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平成22年5月15日 校正すみ

松元金一君を偲んで

足立 喜次


  平成5年6月6日夕刻参拝クラス会から帰宅直後、衣笠病院に入院中の松元君の奥様から「松元が危篤である」との電話があった。

早速中山年度幹事と横須賀在住のクラス(眞鍋、押本、中村元一、木庭)に一報を入れ、翌7日午前6時39分、腎不全のため逝去との訃報を聞き、所要のところに連絡後、取急ぎ押本の車に便乗して松元宅に急いだ。午後にはクラスも揃い、役割分担(受付関係…眞鍋、中村、中山、岩本、毎熊、海自OB商船出身の吉田静馬君・会計‥押本、・伊藤正敬)に従って通夜葬儀の手伝いを致すことにし、賄い方と道路案内については御近所の方にお願いした。松元君の御遺体は7日午前10時過ぎ、久し振りに懐しのわが家に帰宅したためか、その顔は今までになく穏やかにして安らかに眠っているように見受けられた。

松元君は昭和61年、脳梗塞で倒れ、以後、持前の真面目さと忍耐強さを発揮してリハビリに専念、一人で自宅からJRを利用して通院(リハビリ)できるまでに体の機能を回復させていた。平成4年、盛夏胃の手術(5/4摘出)後は、体力の回復が思わしくなく、平成5年早々から頭部顔面のヘルペス、腹部の腫れによる苦痛などで入退院を繰り返していた。

小生は5月中旬、入院中の松元君を見舞ったが、昨年、福祉センター前でリハビリ(水泳)から帰宅途中の元気な松元君に会った時に比し、顔色も冴えず、極めて弱々しく見受けられ、往年の小柄ながら精悍な薩摩隼人の面影はなかった。「腸の手術をすれば、楽になり、その内、休力も回復して帰宅できる」と本人は話していたが、これが最後の会話となるとは・・・。

月3日、奥様から「再手術は5月27日終了しましたが、術後の経過は思わしくありません。今なら面会できますので会って欲しい」との電話連絡があったので、取り急ぎ夫婦で見舞いに出かけた。

首に点滴、鼻から酸素吸入など管だらけの痛々しい松元君は、われわれ夫婦を薄目で見つめ、われわれの励ましの言葉に笑みを浮かべつつ、左の指で「OK」のサインをしながら手を上げて答えてくれた。今にして思えば、この時の5分間の面会が松元君に会えた最後であった。

通夜は6月8日午後7時から午後8時まで、葬儀は雨の中、6月9日午前10時から午前11時まで、それぞれ自宅に於いて・御遺族、御親族、御近所の方、多数のクラスが、皇太子殿下御成婚の祝日にもかかわらず参列して仏式により取り行なわれ、浦本がクラスを代表して、故人を偲んで弔辞を霊前に捧げた。また、火葬場における野辺の送りの読経は足立之義にお願いした。

後刻、御近所の方のお話によれば、「通夜・葬儀は御遺族・御親族・御近所の方で行なうことになるだろう」と思っていましたが、クラスの方々が葬儀全般にわたっての支援と手伝いを実施したこと、多数のクラスが雨にもかかわらず参列したこと等は、今まで団地では見られない光景であり、海軍兵学校同期の厚い友情に感銘を受けられた由である。

松元君は生前よく「同期の桜」と「江田島健児の歌」を歌っていたので、霊前にて、通夜の晩は高崎のリードで、八日の夕方は山田 穣のリードで、それぞれ「江田島健児の歌」と「同期の桜」を合唱して故人の霊の安らかに昇天されんことを祈った。

奥様は、「松元は病に倒れて以来、種々の会合には不義理を致したのにもかかわらず、多数のクラスの方々に来て頂き、故人も草場の蔭で喜んでいることでしょぅ」と、クラスの厚情に深く感謝しておられた。

松元と小生の出会いは、兵学校第72期生徒として入校した時である。兵学校時代は同じ部に所属したこともなく、特に親しく付き合う機会もなかったが、武道場において居合術の型を練習していた小柄な剣道衣を着た松元の姿が印象に残っている。練習艦隊は同じ軍艦山城乗組であり、上京して拝謁(昭和18年11月19日)後、横砲校でトラック行の幸便を待った。

11月26日、空母翔鶴に便乗、トラックに向け横須賀軍港を出港、12月1日トラック着後、それぞれ迎えの内火艇にて松元は軍艦大和(1戦隊)へ、小生は空母瑞鶴(第1航戦)に着任した。翔鶴で別れた以後、戦争中は再会することはなかった。

松元君は、軍艦大和から軍艦最上乗組となり、昭和19年3月(海軍少尉任官)、第41警備隊付(通信士)に任ぜられ、昭和20年3月から第47警備隊の砲台長・分隊長として、終戦までトラックの警備の任に当った。昭和20年10月復員即日充員招集を受け、海防艦第27号航海長として復員業務に、昭和22年1月から佐世保復員局掃海部で掃海業務にそれぞれ従事した後、昭和22年12月依願退官して、故郷鹿児島で約4年間、民間会社に勤務した。

昭和27年4月、海上警備隊(海上自衛隊の前身)に入隊、約24年間、海の防人として勤務した。

海上勤務では、機雷掃海部隊の練度向上に資するとともに、陸上勤務では教官配置が多く、同部門における後進の教育指導に力を尽くした。松元君は、機雷掃海部門の知識・技能・戦術の向上に貢献したパィォニアであり、エキスパートであった。

小生とは、江田島での教官時代、小松崎の官舎で夫婦ともども週1〜2回ダンスを学び踊ったことが、良き思い出として残っている。

「松元がダンスを・・・と思われる方もおられると思うが、米国留学中、パーティーに招待され、踊れないためにきまずい思いをした経験からと思われるが・留学帰りの多い江田島では、当時、ダンスが流行していた。クラスや奥様に誘われてわれわれのグループのメンバーとなり、真面目な顔付きでやや腰を引いてステップを踏んでいる松元の姿が目に浮かぶ。なお、松元君は地味ではあるが、渋い趣味に興味があり、米国留学中にも尺八を吹いていたようである。

なお、身体が不自由になってからも、鎌倉での(うたい)の会には身体のためにと思って出席していたようである。何事にもものおじせず真面目に忍耐強くコツコツと努力する、松元君らしい日々の過し方が感じられる。

最後に、松元君に相応しい戒名を、臨済宗建長寺派義明山満員寺(1194年、源頼朝が無二の忠臣三浦大介義明を開基として建立、三浦一族の菩提寺)御住職から頂いた。

「大禅海雄居士」

大禅とは禅により大成するとの意であり、松元君が生前、禅宗に引かれ、禅による修行に努めたことに関連して頂いたものと思う。

三浦大介義明の法名にもこの二文字が入っていることから、極めて格調の高いものと思われる。海雄とは海の勇者の意であり、海軍に引き続き海上自衛隊に奉職、海の防人として海を愛し、海に生きた男・松元君に相応しい戒名である。なお、海の一文字を入れることは、奥様の御要望でもありました。聞くところによれば、遺骨は49日の法要後、海の見える三浦の丘の墓地に納骨され、遺骨(粉骨)の一部は故郷鹿児島の海にまかれる由。

松元金一君、安らかに海を眺めて、三浦の丘に眠り給え。御遺族の御多幸を祈る。     合掌

(なにわ会ニュース69号10頁 平成5年9月掲載)

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