、満載の甲板上で過した。夜中に、重傷者が何名か死んだ。火傷と、ガス中毒であった。

(ガス中毒者の中には、沈没当初は元気に負傷者救助に活躍し、夜半になって容体急変して死亡した者もあったという)

翌6月9日午後、神風はシンガポールに入港した。

足柄乗員の戦死者180余名、その多くは前部砲塔員、機関科員、内務科応急員等の、中、下甲板配置員であった。

陸軍部隊の戦死者数は詳かでないが、彼等の大部分が、中、下甲板に収容されていたことから、足柄乗員よりも多くの700余名が死亡したといわれている。

陸海軍とも、戦死者の殆どは、被雷による爆発、火災の犠牲者と、脱出の遅れた者であり、漂流中の溺死者は、ごく少数であったと思う。駆逐艦神風の存在、沈没が昼間であったこと、海が割合に平穏であったことなどの理由によるものと思われる。

これら数百の遺体を抱いたまま、足柄はバンカ海峡北口、南緯2度0分、東経10456分、水深30メートルの海底に、今も横たわっている。

追記

@ 足柄を攻撃した潜水艦は、英国海軍のトレンチャント、発射雷数は6本、命中4本と記録されている。被雷時刻は1216分、沈没は1237分。

A 昭和48年6月8日、足柄戦没者鎮魂碑が、母港佐世保の旧海軍墓地(現東山墓地公園)に建設された。生存者多数の浄財によるもの、以来毎年6月6日前後に、碑前で慰霊祭が行われている。

 (4) 昭和20814日夜、私はシンガポールの街の雑踏の中を、ケッベル岸壁へ向かってひとりで歩いていた。15日朝、出港予定の第10特別根拠地隊(10根) リンガ派遣隊の砲艇に便乗してリンガ島へ行くためであった。

6月15日付でシンガポールの第10方面艦隊司令部付になった私は、希望通り第2次特別連絡艇隊(通称桜部隊)の指揮官を命ぜられた。爆装震洋艇50隻の特攻隊長である。

(足柄沈没後、乗員生存者により陸戦隊  第101警備隊 を編成、私はその中隊長予定者にされていた。しかし陸戦隊が嫌でたまらず、司令田口貞人中佐に強硬に要請を繰り返し、遂に特攻要員への転出を承認された)

部隊は、ジョホール水道の入口に近いローヤンで約1ケ月余り特別訓練を実施した後、第十方面艦隊司令長官福留中将により正式に「特別攻撃隊若桜隊」と命名され、近く実戦配備につくことになっていた。

今回のリンガ行きは、リンガ諸島中の1島(タラス島)に設営中の基地の視察と、更に設置すべき数個所の前進基地予定地の検分が目的であった。

夕食後、セレター軍港の司令部を出て、バス、電車を乗り継ぎ、降りてから歩きはじめたのだが、下車する処を間違えたのか、行けど行けども港に着かない。

日暮れとともに街は急に人通りが多くなって、歩道はお祭りのような人出であった。すれ違う度に肩がぶつかるような人混みの中を小1時間も歩いた頃、私は急に不安感を覚えた。周囲は全部、マレー人か中国人である。

私は、拳銃も軍刀も、およそ武器というものを何も身につけていない。手に提げた鞄の中には、昭南周辺水上特攻部隊配備計画の書類がはいっていた。

もし、何者かに、背後からブスリとやられて鞄を奪われても、この雑踏の中では施す術ない、と思うと不安感は恐怖に近いものになった。シンガポールの治安は、必ずしも良くはなかったのである。

(引き返して明日の朝出直そう・・・) 私は(きびす)を返して、もと来た道を歩き出した。表面は平静を装っていたが、内心は周囲に神経を尖らせながら……。

やっと日本人海員用らしい小さなホテル見つけて宿泊を申し込んだ。しみの出た灰色の壁、病院のような鉄製のベッドが1つだけの殺風景な部屋へ入って、漸くやれやれと胸を撫でおろした。

