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思い出草(海軍兵学校生徒伴弘次の日記)

その1(第1学年時) 

 平成22年4月12日校正すみ

昭和1512月3日

入校ニ際シ所感ヲ述ブ

 余ハ茲ニ幾多ノ難関ヲ突破シ 海軍兵学校ニ入校スルヲ得クリ 併シテ今日 余ハ 大日本帝国海軍軍人ナリ 12月1日 入校式ニ列シ 天地神明ニ誓ツテ 有為ナル将校トナラント 堅ク 決意セリ 爾後 余ノ身体ハ余ニシテ余ノ有ニ非ズ 此ノ時ニ於テ実ニ余ハ直接 大元帥陛下ニ隷属シ得タルナリ

 余ノ念願之ニ過グルナシ 斯ノ上ハ唯専心 身心ノ錬磨修養ニ勉メ以テ忠ヲ致スニ足ル人格ヲ築カント希フノミ 入校以来既ニ3日 校長閣下始メ指導官方ノ御訓示  上級生徒ノ熱心ナル御指導ノ裡ニ 軍ノ精髄 烈々タル軍人精神ノ一端ヲバ窺フヲ得タリ 軍人精神ハ吾人等ノ思想内容ヲ遥カニ超越ス 余ハ飛躍セザルべカラズ 過去ノ旧套ヲ放棄シ 之ヲ滅却セザルベカラズ 余ハ 飛躍シ 過去ノ精神生活 肉体生活共ニ清算シ 此処ニ一刻モ早ク 真ノ軍人タランコトヲ期ス 余ハ 海軍兵学校生徒ナリ 必ズ以テ 忠勇ナル 将校トナリ 君恩ノ万分ノ一ヲ報ゼン

 

昭和151228

上級生徒は皆休暇で帰省された。朝、四号が寝てゐる暗い枕元で礼装に着換へて出て行かれた。「四号だけでしっかりやれ」 「元気でやれ」 「上級生徒の居ない時にも苦しんで修養しろ……」等々弘次達は心から「ハイ」と返事をすることが出来た。家へは帰り度いとは全然思はなかった。修養が足りぬ未だ未だこれからである。

 

昭和16年1月1日 

起床3時30分、4時に古鷹登山出発、途中、松明が何度も消え五度程転んでしまった。山頂に於いて、東方を拝して聖寿万歳を唱へ奉る。日の出を拝まずに降りてしまったのは残念であった。礼装で朝食、御雑煮のお餅が七分搗米で全然家のお餅の様な感じがなくて一寸淋しかつた。軍艦旗掲揚、遥拝式、御写真奉拝、主任指導官訓話があって終ったのが1030分。それから方々へ年賀状12枚を書き終らずに昼食・・・

午後は外出、夜は映画、海軍爆撃隊、海軍小史、我が艦隊、支那事変、其の他。就寝9時30分、朝食は御雑煮、黒豆、数の子、ごまめ、昼食は銀飯、鯛の御頭付、大根卸、数の子、ハム、昆布巻、牡蛎(かき)の吸物、柿、林檎、蜜柑、夕食はさつま汁。

 

昭和16年1月2日 

朝は定時点検なしで8時に参考館講堂に集合。勅諭謹写に関する主任指導官の御注意があった。字劃(じかく)を写すのではなくて、時間を掛けて、御訓を知るに努めよ・・・と言はれた。自習室に帰り護写に着手 朝9時から夜8時迄正味10時間近くを費やして護写を終った。

(説明 昭和18年5月13日記入)

この謹写した勅諭は後に製本して戴き、今も机内に納めてある。勅諭は軍人の経典である。それは信ずる者にとって経巻が又「バイブル」が絶対の価値を有する如くに、軍人の本分と総てとを規制する根源であると共に軍人にとって唯一絶対のものである。勅諭は尊い、真剣な修養の対象となるとき真剣さが深ければ深い程、高く尊いものに感ぜられて来る。四号時代に考へることもなく棒暗記したことが折に触れ時に発して強く強く心に響くことがある。勅諭をより高くより尊いものにする為に更に更に努力しょう、精進しょう。

 

昭和16年1月3日

軍艦旗掲揚後直に小用に行き、大発に乗って呉に向った。中央桟橋から上陸、呉鎮守府見学後、鎮守府長官、日比野中将の「元気に与へられた仕事に全力を尽せ」と云う訓示を受けてから呉市を見学。やはり兵学校生徒は市民の注目の的になる。12時過ぎに帰校、午後は外出、20分隊の四号総員で懐かしい西田倶楽部に赴く、小母さんの心尽しのすき焼、しるこ、菓子、果物等非常に美味しかつた。

