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平成22年5月8日 校正すみ

品川 逝く

加藤 孝二

6月17日、中学校のクラス会で伊東の旅館についたら伝言あり、品川の計報に接す。直ちにUターン、車中万感せまる。

鎌倉の病院では、高橋、中村、猿田、富士,押本が電話当番をやってくれていた。(沖縄旅行中の長女恭子さん及び級友との連絡係)品川家で遺体を拝す。安らかな顔。

「貴方、加藤さんが見えたわよ、何かいって頂戴」夫人の言 肺腑をつく。

「おい、品川、貴様逝ったのか」と心で語るのみ。

品川とは二号の時、同じ分隊だった。終戦後、東京急行勤務で勤務地、住所共に横浜だった関係で交際の回数も多かった。故粟屋(大村空で品川と一緒だった)が元気だった頃、品川が横浜駅東口のピルにいるよと教えてくれ、早速会いに行った。彼がまだ第三種軍装をきていた頃と記憶している。特にバイパスニュースを発動してからは頻繁となった。彼とは、うまがあったというべきか、合わして貰ったというべきであろう。

ニュース発行の企画をした時、まず品川と眞鍋の同意を得てから東京のクラス会幹事に相談した。2人の承諾を得た時、60%の成功確率を得たと思った。大谷が品川、眞鍋と3人でやるときき、大いにプッシュしてくれた。

品川は文書課、弘報課にいて編集実務を知っており、美術学校へ行きたかったというだけあって画がうまい。(ニュースのカットは全部彼の作品である)。眞鍋は全般の大所をみてチェックして貰うに適任、住所は共に京浜急行の沿線で連絡もとり易い。

しかし、何よりも我輩が自覚する俺の欠点を補ってくれるものを二人が充分持っていたからである。

(参照ニュース1号、2号編集後記)

彼は人も知る生真面目人間である。冗談に「俺の真面目度は、クラスでは品川の次だ」といってはクラスから「品川と次の開きがありすぎる」と冷かされた。戦後生き残りのクラスの中で、一寸ニュアンスは異なるが、生真面目度では故人となった飯沢、和泉と共に横綱級である。とも角遅く帰宅した時、言い訳の種には絶対不適格な友であった。

品川は海軍で人を撲ったことがない。卒業してから後は撲らんというのはよくあるが、在校中、鉄拳を用いずして下級生を指導するというのは、己の人格で指導する、又は相手の自覚を尊重するとかいう理想的な指導法である。指導する方もされる方も若い上に未完成である。自ら意識して「武士の面を撲るとは何事」等と自戒することは大変なことだ。各クラスに2、3名しかいないだろう。

「流石だなあ」と敬服すると、彼懸命に手を振って

「達うんだ、加藤、僕は撲らなかったんじゃなくて撲れなかったんだ。そんな大それた考え等持っていないんだ」といった。(品川の戦後の用語は俺、貴様ではなくて僕、貴様であった。)

彼が酒を飲まないのではなくて、体質的に飲めないというのは納得するが、撲らなかったのではなくて撲れなかったという一言には脱帽した。と同時にこの言葉は品川の人柄をいい得ている。

いつも控えめで目立つことをしない男だ。クラス会の出席率は100%に近いが、酒も飲めず・・ニコニコと人の話を楽しそうに聞いている方である。従って二号の時の印象も余りないが、ベッドメイトが豪毅を以て鳴る故片山市吾だった。一号からお達示を食った時、もっと撲ってみろ、というような態度が時々あった。品川が珍しく

「よせよ、一号には一号生徒の考え方もあるんだかも」といったら、流石の片山も

「うん、分った」

と素直にきいていたことがある。

常に相手の気拝を尊重し、人に迷惑をかけることを気にした。一寸したことでも

「迷惑かけちゃうから」とためらうのが彼

「平気だよ、気にするな」というのが俺の常、七〇%は「気にするな」で決着した。

「俺はどうも思ったことは、相手の立場を考えずにいってしまい、後で後悔することがある。その点貴様を見習っているんだ」といったら

「僕は反対にいえないんだ。貴様が羨しいと思っている。それに貴様のは、嫌味がないから」といってくれた。

品川はお世辞のいえない男だから、あれは彼のエコヒイキと思っている。(誰でもクラスに対しては多少甘い点がある。いつか期会の後で、久し振りにブリッヂをやろうという案がでた。俺の家でやれといって品川家に押しかけたクラスに、お茶汲みをして喜んでいたことがある。彼はブリッヂを知らなかったのである。)