2 翌朝早くホテルを出発し、2時間近く歩いて岸壁に到着した。砲艇にはリンガ派遣隊長田口少佐(足柄砲術長  警備隊司令の田口中佐とは別人である)が待っていて、私が乗ると直ぐに出発した。港外へ出ると、強い向い風で砲艇はかなり揺れた。リンガまでは約130浬の航程である。夕刻、ベンゲラップ島に寄港した。リンガ派遣隊所属の防備衛所がある。衛所の稲田大尉と夕食を共にする。食後、涼しい戸外で雑談していると、衛所の通信係下士官が、妙な顔をして電報を持ってきた。新聞電報を傍受したが、内容がどうもおかしいと言う。読んでみると、ポツダム宣言受諾を連合国に通告云々という文面であった。終戦のニュースである。

重大な内容であったが、私にはピンとこなかった。田口少佐も半信半疑らしく、電報内容を一般には伏せておくように下士官に命じた。私は予定通り基地を巡視することにして、その夜は防備衛所に泊った。

翌朝ベンゲラッブ発、午後リンガ島に到着した。私は、派遣隊が準備した大発で、基地のあるタラス島へ行くことになった。すぐ隣の小さな無人島である。

派遣隊の大発艇員は私を見て、なぜか意外そうな顔をしていたが、私が名乗って行先を告げると、慌てて出発準備をはじめた。

タラス基地へ着いて、設営隊長の渡辺兵曹長から報告を受けた。基地は大部分完成していた。自分はここから出撃するのか、と思うとちょっとした感慨がある。全隊員がこの基地に集合し、出撃する日のことが脳裡に浮かんだ。同時に昨夜の電報のことを思った。部隊編成以来1ケ月余、隊員の外出を一切禁止して日夜訓練に励み、漸く部隊として戦えるところまで来て、基地へ進出しようとする矢先である。私は誤報であることを願った。

夜、新しい隊長室に泊った。掘立小屋のような簡素な狭い部屋だが、自分の人生の最後に至る日々を過す場所になるかも知れないと思うと、何か大切な処のように感じられた。

一方、例の電報への不安で、私はなかなか寝つかれなかった。翌日から、周辺の島々の前進基地の予定地(リマ水道、コタダボ、ペナン、トンダン)をまわる。2日間で艇の秘匿場所、出入の水路、水深などを中心に検分し、タラス基地へ帰った。途中立ち寄った村落の中国人の家には、まだ汪精衛の肖像が掲げてあった。(終戦のニュースは伝わっていなかったらしい)

司令部からは、特別の連絡はなく、別命あるまで現地で待機せよ、という電報が届いていた。私はそのまま基地に留まっていた。終戦の事実が、次第に明らかなかたちをとってくるようであった。設営作業を中止させた。

 

3 821日、第10方面艦隊から撤収命令が来た。私は渡辺兵曹長に撤収作業を命じ、自分だけはリンガ派遣隊の砲艇に便乗して、急遽ローヤンヘ帰った。

帰ってみると、ローヤンでもセレターでも、各部隊共終戦の報によって相当に混乱した様子が見られた。各種のデマが乱れ飛び、脱走者が続出していた。彼等は銃などの武器を持ち出し、集団で大発に乗って、堂々と桟橋から出ていったものが多かったという。制止できなかったのか、と私は或る特務士官に訊ねてみた。彼は、とんでもないという顔で、

「いや、とてもそんなことのできる空気じゃありません。あなたなら止めようとしたでしょうが、あいつらは殺気立っていて、止めようものなら逆に殺され兼ねません。あなたがいなくてよかった・・・」

脱走者は、10根の全部隊にわたっていたが、幸いに、私の部隊だけは1名の脱走者もなく平静であった。           

(後日聞いた話では、司令部内では終戦の報のあったとき、最も危険な部隊として、第1番に私の特攻隊を解散させようとしたらしい。が、長官の「特攻隊を解散させてはならぬ」という指示で、取りやめになったそうである。結果として、隊員は、私の留守中に妄動せず、長官の信に応え、隊長の私も些か面目を施した) 