夜は映画、海行かは、海の護り、欧洲大戦と列国海軍「ニュース」。8時40分から一名ずつ分隊監事の口頭試問、弘次は教会のことを聞かれた。「キリスト」を神とせずに偉大なる宗教家と見做し、彼に就いて宗教観を研究し、神を求める行き方をする教会であります、と答えた。

 

昭和16年1月5日

起床後直に食事、霜焼の痛さに洗面せず歯を磨き、体を摩擦しただけで止めにした。6時50分、外套を着けて水雷艇に乗艇、約1時間20分で字品着、のろく、がたがたの汽車に20分程揺られて広島駅着、徒歩で大本営跡に到り拝観した。そしてあまりにも御質素な御様子に激しく胸を打たれる何物かを感じた。12時半頃縮景園に行き一周り拝見して昼食。終って自由散歩、旭、新田と共に陸軍病院訪問、それから街を歩いた。兵学校生徒は皆に見られて恥づかしい程だった。福屋「デパート」で教官方と出会った。自由散歩中飲食を禁ずは(いささ)か断腸の思いがした。

 

昭和16年1月6日

入校教育終了に際して今日は短艇と陸戦の査閲が行ほれた。午後1時から短艇査閲、査閲官は校長閣下。「カッター」が表桟橋の前の直線「コース」に入った時は無我夢中だった。阿夕田―表桟橋―平戸の「コース」が随分短く感ぜられた。次は陸戦、閲兵式と分列行進、講評訓示では非常に良好であると賞められた。夜は6時から民族の祭典を見た。入校前豊橋で見た時よりも面白く感じなかった。

 

昭和16年1月7日

今日は1学年の武道競技、8時から柔道場で4組に分れて試合開始、私は1組の一番最後、兵学校の1学年中で一番強いと見做されたわけ。1130分いよいよ弘次と広瀬遼太郎との試合で今日の幕。それなのに校長閣下始め教官方が全部居られる前で敬礼を間違へてしまった・・・大失態・・・そして試合も技有り一本を取られて優勢勝を相手に取られてしまった。道場から帰ると上級生は休暇から帰って居られた。

 

昭和16年1月8日

今日は海軍始、校長閣下の前を軍艦「マーチ」吹奏裸に観兵式。ずい分旨く行って講評訓示で御嘗めの言葉を受けた。1330から総員訓練、総短艇。8班の14「ダビット」は故障で使用出来ず遅れてしまった。明日からは愈々厳冬訓練、寒くてもしっかりやろう。頑張ろう。手の傷位何のことかあらむ。

 

昭和16年1月9日

今朝から厳冬訓練、起床動作で体操服を着損なって随分慌てた。重湯も飲まず銃剣術道具を持って飛出したがとても早かつた。寒いけれど入校教育程に疲れない。8時、定時点検なしで課業整列、今日からは初めて上級生徒と同じ様に一人前の兵学校生徒として「ペグ」に一杯教科書を詰め込んで颯爽たる気持がした。1時間目は外国語、中学校で御世話になった田窪先生は懐かしい気がした。物理の小島教授はまるで優しい人だ。国漢の丹羽教授は熱血漢らしく1時間を忠義者の話に割いて下さった。

 

昭和16年1月10

随分温い朝だ。まるで冬と云う感じがしない。初夏の朝の様な爽やかな感じだった。短艇訓練は井上生徒が艇指揮。弘次は凍傷だからと云う理由で予備員にされたのは非常に残念だった。

 

昭和16年1月11

総員訓練棒倒し、ニ部の上級生徒が1人気絶して倒れた。勝負がついてから横腹から血が出ているのを人工呼吸をやっていた。上級生徒は「見るな」 「あんなものは見るな」と怒鳴られた。次は弘次達の番、全然負けたとは思わなかったのに相手の勝になってしまった。

 

昭和16年1月12

厳冬訓練中の日曜日、養浩館に行ってから倶楽部に行った。お昼頃広川生徒、高橋生徒、渡辺博生徒が、冬休暇に帰れなかった弘次達に「チョコレート・キャンデー」餅、焼蛤を持って来て下さった。上級生徒の有難さが泌々と嬉かつた。広川生徒のお餅を口にした時は本当に嬉かつた。

 

昭和16年1月15

朝の短艇訓練で遂に尻をむいてしまった。

 

昭和16年1月19

外出点検を終つてから第1学年は短艇の有志練習、伍長補浅川生徒、井上生徒は実に懇切に指導して下さる。一々自分が丁寧にやって見せて下さるのには本当に頭の下る思いがした。(やっぱり兵学校はいいと思った)人間はロだけではいけない。千葉先生が導いて下さった基督の精神も口だけで示せるものでない。如何に苦しい時にでも友への献身が必要だ。今日から嫌なこと苦しいことは極力弘次が引受けてすることにしよう。

 