謙虚ではあるが、馬鹿正直と思う程几帳面で責任感念の強い彼は会社で意見が合わぬ時「会社を辞めさせていただきます」ということが度々あったらしい。幸いにも上司は彼の人柄と誠意を認めて受け流してくれた。上司にいう位だからKAにもいったらしい。

「近頃辞めるといわなくなったと思ったら永久に辞めてしまいました」とは夫人の述懐である。

押本が編集部に加ってくれてから暫くして小生がゴルフを始めた時、3人で(眞鍋はまだ始めていなかった)長後CCでやった時、チョコレートでは決済できず、鯵の乾物で決済したことがあるが、それ以来彼に勝ったためしがない。片眼失明でバンカーに入った時等クラブが砂に着くのが分らないのに彼独特の研究熱心でボールの陰をみてクラブを持つ等、彼らしい正確な計算されたプレー振りだった。CGC準優勝2回、葬儀の時泉が「品川は優勝実力充分なのになあー、優勝させたかった」とつぶやいた。ゴルフ場でよく似合うが若向きのスタイルを冷かした時

「倅のお古なのだ、大きくなってきられないのでお下りさ」と嬉しそうにいった。親爺の運転手でCGCにも出た智君が今後CGCで優勝したら品川はどんな顔をするだろうか。

ニュースの編集校正となると、日曜祭日返上一室にこもって家族は立入禁止である。校正等は俺の五倍の校正量である。(小生は日付名前、金額が正確ならばあとは文章の意味が分れはよい、プロではないんじゃ、拙速を尊ぶ、という方式である)彼が多忙の時に頼んで済まんがと断られたことがある。併し引き受けた以上は徹底的にやらぬと気が済まない男だ。慰霊祭の写真係をいつも頼むが、毎年写真を撮るのに専念していて食事をしたことがないと聞いたのは、ドクターストップで慰霊祭に出られなかった彼に「写真が出きたら報告に行くよ、夜何時頃まで起きているか」と電話した6月13日の夜のことだ。葬儀の日「幹事用として2部ずつ戴いたニュースの一部を品川のお棺に入れてやりました」と夫人はいわれた。

「それはどうも」言葉にはならなかったが俺は夫人の心尽しとお棺の品川の両方に心からお礼をした。せつない悲しみと空虚が又どっときた。

会社の釜利谷開発に担当役員として全力投球、一段落してから高橋の診察を受けた時は既に遅かった。その間2年半も健康診断を中断している。職に倒れるは男子の本懐というのは戦時中のことである。余りにも責任感が強く、几帳面で一つ一つ片付けないと気が済まない彼らしい。併し、痛恨の極みである。これからクラスも年々少なくなるだろう。余りにも親しい友、楽しい思い出があると、その度に反比例して悲しい思いをさせられる。

いっそ親友は少なくした方がよいのではないかと思うくらいだ。戦争中は毎日のように戦友は戦死したが、たまに要務飛行で会ったクラスとは別離を承知で精一杯交友を楽しんだものだ。当時は私もまたすぐなき命と思っていたからだろうか、今は泰平(?)の世に慣れて、浮世のしがらみも多く、少なくとも当分は死なないと思い違いをし、人生に対する態度がたるんでいる。

昔のように毎日精一杯、真剣に日々を送っていない証拠であろう。

一期一会

俺の例の癖で、とりとめもなくボンボン書いてしまったが、クラスのエコヒイキで勘弁してくれ。

品川よ また会う日迄 さようなら。

      青空や 君亡き後の ちぎれ雲      (葬儀の朝)

(追記) 浜谷、品川とつづいて追悼記を書く。以前に堀内、飯沢の追悼記をならべて書いた安藤昌彦と同じ心境である。

(なにわ会ニュース39号8頁 昭和53年9月掲載)

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