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平成22年4月29日 校正すみ

森実貞男君の霊鎮まり給え

慰霊塔建立  洋上慰霊祭

藤田 直司

 いきさつのあらまし

此処は石川県珠洲市― ―能登半島の先端部― ―禄剛崎灯台沖を航行中の伊号第122潜水艦(艦長69期三原荘作、先任将校72期森実貞雄)が敵潜と交戦、被雷沈没した。時に昭和20年6月101145分、地元の人の話によれは大きな爆音と共に水柱(一説には火柱)を見たという。艦位3729分N・13725分Eで禄剛崎灯台の120度6浬に当る。乗組員1名の上半身が後に新潟県の海岸へ漂着したといわれる。当時は味方識別の為、潜水艦は必ず浮上して航行するよう指示されており潜航中の敵潜と交戦した伊122潜は始めから大きなハンディキャップを背負っていたのである。約2カ月後に敗戦を迎え、十分な事後処理も完了しないまま歳月は流れた。 光陰矢の如く、34年の月日は夢の間に去り、昭和54年を迎えた。

たまたま珠洲市において、郷土出身戦没者の慰霊塔建立の議が持ち上った。珠洲市には元海軍々人の集まりとして、「海友会」なる組織があり、会長の谷野制一氏は海軍のことについては殊の外熱心な人物である。この人が中心となって新たに建立されることとなった慰霊塔には、珠洲市出身ではないけれど、珠洲市の沖に沈んでいる伊122潜の乗組員を見逃がすに忍びず、この際珠洲市出身戦没者と一緒に合祀したらどうかー ―と発議され、とうとう実現の運びとなった。そして同氏は自衛隊石川地連とコンタクト、慰霊塔除幕式に先立って洋上供養を行うべく、そのために自衛艦の派遣方を要請した。その尽力の甲斐あって、駆潜艇「やまどり」(420噸)の派遣が本決りとなった。

一方、石川、富山、福井の北陸3県在住兵、機、経3校出身者からなる「北陸海軍三校会」なる組織があり、金沢在住の浅香正男氏(兵74期)は前述の珠洲市海友会長谷野氏に負けず劣らず海軍のことについて熱心な存在で、自衛隊石川地連でも「顔パス」的存在である。地連で「やまどり」派遣の次第を耳にした同氏は、三校会の金沢地区における指導的立場の八木田善良氏(兵68期)にそのことを報告、種々相談の結果、72期で能都町在住の藤田直司が森実と同期であり、かつ地元珠洲市に最も近いということから小生の処へ電話があり、ことの次第を説明の上、「森実さんはお宅のクラスであり、あなたが珠洲市から最も近いことでもあるので、11月2日には三校会代表として参列して貰えないか」とのことであった。小生は来電の趣を了承すると同時に、これはクラスにも連絡しなければならないと判断した。確か江田島でクラス会を持った翌年のこと、樋口 直が所用あって長男均君を同道して能登路来訪のことあり、小生その道案内をつとめたが、その際、伊122潜の沈没のこと、クラスの森実が先任将校をしていたことを樋口から聞かされ、禄剛崎灯台へも案内したことがある。樋口が森実のことを知っている以上、その洋上供養のことをクラスに黙って自分だけ参列したのでは、後で何といってお叱りをうけるやも知れず、又、クラスとしてもこの際森実の霊に対して何等かの反応を示すべきであると考えたのである。そこで早速押本直正へ電話して前後の事情のあらましを説明し、小生の考えも付言してクラスとしての対応につき配慮善処方を要請した。これが事の始まりとなった。押本は早速、樋口を始め主として潜水艦関係者を中心に連絡をとったり、名簿を調べたり、その結果を小生にフィードバックしてくれる等、具体的な動きが東京近辺に発動された。

小生は同時に地連へ直接照会してやまどり派遣の事実や日程、その他の情報を確認する一方、珠洲市海友会長谷野氏を訪問、森実と兵校同期であること、又北陸海軍三校会のことを話し、双方の立場においてこの度の伊122潜合祀のことに対して謝辞を申し述べると共に、我々関係者も是非慰霊祭に参列致したき旨希望してその快諾を得、それでは今後それらの関係の方々への通知連絡等はすべて藤田さんに一括してお任せするから、その窓口になって貰いたいということになり、小生も喜んで責任をもって引き受けることにした。以後、地連からの連絡と海友会からの連絡を逐次各位に通報の労をとらせて頂いたのである。