昭和16年1月25日

厳冬訓練を終って今日は兎狩、起床4時15分、5時50分に生徒館前整列、運貨艇ですみれに乗艦。我等20分隊が此の駆逐艦を操縦して出港。約1時間、名にし負う厳島の大鳥居前に投錨、水雷艇に乗換へて宮島桟橋に上陸。直に目的地たる地御前に進発。潅木の叢でとても歩きにくく、傾斜の大きな丘陵群である。第1回は失敗、第2回は兎を見乍らも取逃し、第3回目に2班が大きな兎を1匹捉えた。8班の口惜しがること。第4回、第5回も獲物なし、これで引揚げ、広島の浅野侯の御家老の別荘清風荘で昼食。凄い肉ばかりの豚汁、酒保は厳島名物の紅葉饅頭とせんべい、蜜柑、今日の獲物は6部が兎2匹に亀2匹―――ワッハハ――ー3部で兎1匹と雉1匹、2部が兎1匹、あとの部はなし。帰路は8分隊が操艦して帰校。9時就寝。

 

昭和16年1月29

室直でないので長沢、寺本と一緒に八方園に参拝に行った。帰りに武道場に寄ったら官舎の子供が練習していたので何となく微笑ましくなった。兵学校に来てから唯の一回も子供に接したことがない。随分淋しい気がする

 

昭和16年1月30

自選時の銃剣術は相当に寒かつた。終って芳枝先生に手紙を書いた。夜は「ニュース」映画、海軍行進譜、海外「ニュース」、日本「ニュース」共に映写機を直したばかりなのが利いてとてもよかつた。外に出ると寒い風が「ビュー」と吹きまくっている。雪雲にぼけた細い月が今にも吹き落されて来そうだった。佗しく悲しい気持ちがした。然し。いけない、いけないと強く自分を制した。就寝して間も無く荒天準備が令せられ、寒風の吹きすさぶ中を艇に駆けつけた。

 

昭和16年1月21

兵学校に入ってからの寒さ「レコード」。細かい雪が塵か何かの様に降り、風も吹きつけて随分冷たかった。此の中で朝の陸戦2時間、斥候と歩哨の動作、唯もう体が固くなって動きまわるのがやつと、ビュービューと吹き付ける粉雪に顔も何も感じが無くなってしまった。

 

昭和16年2月3日

夢は遥か家郷にさまよい、何処覚えねど、語らいつ歩む。ああ昔懐し、去りし日は再び帰らず欺き多くして人涙せざるときなし。古を偲び、遠きを思い遣るは人の常情なり。我も亦

悩多き子にして胸中騒ぎ立つ大濤あり。大いなるいざない美しく我を招く。如何にして此を堪へんや。

 

昭和16年2月16

1学年皆で分隊監事の官舎を訪問した。随分啓発された様な感じがした。毎週ああいう感動を持ち得たら相当に人格向上が出来るであらうに・・・・

 

昭和16年2月20

昨日からの雨も次第に晴れて暖かい好い日になった。風は温かくて一寸も枯風の匂がしない。春が来ると思った。

 

昭和16年2月22

 大掃除を終って直に分隊巡航出発用意。第3水雷艇に20カッターを曳航して行くのだ。カッターには四号総員と毛布、食糧を積んだ。風波強く相当に揺れる。飛沫は散って潮の洗礼・・・1時間一寸で大力クマ島着、別荘の空いているのを借りて宿舎にした。夕食は2、3、4号生徒が腕を振ってゴチャマゼオジヤ、羊糞、飴、果物等を並べて分隊会が始まった。実に面白い、兵学校生徒って皆芸人ばかりだ。不思議な位うまい。弘次は聊か気が引けた。三号生徒総員の巡航節は哀調切々。しみじみと聞かれた。横になったのは12時過ぎ、洋角灯と球形灯と蝋燭(ろうそく)が一つ一つ消されて、磯を打つ波の音が次第にはっきりと聞えて来る。寝たのは3時過ぎであった。兵学校入校以来初めての外泊・・・素晴しい会であった。フト眼を開くと「カーテン」の下の「ガラス」を通して赤い美しい朝焼けが見えた。すぐ総員起床。瀬戸内海の朝は美しい。遥か本土の山峡から陽光が上る。「パン」「ハービス」飴の朝食、終って帰校準備。帰路、四号に水雷艇を操縦させて呉れた。「津久茂山の頂上宜候」フラフラ、艇首が何時も動いていて「ヂッグザッグコース」だ。四号が舵輪を握っていることと知らない分隊監事が前に何かあるのか・・・つて心配された。9時半表桟橋に着き後片付けをやり10時には皆外出した。夜は美の祭典″を見た。矢張り素張しいと思った。

 

昭和16年2月27

今日は悲しき日なり。寝て更に思はむ、吾はまずしき子にして、斯くは今在りても、常に悩無き能はず、苦しみて光明は見出さるとは知るも、如何に其の難き哉。戻して拭われる心は小さく幸なり。我が心に幸あれ

