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平成22年5月7日 校正すみ

齊田 元春兄の葬儀に参列して

金枝 健三

 齊田元春兄が平成18年6月9日1210死去しました。平成12年の心筋梗塞で倒れてから入院、手術、自宅療養と 鋭意回復に努めておりましたが、冒頭の如く、心不全で遂に帰らぬ人になってしまいました。 合掌                

葬儀は左記の通り行われました。

  桐ヶ谷斎場       

品川区西五反田五の3220  

  平成18613 1800

葬儀 告別式   614 1000

 通夜には 多くの弔問の方が参列し、会場に入りきらぬ程でした。我が クラスからは藏元、金枝、斎藤、野崎、三澤、村山夫妻、室井の8名、さらに、三号(55期)の竹俣、谷崎の両君が出席致しました。<BR>

 翌日の葬儀、告別式では 金枝が弔辞(後掲)を読み、お別れ、出棺となりましたが、この時 再び軍艦旗で棺を覆い、斎藤の指揮で機関学校の校歌を歌い、齊田と最後の別れを致しました。出席は岩間、金枝、藏元、斎藤、野崎、三澤、村山、室井の8名と、55期の大久保、谷崎の両君でした。<BR>

 初7日法要で総ての式は終了、その後 精進落としの席に移りましたが、その席で 金枝の話の後、三号の谷崎君からも想い出話があり、齊田は三号のこの想い出話、更に三号生徒の両日に亘(わた)る参列を一番喜んだのではないかと思います。53期から三号の方々に厚くお礼申し上げます。

 久し振りの四月の「歩け」の集まりの折、村山から齊田兄が入院したが既に退院、自宅療養して居るとの話を聞き、彼ならば大丈夫と安心しておりましたので、今回の訃報には只々驚いております。

 

思えば齊田との出会いは、昭和1512月あの舞鶴湾頭に立つ海軍機関学校第53期生徒としてでありました。当時の若者たちが憧れ、全国の中学校から難関を突破し、将来の帝国海軍軍人として日本を護り、海軍を背負い意気燃える輝き一杯の時期でありました。然も第3分隊の四号生徒として、貴方とは起床から就寝までの総ての生活を共にする事になったのであります。厳しい一号生徒の指導の下での毎日は余裕を失う時もある程大変でしたが、貴方は何時も泰然自若の行動をとっておりました。<BR>

10年程前、村山の計らいで貴方の当時の日記帳を我々に公開して呉れた事があったのですが、入校から卒業までの一日も欠かさない内容は、我々クラスとしては驚きであり、貴方が如何に言葉を大事にし、訥々と語る一語一語には重みがあり、誠実さがこもった貴方の人となりを示す証しと申せましょう。心の休まる時の無い四号時代でも温習室で常にペンを離した時が無かった貴方の姿は今も脳裏に残っております。<BR>

 卒業後は最も希望の多かった飛行学生に選ばれ、霞ヶ浦航空隊での搭乗員への道に進みました。その飛行学生の時と、「銀河」の実施部隊の二度に亘り、墜落と申してよい事故に遭遇しながらも奇跡的にも怪我だけで済んだという不死鳥の様な強い貴方でもありました。<BR>

 戦後は海上自衛隊に進み、航空の偵察関係の要職を歴任し、自衛隊退職後は地元野田市排水施設組合の専務理事として長く公務に就き、地域の環境整備に鋭意努めました。この仕事は国のため、人のために尽くすという海軍時代からの貴方の強い思いを貫いた立派な最後のご奉公と申す事が出来ましょう。<BR>

 仕事を離れてからは、読書、庭の土いじりなど、文字通り悠々自適、晴耕雨読の日々を送っておりましたが、平成12の心筋梗塞の発作以来入院、手術、自宅療養と体調回復に専念されて頑張ってきましたが、遂に本日を迎える事になって仕舞いました。かけがえのない級友をここに失い痛恨の極みであります。<BR>

機関学校の頑張りの精神を最後まで発揮された 齊田兄よ、これからは ゆっくりとお休み下さい。そして残られた奥様をはじめ、修(おさ)()様達、ご遺族の方々を天の上からお護り下さい。更に あちらには太平洋戦争で戦死した57名の級友、戦後亡くなった 25名の級友もおります。<BR>

あちらでゆっくりとクラス会を開いて下さい。 では  ご冥福を祈りながら<BR>

最後の「さようなら」を申し上げます。齊田 さようなら  合掌

    平成18年6月14<BR>

      海軍機関学校 53 代表 金枝 健三</P>

(なにわ会ニュース95号15頁 平成18年9月掲載)

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