 

 当日のこと  

その111月2日)

途中の経過はさておき、11月2日となった。1022分宇出津駅着の列車で山田 良、高松道雄、太田威夫の3君が降りたった。これを駅頭で迎えた小生は、一先ず拙宅へ案内、少憩後早目の昼食をとって1130分頃珠洲市へ向けて出発、有名(?)な恋路海岸を経由、途中、軍艦島(通称 へ立ち寄って下車観賞の後、1215分頃、駆潜艇「やまどり」が横付けしている飯田岸壁に到着した。早速珠洲市当局による受付を済ませ、上陸していたやまどりの士官に持参の清酒2升(やまどり乗員へご苦労さんの意味で寸志として進呈)を手渡した処、やまどりに坐乗中の第四駆潜隊司令がご挨拶したいからどうぞお出で下さいということで、一行4名は艇内士官室へ案内され、お茶一杯ご馳走になる。

北陸海軍三校会から八木田、浅香の両氏も乗艦し来り、小生紹介して互いに挨拶を交わしているうちに「出港用意」となったので、士官室を辞して上甲板へ出た。

森実のご遺族は女2人出席予定となっていた。当日、珠洲駅からずっと遺族の案内に当っておられた珠洲市海友会長を探し出して、森実遺族の所在を尋ねると後部居住区におられる由、早速同氏に先導して貰い、山田良を先頭にそちらへお伺いする。2人連れであった。72期から今日の洋上供養と明日の除幕式とに4名参列している旨をきいて大変感謝され、丁重なご挨拶でこちらの方が却って恐縮した。特に山田は神戸一中でも森実と一緒だったということで、これまた、大変な喜ばれようで、山田も遠路はるばる出席した甲斐があったというもの、小生も押本始め各位に無理をいったのが無駄ではなかったと思い、これで俺の役目の半分以上は終ったような気がした。ややあって再び上甲板へ。

当日は晴天なれども南寄りの風約15米、能登内浦のこの時期としては相当強い風である。恐らく日本海北部を低気圧が通過中ではなかろうか。上甲板に立っていると波しぶきに見舞われる具合である。「お互いに大分潮気も抜けているから、この際たっぷり潮水をかぶった方が良いだろう」等と冗談にまざらせて強がりをいってみたものの、余り歓迎したくない波しぶきであった。その中に艦は次第に伊122号潜沈没位置に近づき、追い風をうけるような針路で直進しながら洋上供養を行うこととなった。計画では沈没地点を中心に旋回しながら行うことになっていたのだが、風波強く、参列者がズブ濡れになることを避けての変更である。前甲板左舷側に数個のデスクをハンドレールに固定して祭壇を作り、菊花を始め各種供物が並べられた。自衛艦内では宗教色は一切抜きということで、神官・僧侶の類は乗艦していない。祭主として珠洲市長の追悼の辞から始まり、各関係者次々に追悼の辞を朗読、北陸海軍三校会代表として八木田先輩、海軍兵学校同期生代表として山田 良が夫々追悼の辞を述べた。山田の追悼の辞は別掲の通りである。次いで儀仗隊による弔銃発射に引き続き、国の鎮め吹奏裡に儀仗隊捧げ銃、関係者挙手の礼のうちに参列者全員が次々に花束、供物を海中投下し、終って全員黙とうと同時に「海ゆかは」吹奏、最後に汽笛「超長一声」をたなびかせて洋上慰霊の式次第を終った。(私事ながら、弔銃発射の号令をきいたとき、嘗ってア号作戦の帰路行われた戦死者の水葬の際、榛名衛兵副司令として衛兵隊の指揮に当ったときのことがフト脳裡をかすめた。)
 その間、艦は追い風をうけてゆるやかに直進し、前甲板は割と静かで、ゆっくり大きくローリングを繰返していた。風は(とも)らバウへ吹き抜けていた。

 

 当日のこと  その2

113日)