夜になって、司令の富村大佐に呼ばれた。私に、脱走者の捜索、連れ戻しに行けというのである。

「君のところ(隊)は、もう心配ないだろうから、明朝から出て貰いたい。水警の哨戒艇を出す。日本兵出没の情報のあったところは、ここと、この付近と・・・」

卓上の海図で場所を示している。この仕事は、特務士官や予備士官では無理なので、ご苦労だが頼む、ということであった。

「よその部隊の兵隊をさがしに行けないんて・・・」などと言っている場合ではない。私は承諾した。ただ、6月に足柄が沈んで以来、私は軍刀を持っていなかった。公式の場では、いつも誰かから借りていたのである。丸腰では、どうも恰好がつかないと思って、

「わかりました。行きます。ただ私は軍刀を持ちません。司令のを、貸して戴けますか」

あつかましいことを言ったものだが、富村大佐は気軽に

「うん、いいだろう。持って行け」

「有難うございます。発見したら、必ず連れて帰ります」

「ああ頼む。・・・だがな、小河大尉・・・」

大佐は、言葉を切り、声をひそめるように、

「これをやるときだけは、充分慎重にしてやれよ……」

彼は「これ」というときに、両手で刀を振りおろす所作をした。脱走者が説得に応じない場合に、私が彼等を斬るのではないか、と思ったらしい。

「いえ、そんなつもりはありません。よくわかっています」

「うむ、わかっていればいいんだ・・・」

「じゃあ、軍刀なしで行きましょう・・・」

こんなやりとりがあって、結局私は丸腰で行くことになった。どうせ軍刀なぞ恰好だけで実際に使ったことのない私には、たいして役に立つものじゃない。 

4 翌朝、桟橋で待っていた哨戒艇に乗り、ジョホール水道を出てマレー半島添いに北上した。リンガ派遣隊の砲艇よりもずっと大型なので楽である。情報にしたがってある海岸へカッターで上陸した。私、随行の兵曹長、艇長の田村少尉、武装した水兵2名、計5名である。無人の小さな舟着場から細い道が続いている。道の両側には背丈以上の草が茂っていて、見通しがきかない。先頭と最後尾に銃を持った兵1名ずつを配して一列縦隊で歩いた。

先頭の水兵は、ともすれば次を歩く私と肩を並べようとする。1人で先頭に立つのが心細いらしい。

20メートル四方くらいの空き地に出た。床の高いバンガロー風の古い家が一軒建っている。一行を停止させ、草に隠れて様子を見る。

「扉が少し動いた・・・」誰かが言う。

田村少尉が、水兵に調べて来いと言っても2人共尻込みしている。若い兵隊で頼りないこと(おびただ)しい。

「貸せ……」私は水兵の腰から銃剣を抜き取った。それを背中に隠すようにして、ゆっくりと空き地を横切り、家の前まで来てから入口の階段を一気に駆け上がった。剣を腰に構えた姿勢で、ドアを蹴って室内に飛び込んだ。

薄暗い内部には、古い家具や本が散乱していて、誰もいなかった。扉が動いた、と見たのは錯覚だったのだろう。皆で屋内や付近を捜したが、日本人のいたような形跡はなかった。

半日がかりで、他の場所を数ヶ所捜索したが、手掛りは全くなかった。

翌日も、他の海岸に上陸し、情報のあった地点の周辺を捜索したが、何も見つからなかった。諦めて引き返す途中、小型の機帆船に出会った。何か情報はないかと思って停船を命じようとすると、その船は急に逃げ出した。