 

昭和16年3月1日

今日から初めての乗艦実習。午前の課業を終って忙しく思い乍ら昼食。それからが文字通り七面八()。五分前に遅れた者が随分あった。直に江田内に於いて鬼怒乗艦、錨作業、出港用意見学、3時出港。身廻整頓、乗組士官以上の紹介等をしている内に夕食。兵学校と違って飯が熱い、夜の瀬戸内海は綺麗だ。夜食が出て大喜び9時就寝。生れて初めて「ハンモック」に一夜を過す。真夜中に九州北東端の杵築に着いた。

 

昭和16年3月2日

一寸寝不足みたいな気がして起床。釣床当番、生徒室の室直をやった。洗面をする時に遥か水平線上にポッンと小さく佐賀関精錬所の煙突が見えた。それが時を経るに連れて右舷に大きくなって来た。山上に立つ東洋一の大煙突、豊予海峡から豊後水道に入る。午後3時から魚雷発射を見学した。九州、四国を遥か南に離れて陸影は全然ない。足下には一目見て分る黒潮が躍っている。八雲が敵艦、銀の魚雷がザザツと水中に躍り込む。其の前の水雷戦隊の攻撃は素晴しかった。鬼怒が24節で走っているときは速いなと感じたが、駆逐艦はずつと後から来てさっと抜いて行ってしまひ、魚雷揚収を見学。夕闇が次第に濃くなる頃、宿毛に入港。美しい南国の入江、人が住むとも一寸思へぬところ。

 

昭和16年3月3日

四国最南端の朝、美しい景色の海だ。七時半出港。防毒面装着。戦闘用意、9時半頃後檣に上って14糎砲実弾射撃見学。33節の最大速力にガブルこと甚だしい。早苗(駆逐艦)が引っ張る標的に対して一斉射撃、よく当る。方向転換から向い風になって凄いこと。降りられなくなってしまった。12時過ぎ演習を終って帰路につく。豊後水道を通り覚えのある水の子灯台を過ぎて少刻したら島ばかりの瀬戸内海に完全に入ってしまった。

 

昭和16年3月8日

聊か睡眠不足。午前中は艦内の大掃除。でも安下庄を出てからずつと対潜訓練は続けられている。艦橋の機銃甲板で本艦に対する潜水艦の攻撃訓練を見学した。次に「カタパルト」甲板に下りて見学。右舷にも左舷にも潜望鏡を見た。終って防火教練の見学。防水教練の方はよく分らなかった。午後は退艦準備すっかり始末してから羅針艦橋を上って、恰も「ガンルーム」士官気取になってあたりを眺めまわしたり大望遠鏡で彼方遥かの汽車を発見したり・・・2時半、艦長訓示、3時半、呉入港。汽艇で小用に、そして生徒館に入った。

 

昭和16年3月12

千葉先生からの御手紙が来ていて嬉かつた。晴朗ちゃんは日産に確定したとか、幸多かれんことを祈って止まない。豊中の卒業式は五日で、とうに済んでいたのだが一寸も気付かずにしまった。楠 兼敏が1番、中村正人が2番だったらしい。今頃彼等は真青になって猛勉の最中であろう・・・弘次も猛勉せざるべからず。

 

昭和16年3月24

明日は69期生徒の卒業式。夜養浩館で御別れの(はなむけ)をした。卒業生はいろいろ家の人からの御土産などを持って来て下さる。最後の思い出話も賑かに時間一杯を過し、終りに江田島健児の歌と軍艦「マーチ」を歌った。

 

昭和16年3月25

いよいよ卒業式も終ってしまった。久邇宮殿下が御名代で御台臨あらせられたが、端然たる立派な御容姿の方であらせられた。優等生が戴く恩賜の短剣、溌剌喨喨(りょうりょう)たる軍楽の音、金桜への誘いに胸の高鳴りを覚えた。

 ああ六十九期生徒は卒業せられた。山城の前部高角砲の下に立って帽を振って居られた姿・・・南洋への遠洋航海・・・泣いて(さと)された赤堀伍長の別れの目射し。忘れ得ぬ候補生姿の一号生徒。左様なら、御気嫌ようと言って眼を涙にうるませてじっとこらへて笑ってロを利かれた様子・・・ああ・・・人の身には別れあり、と深く、深く知り初めぬ。

 

昭和16年3月26

今日は友、征矢野晤朗、ゴロチャンの東京へ勉学に出発した記念すべき日なのだ。幸多かれ、正しかれ、強かれ。

 

昭和16年3月31

日曜日、食後の体育は一号生徒が銃剣術査定で居られないのでニ号生徒と一緒に「ドッチボール」縄跳、背負リレー競走等してとても面白かつた。外出後、金本、山崎倶楽部へ行き、酒保を貰って水源地で分隊会。七十期の新一号生徒は明朗だ。「ゼスチャア」でワソサと笑はせた。弘次達も四号から三号になった。