明くれは11月3日、今日は慰霊塔の除幕式である。昨日の洋上供養終了後、今日の除幕式に心を残しながら、所用やむを得ずその晩の夜行列車で帰京せざるを得なかった山田 良の心中を思いつつ、その代りのように、今朝金沢から愛車を駆って参加してくることになっている西尾 博が、順調に到着してくれればよいがと考えつつ、高松、太田の両君と共にお粗末な朝食をとる。やがて西尾の宇出津到着予定時刻が近づいたので、除幕式へ参列する準備を整え、予め打合せしてあった地点で彼の到着を待つ。5分程で西尾の車を発見、呼び止めて合流する。この時刻に到着したいということは、途中事故もなく2時間半の行程を乗り切ってきたことを意味し、一応ホッとして見ると、小生の車に負けず劣らずのボンコツの様子である。何年もかかって手塩にかけてきた車の方が却って愛着があって良いものだ―  とか何とかいってごまかしながら、小生が先導車となって現地へ向った。

現地は珠洲市野々江公園の丘陵、梢々頂上附近で整地して相当の平地を作り、そこに立派な慰霊塔が建立されていた。その姿は別掲の写真を参照されたい。(写真省略)

慰霊塔の後方には、山腹に横穴を掘った形に 「霊安所」 が作られ、入口上方には唯一字「霊」と刻まれている。中へ入ってみると、合祀される英霊の氏名が四周の壁面に掲げられ、伊号第122潜水艦の見出しの処には、三原荘作、森実貞雄、以下86柱の氏名が読みとられる。慰霊塔の正面には祭壇が設けられて、海草、山草の種々の「ミテグラ」が供えられ、その前の広場が遺族席で、珠洲市内全域から集合された遺族の方々が、夫々に部落名を記した標識板の区分毎に参集しておられる様子である。慰霊塔に向って左端の標識板には「伊号第122潜水艦関係者」と記されていたので我々4名はその一隅に位置した。あたりを見渡すと、昨日見覚えたばかりの三原艦長の兄君、森実のご姉妹の姿を発見、西尾を紹介しながらご挨拶申し上げ、その場にかしこまって開始を待つ。

除幕式は神式により行なわれ、一通りの神事終了後少憩、引き続いて第1回慰霊祭がとり行われた。神官の総勢約9名、珠洲市内の神官総動員と見受けた。午前10時に始まった除幕式に続いての慰霊祭とすすむ内に、時刻は11時を過ぎて12時に近づきつつある。昨日の名残で風速は少々強めながら晴天にめぐまれて正午前後の陽ざしは意外に強く、後頭部が照らされてづきんづきんする。奏上される祝詞の中に、合祀される英霊の名前が読み上げられる。総数1,738柱ときいていたので、恐らく代表的な何人かの名前を読み上げて「ほか幾柱」となるのだろうと何気なしに頚を下げていたが、何時までたっても「ほか幾柱」にならない。時々たまりかねて後頭部を掌で覆いながらいるうちに到々1738柱の英霊の名前を一人残らず読み上げられた。勿論、伊号第122潜水艦の「三原の荘作のミコト」 「森実の貞雄のミコト」も含まれていた。その間約50分間は優に要した模様である。

今日は、昨日の山田に代り、72期代表として高松道雄が祭文(追悼の辞)を読むことになっている。

 昨日から写真係を引きうけてくれている太田は、高松の祭文奏上の姿を撮るのだといって途中から席を外して、光線の具合の良い方へ移動して行った。やがて追悼の辞が始まった。順を追っていく中に「海軍兵学校第72期生代表殿」と呼びあげられる。高松が立ち上がる。我々も思わず居ずまいを正す。高松の追悼の辞は別掲の通り昔懐かしい文語調であり、読みあげる彼の声は力の限り高らかに、しかも感激に打ちふるえてか、泣き叫んでいるかのように聞えてくる。どちらかといえば形にはまった追悼の辞が何人かつづいた後だけに、一座の空気も一変したようだ。恐らく参列の全員が聞き耳を立てているに相違ない。いつかそこここに鼻をすすりあげる音がひとしきりきこえた。読み終えて自席に戻る高松の顔をみれば、目は真赤になっている。正に前後3時間半にも及んだ式次第における圧巻の一幕であり、且つは一服の清涼剤でもあったに違いない。森実のご姉妹もそっと目頭を押えておられた模様である。