追跡して行くと、その船は海岸に乗り上げ、原地人らしい乗組員数名が、バラバラと砂浜に跳び下りて、砂浜に続く林の中へ逃げ込んだ。

機帆船に接舷して船内を調べた。大きな海亀が10匹ばかり、脚を縛った鶏が10数羽、50キロぐらいの砂糖袋が10数個など、食糧が満載されている。人は誰もいない。

船に見張りを残して我々も上陸した。林の中に掘立小屋がひとつあった。人影は見えず、小屋の外の焚火に、大きな鍋がふたつ掛けてあった。ひとつの鍋には自米飯、もうひとつには亀の卵が一杯はいっていて、どちらも煮えて湯気が立っていた。海亀を解体して、料理の途中で放置してある。直前まで、何人かの人がいて食事の用意をしていたらしい。機帆船から逃げた連中ではなく、その仲間だろうと思われた。付近に隠れているに違いない。小屋の裏側に幅十メートル足らずの川が流れている。

私と田村少尉は立ち上がり、対岸に向かって大声で呼んでみた。

「おーい、日本人はいないかい・・・」

「日本人がいたら出て来い・・・」

何処からか銃弾が飛んでくるのではないかと、多少気味が悪かったが、我慢して何回か呼びかけた。全く反応がない。付近を捜したが、遂に1人も見つからぬまま、われわれは哨戒艇に引き揚げた。

機帆船の処置が問題になったが、船員が逃げたことから、曳航して帰ることにした。曳航して海岸を数メートル離れたとき、男がひとり砂浜へ走り出て来て、上着を脱いでこちらへ向かって振りはじめた。引き返してこの男を収容し、言葉の少しわかる艇員の通訳で訊問した。

「自分はこの船の持主である。海賊に捕えられていたが、今やっと逃げて来た。船と一緒に連れて帰って欲しい。また海賊につかまると、今度は殺される・・・」

身振りを交えながらの片言の通訳であったが、大体こういうことらしい。どこまで本当かわからず、怪しいところも多かったが、一応途中まで連れて帰ることにした。小舟に彼ひとりを乗せ機帆船の船尾に繋いで曳航するようにした。

ジョホール水道入口近くまで来て 「ここまで来ればもう安全だから、お前を離してやる」と伝えて、小舟を切り離した。彼は大声で何かを口走り、泣きわめいていた。

われわれは機帆船だけを曳航してローヤンに帰着した。2日間の捜索は、何の成果もなかった。船と積荷の処置を田村少尉に依頼し、私は宮村司令に経過を報告した。

夜、久し振りに自室で寛ぐことができた。兵舎や各建物の窓という窓に、あかあかと電灯が輝いている。一見奇異な感じがした。このような夜景を見るのは初めてであった。

1週間前までは、灯火管制で真っ暗だったのである。

(ああ、戦争は終ったんだな……) と漸く思えてきた。(とうとう生き残ってしまった!)実感であった。窓の明るさが私には何とも空虚なものに感じられ、深い虚脱感が次第に心を覆ってくるようであった。

しかし、感傷に浸る余裕はなかった。当日付で、私は衛兵司令兼任が発令されていた。翌日からは、混沌とした情勢の中で、在ローヤン全部隊の軍紀維持にあたる新任務が待っていたのである。

(さあ、明日からまた忙しくなるぞ、しっかりしろよ・・・)私は、自分に言いきかせた。    (終)

(この後、第10根拠地隊では、各部隊の解隊、原隊復帰、編成替などが行われたが、「若桜隊」は規律、結束の良さを認められて、そのまま温存された。12月に至り、当時バトパハ在留の各部隊からローヤシ作業隊を派遣することになった。第1次隊が途中触雷遭難したため、遂に若桜隊からも作業隊員を出すことになり、更に私も作業隊指揮官として転出、若桜隊も解隊となった。)

 

特別攻撃隊若桜隊  解隊ノ辞

  (略)

追記 編集部

小河美津彦君は平成5年2月22日に亡くなった。その年の6月末、奥様から豊廣稔君あて「主人が書いた『バンカの海』という本がありますので、参考になればお送りします。」と手紙があって送ってこられたのが、この「挽歌の海」である。

文字数35000に及ぶ大策である。

(なにわ会ニュース7033頁・7132頁・7242頁・7346

 平成6年3月から7年9月まで4回に分けて掲載)

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