 

昭和16年4月8日

3月29日に監事長寺岡謹平少将を支那の軍事顧問官として御送りし、今日は又新見校長を御送りした。表桟橋から内火艇で行かれる・・・「帽振れ」・・・

 

昭和16年4月12

午後1時40分から試斬、中山博道先生はさすがに見事にすぱりと切れる。気が凛として響いて来る様な気がした。生徒は下手に見えてたまらなかった。皆の前でやるので聊か上るのが外に表はれるのがとても目についてたまらなかった。

 

昭和16年5月3日

考査が終った。今日は移動訓育。小・中学校の遠足である。空しくも雨となりにき。海荒れ風烈しく、水雷艇の揺れること甚だしい。されど阿多田乗艦後、余は常に主檣楼上にありて四界を(へいげい)せり。岩国沖より水雷艇は動揺甚大にして総員の蕨色蒼気を帯び岩国航空隊は生徒の為の設備完全なるに一驚せり。錦帯橋迄六粁雨中の行軍を経験せり。

 

昭和16年5月11

分隊巡航、7時江田内出航、機艇の中で朝食をした。静かな海を.1時間10分で宮島桟橋着。両側に立並ぶ盾と行き会う娑婆の人々が懐かしかった。鳥居と廻廊とは凡そ日本三景と言って誇示するには一寸不満な気がした。豊橋と静岡県の境の航空灯台からの浜名湖の眺めの方がどんなによいか分らない。直ちに弥山登山、随分長く感じた。頂上で蜜柑缶と羊羹、パン、ハービスの昼食。軍歌を歌い乍ら下山。途中で外人に行き会った。同行の日本人の面映ゆげな顔。こん畜生奴と思った。

英語で「ネィヴァル・カレッヂ・・・」云々とか云っているのが聞えた。十ニ時半、商船桟橋出港。1時45分江田内に入港。大塚生徒に1学年用紅葉饅頭を頂いて倶楽部宜侯

 

昭和16年5月23

今日は今迄1ケ月鍛えに鍛えた腕で死闘する短艇競技の日だ。早朝食事を終へ橈漕準備をなす。風強く海上小波高し。第7回1クルー1番、第14回2クルー1番。大いに意気天を衝けり。愈17回、18回第2次競技に於いて無念や敗退せり。されど生徒隊に於ける綜合成績は3番なり。僅かに慰むるに足る。

 

昭和16年5月27日

突然、弘次と新田とが今日より宮島遠漕の「メンバー」に於いて代へられた。残念遣・・・水雷艇の上から懸命に応援した。黙って心で漕いだ……20分隊は第2着だった。

 

昭和16年6月10

作文 生徒館生活

 昨年12月、光栄ある海軍将校生徒を命ぜられ、茲に生徒館生活6ケ月を経ぬ。顧みれば我が人生に於ける大なる生活転換を受けつつ現在に至りしこと将に感なき能はず。我が輝ける前途への途中、天は我を苦しむなり、天は我をして大事を担当せしめんとするなり。故に此の間に受けし苦痛は避くべきにあらず。進んで甘受すべき天の試練なり、斯く観じ来り、我が心日々に確固たる志操を堅め得たらんには生徒館生活に於ける生徒たるの本分を完遂するに難からざるべし。入校教育時、愚庸一青年は嘗つて知らざりし。肉体的苦痛に驚き厳格なる生徒館生活に己の余りにも追随し得ざるに苦しみたり。されど必到の苦痛を予期し之が克服を措きて他に道なしと悟りなば、如何に匹夫愚庸なりと雖も敢然立ちて奮はざるを得んや。時に志、将に挫けんとし雄気払底して覚悟揺るがされ一風翻然として立復り、志定りて心奮い、終に常心を得たること幾度ぞや。然して6ケ月前途尚遼々志愈堅く心常に奮い些か動揺せらるるなきを期して励まざるべからず。

 

昭和16年6月12

体操は徹底的に徒手体操ばかり、相当にへたばった。夜の「ニュース」で映画「レヴュー」は中途で映写止。あまりにも変な気がした。兵学校は聖地、余計な刺激は一寸もなくするのが「モットー」。

 

昭和16年6月17

東京外語に行っている堀田正夫君から手紙が来た。独逸語科の総代に選ばれました、豊中の名誉を思ってしっかりやります・・・と正夫君頑張って呉れ給へ。

 

昭和16年6月19

短艇は下手廻を一寸やつた。ぐっと落して行って大帆がバクッと音を立てる時の気持ちは非常によい。見る間に豪雨と強風がやって来た。「ストッパー」までずぶ濡れになり傾斜して水が入って来そうな艇が10節位でつ走る気持よさ・・・