午後1時半を過ぎた頃、参列者全員が順次玉串奉奠を行ってようやく式次第を終った。

お互いに少々空腹も覚えていた。どこか近くで昼食をとろうと相談し、森実のご姉妹に別れのご挨拶をした。後で写真をお送り致すべく住所もお尋ねしておいた。ご姉妹は心から感謝の意を表わされ、72期の皆様方にくれぐれも宜敷くお伝え下さいと繰返し、繰返し述べられていたことをここにニュース誌上をかりてクラス諸兄に報告させて頂く。

 

 あとがき

かくして伊122潜洋上供養、慰霊塔除幕式、第1回慰霊祭と続いた一連の行事はとどこおりなく終った。これで森実の霊も、此処能登半島の一隅に、とこしえに神鎮まることとなった訳である。小生は能登半島に在住する唯一人のクラスメートとして、その墓守り的役割を果たしたいと考えている。願わくはクラスの諸兄、石川県へ、能登方面へ出向かれる機会あらは、必ず小生に連絡頂き、この慰霊塔に詣でられんことを。

最後になったが、山田 良、高松道雄両君が11月2日と3日にわたって、海軍兵学校第72期生代表として朗読した追悼の辞の原文を掲げ、叉、写真は太田威夫君が両日にかけて、寸暇を惜しんでカメラアングルに苦心して撮影係を果してくれた結果の作品なることを付言し、それらのご苦労を謝すると共に、伊号第122潜水艦乗組員の英霊を地元の戦没者慰霊塔に合祀して頂いた珠洲市ご当局、珠洲市遺族会、並びに珠洲市海友会の関係者各位の並々ならぬご厚志に衷心より深甚の謝意を表しながら本レポートの筆を描く。

 

   

時、これ昭和5411月2日、珠洲市、同市戦没者遺族会及び海軍関係者のご厚志により、海上自衛隊のご協力を得て自衛艦やまどりによる伊号第122潜水艦戦没者洋上供養が執行され、ここに関係者が多数相集うことになりました。

故海軍少佐森実貞雄君は、昭和20年6月10日、太平洋戦争も熾烈を極めた最中、伊号第122潜水艦先任将校の要職にあって敵潜水艦と交戦、ここ能登半島禄剛崎灯台沖において三原艦長以下80余名の乗組員と共に戦死されました。ここに謹んで君の御霊に追悼の詞を捧げます。

顧みれば、君は祖国防衛の至誠已み難く、神戸一中から海軍兵学校へ進み学術訓練に励み、また、任官後艦隊勤務を命ぜられるや、自己の職責遂行に精一杯の活躍をされたことは、君を知る人が均しく認めたところでありました。殊に、潜水学校第12期普通科学生教程履修後、君が熱望した潜水艦勤務にあっては、克く艦長を補佐してその重責を果すかたわら激務の間、日夜研鑽を重ねられていたと伺って、やはりそれだけ精進されていたのかと目頭が熱くなりました。君は十二分に仕事を為し遂げ、若い血潮を燃した青春に君は満足しているでしょう。その君が一番心残りであったのは、君がこよなく愛した祖国の命運とご家族の幸せであったことでしょう。水漬く屍となることは海上武人の覚悟するところとは申せ、君が、邦土を視認し得る海域で愛艦と運命をともにし、不帰の人となられたことは何と悲しい幕切れであったことでしょう。

平和を享受している今日にして想えば、君が身命を捧げた祖国の再建された現状を確かめ、そしてまた、今なお、お健やかなご姉妹弟と倶にその幸せを喜び合えるよう長生きして欲しかったと思います。

君は、可惜20有2歳の若さで散華されましたが、現在、期友の一部の者が、君のご遺志を継ぎ自衛艦隊司令官を始め海、陸空にわたり自衛隊幹部として枢要な職責を全うしており、君との切磋琢磨に明け暮れた多くの者たちが、邦家の繁栄を願って実社会でたくましく活躍していることを申し上げる感慨に浸っております。

されば、生存する期友を代表して藤田、太田、高松及び山田の4名が自衛艦やまどりに便乗して君が身罷りし洋上に参りますれば、君、われらが意を(きく)されんことを。

君のご冥福を心からお祈りいたします。

昭和5411月2日

海軍兵学校第72

期会代表 山田  

(なにわ会ニュース42号8頁 昭和55年3月掲載)

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