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平成22年5月15日 校正すみ

故吉田二三男兄の葬儀に参列して

村山  

平成10年6月3日朝方、窪添龍輝兄(経33)より吉田二三男兄(日向市)が死去したことを、吉田純子様(吉田兄の長男義様の奥様)から連絡があった旨の伝達を受けた。直ちに葬儀の段取りを現地に問い合わせ、地元日向市の石丸会館で、吉田兄が死去した当日の夕に、キリスト教の前夜祭、翌四日告別式を行うことを確認した。

葬儀場へは橋元一郎兄が最寄りとしては近いので、葬儀の参列を依頼したところ、当人はこのところ体調を崩し(腎臓が悪い様子)吐き気もあり、旅行は無理との情報を得た。

橋本兄は、腎臓病の先輩である吉田兄に近々療養の方法を教えてもらおうと思っていたところであり、吉田兄の訃報に大変落胆した様子である。

葬儀にクラスメートの参加がないと、吉田兄もさみしい思いをするであろうと思い、小生が4日の告別式に参列することに決めた。

吉田兄は、今年2月頃から体調を崩し始め、3月中旬に下血、3月24日に入院、治療に専念、ご夫人の寝食を忘れた必死のご看病の甲斐もなく6月3日0950永眠した。

前夜式は吉田兄死去当日の夕1900から2000の間に実施された。

6月4日1030斎場である石丸会館に到着した。キリスト教と聞かされていたので教会であろうと思いこんでいたら、仏式でも神式でもできる一般の斎場であるのに先ず奇異な感じを抱いた。斎場の看板には『故吉田二三男告別式・宮崎キリスト幕屋葬』と書いてあり、『幕屋葬』という語彙も初めてで興味が沸いた。受付を済ませ、これらの疑問を解いてもらうことにした。「幕屋」とは、キリストの時代、信徒達が集まる場所は今のように立派な教会があったのではなく、その都度天幕を張り、その中で行事を行っていたのであって、この天幕のことを「幕屋」というそうである。吉田兄が属しているこのキリスト教はカソリック派でもプロテスタント派でもない。豪華な建造を誇示している教会と、神父又は牧師を頂点として道を究めていくのでもなく、往時のキリストの精神に帰り純粋に心の信仰を深めようとするもので、固定した教会という建物はないとのことである (無教会主義)。

また、神父・牧師という制度はなく、すべての信者が平等に信徒であって、行事を行うときは、信徒の中の長老が執行官となるとのことである。宗派の正式名称は『宮崎キリストの幕屋』という。このようなことから、葬儀は、一般の斎場を使っているとのことである。

(注‥無教会主義・

内村鑑三(1861〜10930)、

手島郁郎(1910〜1973)

 

吉田兄は、昭和38年からキリスト教に入信、熱心な信徒となり、悩み多き人々のために献身的に尽くしたそうである。式場は、彼の人柄と業績に敬意と感謝を表したい人達で一杯になっていた。

キリスト教の葬儀であるので軍艦旗などは場違いで到底受けつけてもらえないであろうと、危惧しながらも、軍艦旗で棺を覆うことを提案したら案に相達し、吉田二三男海軍大尉が還ってきたと、歓声が上がるくらいに、ご家族ともども皆さんが大変喜んで下さり嬉しかった。       

1150 故吉田二三男兄の告別式開始。

黙祷、聖歌、聖書朗読と他のキリスト教の儀式と同じように、信徒の中の長老の進行で進められ、式の中程、『祷告(とうこく)』という式次第になって驚いた。ご夫人、ご子息に続き、故人にお世話になったご親戚の方や信徒の方々が次々と故人の業績を偲び、感謝の辞を述べられた。慟哭(どうこく)する者、感情が先に立って言葉にならない者、もらい泣きされる者、(すすり)り泣きの声などなど・・会場の緊張と悲しみは頂点に達し、小生い引き込まれハンカチを目に当てる始末となった。小生もその中に加えてもらい、即席に『吉田兄におくる辞』(後記)を述べ、結びに、海軍機関学校歌を小生一人で、吉田兄と二人で高らかに唄った。

(校歌に関心を示す方があり、歌詞全文を教えてはしいとの要望を受け、後日校歌を吹き込んだテープをお送りした。)