 

昭和16年6月29

日曜日、今日は外出しないで手紙を2通書いた。又、芳枝先生のところには出さずにしまった。本当に仕様のない子だこと・・・つて怒って居られるかも知れない。いくら怒っても江田島までは叱りに来られないから安心だ

 

昭和16年6月30

小銃拳銃射撃競技の日。朝まだき、射場に上り丘に腰掛けて見る江田島能美島の雲海は真に聖地江田島を思はせた。

 

昭和16年7月7日

支那事変記念日。朝大講堂に於いて校長閣下の礼儀、殊に敬礼に就いて訓示があった。正午黙祷。神に自らの正しき事を些かも疑うことなく死したる者を受け入れ給へ、と祈った。

 

昭和16年7月13

此の夏休暇は思い出多く楽しく暮し度いと思う。久し振りの豊橋の様を考へると懐かしい思いが胸に湧く。

 

昭和16年8月9日

休暇終了。満員列車にて午前6時33分呉着。兵学校定期は遅きを以て川原石より民船にて江田島に帰れり。倶楽部に立寄りて飲料を摂り渇を癒す。生徒館を仰ぎて言うことなし。火花を散らす生徒館の毎日はよき故、午後自習室大掃除。いと眠し。さながら紙張子の虎の如く頭自ら揺れくるを如何せん。夜ともなれば練兵場に涼風は吹きて彼方此方語らいつつ散歩す。寺本の言うこと面白く聞かる。

 

昭和16年8月10

遊泳後直に外出せり。友等皆己が故郷の名物を持ち寄りぬ、懐しき思い出、味はうごと誰も彼も笑みて・・吾がみやげは芳枝先生よりの梨と母よりの羊羹なりき。旨き哉とて友に領つ。ふと汽車にて共に坐れる少女を思い出しぬ。目を閉じて伏せたれは様々の想、走馬灯の如きに走りぬ。妹も大人びたり、恵子、満璃ちゃんも貞子ちゃんも皆々・・・言うことなし。唯修養の道を辿られんことを希ふなり。

 

昭和16年8月13

窓外にて(しち)(せみ)の鳴き声す。そぞろに故郷の秋偲はる。再びとは故郷の秋を見ぬらむ。

蟋蝉に秋はかなしの故郷よ  我再びと帰り見ぬらむ

 

昭和16年8月14

修養の必要を痛感す。軍人として文武兼備は之武士道を踏むものなり。俗事は置きて談ぜず。唯高尚なる詩歌に文章に知を弘めんと欲す。されど徒らに社会一般と容れざる如くはなるまじ。

 

昭和16年8月16

夜は巡航、星の美しきこと亦と云はん方無し、さそりの心臓「アンターレス」の茜さ、山稜の灯とまがふ「ジュピター」、原始の人々の天体に対する驚畏をまざまざと味はへる心地す。

 

昭和16年8月17

昨夜の巡航は相当に長時間睡眠し得て目覚めたる時は、日既に高く「カッター」は湾内に入りてありたり。寝覚めの羊糞の味亦風流なり。朝凪の海の静けさ……魚は飛べり。平和なる江田島の海山、明日の日本の戦士を育くむ母胎・・・余は美しき心の持主、平和なる強き武人たらまし。世界平和の実現、人類の闘争絶滅への理想に向いて一進一退世界は推移す。理想への途上犠牲の多きは亦止むを得ざるべきなり。専ら我が死に際し、余は余の行為を最後迄正しと信じて死にたしと希うのみ。

 

昭和16年8月18

星座に興味を有する様になれり。之よきことなれば、極力時間を見付けて勉強せん。

 

昭和16年8月19

「恩を受くるは自由なり……」とは?蓋し四恩あるを知らずしての言なるべし、個人主義の象徴茲に表はる。人類は人なり、獣と異なる所以を知らざるべからずー鳴呼〃汝我欲起りたる時考へみよ。此の言己にとりて最も都合よきを発見せん。

 

昭和16年8月20

我が青春のあまりにも短かきに嘆かざるべからず。青春を楽しむべからざれは青春をして壮年の素地を養うべき時代たらしむべし。己が道を啓け。

 

昭和16年8月21

大に勉強すべき学課を定め寸暇を用ひて努力せん。

学べやも 僅かなる間に積りては

輝く塔と などかならなむ

 

昭和16年8月23

想ひ労づき 疲れにければ

 寝ころびて 古鷹山を 眺めたし

雲湧きあがる 大空の下

 

