平成22年5月6日 校正すみ
郡重夫君の思い出
中村 正人
最後の海軍砲術会で会ったとき、「これで終りか」と彼がつぶやいたが、それは平成元年4月7日、パシフィック・ホテル(品川)においてであった。その時の彼は、仕事をバリバリやっていて、元気そのものであった。
一方、今年の年賀状に「押本君と三人で小さいクラス会をまたやりましょう」とあり、計画する心算でいたが、それもできなくなってしまった。
彼との親交の始まりは、昭和19年後半、横須賀砲術学校においてであった。激戦による漂流によく耐え、二度横砲に帰ってきたが、それほどタフな男であった。いずれのときか下着に不自由していたので提供したことがある。彼の横砲におけるケップガンとしての名声は、学生隊(第5期兵科予備学生(砲術)の教育は学生隊で実施しており、私はそこにいたが……)の方にも伝わってきていた。一方、教頭の高松宮殿下の目にもとまっていたようであり、また機銃の茂木大尉にも可愛がられていた。彼の真摯な性格が、然らしめたものであろう。
戦後は新婚の平作町の家を荒らしたが、嫌な顔一つせず、よくもてなしてくれた。あるとき、衣笠駅(最寄り駅)から一緒に歩いたときのことである。「貴様は足が速いなあ」と彼が言うので、「陸戦隊で鍛えたからね」と応じたが、過去の思い出の一つとなってしまった。
当時の赤ん坊が成人して父を看病しているのに、何10年ぶりかに佐藤病院で会ったのは彼の病が重くなってからである。それ以前に再手術後の彼を見舞ったときは、よく昔の話をしたものである。何回か見舞ううち、どうも様子がおかしいと感じたが、まさかこんなに急に最悪の状態になるとは、思いもよらぬことであった。
顧みるに、彼は兄貴のような風格があった。戦後間もない頃、私の個人的なことについて彼が口をとがらせて注意してくれたことが、一再ならずあったが、その一言一句が後になって極めて適切なものであったことに気付き、本当に感謝している。生前の彼にはきまり悪くて言えなかったが、ここに意中の一端を述べて、別れの言葉と思い出とします。
(なにわ会ニュース68号13頁 平成4年9月掲載)