供花の後、最後に聖歌の斉唱。その聖歌の題名と曲が奮っている。題名は『海行かば』、曲は我々が日頃歌う「海行かば」の曲と同じ、そして歌詞もその前半がこれまた我々の「海行かば」と同じなのである。―歌詞を後記しておいたのでご通読をー少々くすぐったい思いであった。

 

1330 霊柩車にて斎場(日向地区斎場東郷霊園)へ、1400荼毘にふされた。お骨揚げまでお付き合いをするつもりで帰りの飛行機を最終便にしていたが、お骨揚げの時間が1700といわれ、吉田兄に別れを告げ日向を後にした。  

 

『海行かば』

 海行かば水漬く屍 山ゆかば草生す屍

十字架の標木となりて 魂極るまで

 天地の主よ照覧たまえ 聖名のため

生き抜くこの身

栄光の御国の捨石と 数え給えや

吉田l二二男君におくる辞

 

吉田二三男君におくる言葉

吉田二三男君、君と50数年振りに会い、「よー吉田君」と呼びかけるその言葉が最後の言葉となっている。こんな悲しいことはない。

君との出会いは、昭和15年12月1日、舞鶴湾頭にそそり立つ海軍機関学校。君は志布志中学同窓の上野三郎君と2人、難関を突破して入学してきた。

身体は大きくないし、あまり器用な方でもない君は、小生と同じように、柔剣道やカッター、高浜の10哩駆け足、蛇島・烏島の遊泳の頑張りと根性にはお互い苦労しましたね。しかし、九州男子である君は弱音を吐かず、その頑張りと根性には傍に並んでいて大いに教えられ、励まされた。時には神明社の丘にたたずみ、父母の安否を気遣い故郷を偲んだものだ。でも楽しいこともたっぷりあったね。

舞鶴湾の帆走訓練、神鍋山のスキー行軍、京都宇治方面の乗馬、兎狩り、伊勢神宮参拝や天の橋立・厳島神社の学年旅行などなど、覚えていますか。

太平洋戦争の戦局が厳しさを増し、熱い友情と強い連帯感で結ばれた我々53期生は思い出多い生徒館生活を繰上げ、昭和18年9月15日、太平洋の戦域に、ある者は大和・武蔵などの艦艇に、ある者は潜水艦に、又零戦や銀河などのパイロットに、そして君をまじえた30名が飛行機整備にと、それぞれ重い任務を負って赴任した。

セブ島に進出した君は、武器もなく食糧も乏しい中で、本土防衛のため、そして部下の命を守るため、どれだけ苦労したでしょう。

室井君が先頃セブ島を旅行し、その話を君に聞かせようど思っていた矢先の計報で、残念がっていた。

武運長久を願って舞鶴の五条桟橋で別れた私達111名は、昭和20年8月戦いが終ったとき、クラスの半ば以上の57名が戦場の露と消え、54名に減っていた。

生き残った私達54名は、戦場で捨てた命と、荒廃した日本の復興のため一生懸命働き続け、古希の垣を越えた今、君が18番目の不帰の客となった。

君は腎臓を煩い、10年余の長い透析生活にもめげず、かつて機関学校で叩き込まれた不擁不屈の精神と君が心酔されたキリストの愛の心で世の為人の為に尽くしてこられた。

数年前、金枝君が君を見舞ったときの写真を見せてもらったが、背筋をピンと伸ばし、僕はこんなに元気にしているよ、とにこやかに微笑んでいる君の顔が強く印象に残っている。

昨年暮、君からもらった便りに、『只今小康状態、透析日は殆ど横臥、読書と軽い運動、聖書と古事記を読みつづける。(そして結びに) 二・三の方、病で大変ですね、お互い年故健康に留意しましょう。』と、重い病をもった君が友人の健康を気遣う気持ち、心優しい君の性格が滲み出ていて頭が下がる思いだ。

でも、もうこんな心優しい君の便りをもらえなくなって淋しい限りだ。

 奇しくも今日6日は、國神社参拝クラス会の日、兵科、経理科のコレスとご遺族合わせて250名が國神社に詣でている。君もその仲間に加わっていますね。

どうか安らかに眠ってください。

そして天国から、最愛の奥様、ご子息夫妻、お孫さん達、残存艦艇38隻のクラスメートを見守って下さい。

平成10年6月4日

海軍機関学校第53期 村山  

(なにわ会ニュース79号12頁 平成10年9月掲載)

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