昭和16年8月26

芳枝先生よりの御手紙には奇怪なる夢書きありたり。先生の女性としての神秘的信仰を窺い得る如き感す。

叔父の許へ音信せり、手紙を書きつつ幼時より育くまれたる御恩様々なる思い湧出し、梢感傷的になれり。本日、期末考査日割発表されたり。須く勉強之勉むべし。

故郷はよき哉。されど父母は既に老いさせ給ひぬ。

駅頭に吾をば送りし父君の

しげき白髪の御顔偲ばる

 

昭和16年8月28

 快晴 波立たず。絶好の近距離競技日和。個人競技にては20分隊悉く3位に入りてメダルなし。分隊継泳にては余が横泳にてトップに泳ぐ。10人中6位にてタッチ、次々と頑張りて、平泳の時には第1位となれり。されど無念哉、クロール遅く遂に3位になり完せたり。此の日開校以来の大記録は瓩支重立泳にて実に21分余驚嘆に値す。弘次が東京に居た頃四谷第四小学校の友、坂上安彦兄より手紙を受け早速返信せり。肋膜にて病床に3ケ月、如何なる事を考へおらむ。

我は忙し、されど友既に3月病床にありと聞きて、

3月寝て考へみなば解りなむ

我が行末は如何あるべきか

 

昭和16年9月1日

汝如何なれば勉強に没頭し得ざる。今当に必要の努力を要すべき秋に非ずや、分秒を惜ぐの時に非ずや、ああ努力勉励すべし。

 

昭和16年9月3日

今日はあまりにも疲れぬ。様々な人、ことに思いやられて

行き暮れて疲れ果てたり此の旅路

明日は如何なる国に目覚めむ

 

昭和16年9月4日

余は神に対し今日今迄生くることを許されたるを感謝す。神は愛なりとは、我罪深きにより実感すること切実なり。常に常に顧みて過を悔い、是を期せん事こそ肝要なれ。昨日の余は今日の余に非ず、明日の余は今日の余に非ざるべし。

 

昭和16年9月5日

夜風出ぬ、月の雲間に映ゆる姿亦美し。4学年は水雷艇生地訓練にて強風波に悩み居ることならむ。

一点の雲太陽を蔽ふに足る……意味深き言葉哉。犯されたることは人の総てに捗りて汚点を作るなり。人或は之を信仰に依りて清めんとするなり。

 

昭和16年9月6日

名月輝而清光流

偲仰歩去年秋夫

有何時再見彼月

 

 名月輝きて清光流れ 仰ぎつつ歩みし去年の秋偲ばる 我再び故郷にて挑むるははた何の時ぞ

我が影をあかず眺めて歩み来し

道をば 照らす 月は清けし

 

昭和16年9月8日

 急転直下秋来る。

 

昭和16年9月12

考査既に近く学ぶに暇少し。今にして努めずんば、はた何時にか努力すべき。此ぞ始めにして終りを決定すべきの鍵なり。

 

昭和16年9月14

雨既に3日、書止めて頭挙げたれば

あまだれの音にしあれば悲しかり

などか輝く星の見えざる

 

昭和16年9月16

朝柔道有志練習を終へて道場からの帰りに見ていても飛んで行かない雀の子

 今日は雨降りお宿をかそか

 

昭和16年9月19

近次真に己を顧みる暇あらず いと口惜しきことなれ。

顧み顧みて後凡人はいささかづつとも向上するなり。

我日々向上しありや否やを思ひて心せかる。

 

昭和16年9月21

夕涼風 金木犀の快き美しく優しき香、何処ともなくただよい来る。

遥かに故郷の庭思ひやらる。

 

昭和16年9月23

雨近き中村山の中腹に

炭焼く煙裏白にぞ見ゆ

 

昭和1610月三日

草に置ける露のいと冷きに驚かされぬ、秋も深みたる哉。父に手紙を出しぬ。

一刻も早く父母を安らかに憩はしめ度し。

我が力続く限りに労づきて

とく憩はせむ老いし父母

 

昭和1610月4日

我武人として散り果てむ後は

白露の生命ともがな散り果てて

澄み渡りたる秋の大空

 

昭和1610月6日

 山に立ちて 紅葉散る 頃となりぬる 夕碁は

陽紫に ひとり 寂しき

 

昭和161010

暗き屋上にひとり立ちて  流星の尾引き流れて 飛ぶひまに

    祈れば 叶う 幻の夢

 

昭和161012

日曜日。倶楽部にて「どん底」を読みたり

 究極は貧民街の生活を知りたることと「ルカ」の言う言を僅かに理解し得たるのみ。ゴールキーの画図せる思想を把捉し得ざりき。

 

昭和161016

わが前の山の間にありし雲

空にかへりて秋風ぞ吹く(晶子)

冬の兆、秋の風よ、夏風の名残と枯嵐の響きとを忍ばせて小用なる峠路より吹き来る

 

昭和161017

 海に立ちて

飛渡の瀬の 空にかへりし白雲を

遥か眺めつ 夢を想へり

 

昭和161018

靖国神社臨時大祭、遥拝式は雨天の位置。国の鎮のラッパ嚠喨(りゅうりょう)たり。暫し念いを護国の鬼に凝らす。行手を熟視せんか余も亦斯くとは瞭然たり。此の数年の期に於いて、余は何をすべきや。徒に毎日を送るが如き事決してあるべからず。常に顧みて己に鞭打つは最も大切なり。思はざるべからず。

 

昭和161020

夜は部訓育。星空の下、大講堂東側にて五十嵐中佐の訓話あり、曰く「人生はもう一辺、もう一辺の連続なり」と。即ち常に最後の力をも傾注し尽すべしと。又生徒館風紀の維持者たれと。

 

昭和161024

何となくすさまじき気を感ず。大海中、荒れ狂ふ怒涛中に唯一人ありたき感なり。

 

昭和1611月2日

御殿山に登る。山は良き哉と恩へり。暖かき山辺に佳き本を読み度しと思う。我が頭脳の鍛錬の足らざるを嘆く。本を読みてあまりにも粗雑なる頭を感ず。美しき故郷、楽しき故郷欲しと思う。人の子は悲しみに沈むなり。何の日にか悟りて之を得んや。

 

昭和1611月3日

明治節。御写真奉拝後運動会、百足競走、騎馬戦に出場。昼食は教官生徒会食、外出許可後大講堂前に於いて愛知県人写真撮影、終りて小島教授官舎訪問。神藤教授も来られ、種々豊中時代の思出話を承りたり。鰻頭に砂糖を付けて食べしは傑作なり。勉強努力とは日常些細なる事に於いて習慣付けられるものなり。平凡なる日常時に於いて己に克つこと能はざる者は何ぞ大なる勉強努力を為し得んや。

 

昭和1611月5日

弥山競技。苦手の弥山、悲痛な覚悟。終始大塚生徒に励まされ、尻押しされて、上りたり。其の苦しさは表し難し、一生の思い出とならむ。大塚生徒には感謝言うべきことを知らず

 

昭和1611月6日

哲学は解りはじめたら面白さうだ。東京の小学校で神原発生が幼かった私達に話して下さった「哲学は面白い」と云はれたことが解りかけた様な気がする。

 

昭和161111

大塚正雄生徒より新愛唱歌集をいただいた。嬉しさにつけ、悲しさにつけ、楽しさにつけ 歌へよ君、伴生徒へ と書いてあった。

竹田生徒が自啓録に写す様にと云って次の文を下さった。

海軍兵学校の伝統精神

上下渾然一体となり、日夜軍人に賜りたる勅諭を奉体し、厳粛なる軍紀と一糸乱れざる統制の下旺盛なる精神力と必勝の信念を堅持しつつ黙々として自己の本分に邁進すること。要約具体化せば

 聖旨を奉体すること

 日啓白発進取の意気に燃ゆること

 質実剛健尚武の気風あること

 廉恥心を重んじ明朗なること

 礼儀正しく気品高く将校生徒たるの体面を重んずること

 上級生徒と下級生徒との区別は厳然たるも上級生徒は実践窮行し下級生徒を誘導し下級生徒は此に順う

 敬神崇祖の念に燃ゆること

 

海軍の伝統精神上

 忠君愛国 滅私奉公

 必勝の信念

 犠牲的責任観念

 旺盛なる攻撃精神

 寛仁雅懐

 廉恥心

 

用兵上

 精神主義なること

 実戦的訓練

 万世一系の統帥

 索敵撃滅主義

五、捨身の戦法

 

昭和161115

70期の卒業式

作文 70期生徒を送る

茲に海軍兵学校を卒業せらる第70期生徒を送るに際し、感慨甚だ大なるものあり。顧みれば吾人は兄等の指導の裡に此の1年を過し、兄等より幾多の訓を受け海軍兵学校生徒たる素地と帝国海軍の伝統とを継承すべき基礎を授けられたり。吾人は此等に就きて深甚なる感謝を致すと共に更に奮励努力、立派なる帝国海軍の後継者たらむことを誓ふ。時将に末曽有の非常時局に際会し、護国の大任を負う、海軍軍人の門出は亦重大なる意義を有せざるべからず。

兄等は海軍兵学校に於いて培い来られる意気と元気とにより、あらゆる艱難を突破し、万策尽くるとも尚窮せず、以て本務を貫徹せられよ。敬愛する兄等との別離に際し唯武運の長久を祈るのみ。(こいねがわ)くは再びび兄等と見ゆる日有らしめんことを。

榛名が江田内を出港する。南へ 南へ・・・左様なら。艦尾波を受けて大きく、大きく揺れる「カッター」の上で、何時迄も帽子を振り続けた。左様なら。

(なにわ会ニュース37号35頁 昭和52年9月掲載)

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