1月16日
この日の戦没者 66年前 昭和20年
城戸 俊吾(901空 戦闘機)
海南島上空で来襲の敵機動部隊を迎撃、これと交戦戦死(零戦)
戦後物故者なし。
浅村晃司君から次の手紙を頂いた
「先日、偶然なにわ会ニュース第92号を開き、樋口 直君と泉 五郎君の弔辞を読みました。澤本君は○年程前に富山の海兵に会に出席され、飲む機会があり、いろいろと面白い話を聞きました。
泉 五郎君は終戦の数ヶ月前に伊369潜でトラック島へ寄港され、大変忙しい中、在島の吉江、太田、松元、小生の4名の為クラス会をして頂き元気づけられていた。飢えから救って貰った次第です。その吉江、太田、松元君は亡くなり、小生だけになりました。こんな昔の話を思い出せるのは、なにわ会ニュースがあればこそです。改めて心から感謝致します。
同封の色紙のコピーは昨年の暮に私が教えた5名の女性剣士から絵の具一式を米寿の祝いに贈ってくれましたので、そのお礼に画いたものです。
題目を考えていましたが妙案がなく困っていた時、ふと須朗猛進を思い出しました。樋口 直君が入校まもない頃、クラス全員を前にして堂々と話したスピーチの題目だったと思います。ご笑覧下さい。
1月17日
この日の戦没者・戦後物故者ともになし。
なにわ会だより第4号概ね纏りましたので、2部印刷、都竹卓郎君、窪添龍輝君に送り校正をお願いしました。36頁の簡単なものです。そして、なにわ会第3号でお願いした年会費(会員2000円、ご遺族1000円)を納入された207名の方に送ります。3号までは約450名に送っていました。
伊藤伸子様(故小灘利春君の三女)から次の手紙を頂いた
いつも、なにわ会のお世話、有難うございます。IT技術を使いこなされるご様子、感嘆しております。今後もブログ、楽しみにしております。
金沢は、雪嵐状態で、車の運転が怖くてなりません。関東も厳しい寒さと聞いております。
どうぞ御身お大切にお願い申し上げます。
1月18日
この日の戦没者なし。
この日の戦後物故者
大谷 友之(平成21年 1月18日)
泉 五郎君の「大谷友之君を偲んで」 ↓がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-ootani-izumi.html
伊藤 正敬の「大谷友之君有り難う」 ↓がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-ootani-itou.html
後藤 寛君の「大谷友之君の想い出」 ↓がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-ootani-gotou.html
山田 良彦君の「大谷友之君の訃報を聞いて」 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-ootani-yamada.html
渡邉 望君の「大谷友之君を偲んで」 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-ootani-watanabe.html
1月19日
この日の戦没者 なし
この日の戦後物故者
飯盛 秀雄 平成15年 1月19日
金枝 健三君の「飯盛への弔辞」 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-izakari-kanaeda1.html
村山 隆君の「故飯盛秀雄兄さようなら」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-izakari-murayama1.html
先日、なにわ会だより第4号の原稿を印刷していたら突然印刷不能になってしまった。色々調べてみたがどうしても動かない。修理して貰おうとメーカーに問い合わせしたら、故障状況を見ないと正確なことは言えないが安くても8000円から1万円はかかるとの事、もう5年近く使っているので、思いきって新品を購入することにし、今日新品が到着した。新品は16000円だった。早速設定したが、パソコンとプリンターをつなぐUSBケーブルのプリンター側が上手くさしこめない。電話でメーカーに問い合わせたが解決できず、販売店(日吉にある)まで電車に乗って行き実物で教えて貰い、やっと接続出来た。私の住んでいる綱島には前は大きな電気店が3店あったが、次々閉店して1店も無くなってしまい極めて不便である。
やはり新品は気持がいい。
1月20日
この日の戦没者 66年前 昭和20年
山仲 進(256空 戦闘機)
上海上空の迎撃戦でP51と交戦戦死(零戦)
この日の戦後物故者
島田 茂久 平成10年 1月20日
昭和20年6月23日千葉県上空で戦死した上野 典夫君について、杉田繁春君から次の情報を頂いた。
内容を整理して後日HPに掲載する。
頂いた資料の中の情報。
1 名簿の遺族 兄 清香様は昨年90歳で逝去された。
2 昨年11月17日の合同慰霊祭には上野清香様の孫上野敏郎様が参加され、新しい塔婆を建てられた。
3 上野少佐墜落目撃者 大垣 幸雄氏の目撃談があった。
4 海軍兵学校 各期別、年度別、艦空別、戦没者数の資料(杉田繁春作成)かあった。
1月21日
この日の戦没者 66年前 昭和20年
豊住 和寿(6艦隊司令部付 回天)
回天特別攻撃隊金剛隊としてウルシー泊地の敵艦に体当り戦死(伊48より発進)
母上 豊住シズ様の「朝霧に消えた白い手袋」の ↓ の記事がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-toyozumi-haha1.html
橋元一郎君の「豊住和寿兄を想う(再度の出撃と手紙)」の ↓ の記事がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-toyozumi-hasimoto4.html
吉本健太郎(6艦隊司令部付 回天)
回天特別攻撃隊金剛隊としてウルシー泊地の敵艦に体当り戦死(伊48より発進)
小灘 利春君の「忘れ難い人たち 吉本健太郎」の ↓ の記事がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-yosimotokentarou-konada1.html
小平 邦紀様(70期)の「吉本健太郎君とのつかの間の縁(えにし)」の ↓ の記事がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-yosimoto-kodaira.html
城島 昭様(78期)の「回天特攻 吉本健太郎少佐の事」の ↓ の記事がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-yosimotokentarou-jyoujima1.html
賀川 慶近(伊48 潜水艦)
20.1.9 回天特別攻撃隊金剛隊の一艦としてウルシーに向け呉出撃、以後消息を絶つ。(戦死認定)
(米護衛駆逐艦コーペシア・コンクリン及びロビーの爆雷攻撃により20.1.23沈没:米軍資料)
小灘 利春君の「金剛隊伊48潜の戦闘」の ↓ の記事がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-kongoutaii48sen-konada1.html
西田 幸三(攻102 艦爆操)
神風特別攻撃隊新高隊として台湾東方海面の敵機動部隊に突入戦死(彗星)
増子 富二(攻401 艦爆操)
台湾東方の敵機動部隊に突入戦死
折笠 義郎(大分空 艦爆操)
大分航空隊で飛行訓練中、別府湾に墜落殉職(彗星)
戦後物故者なし。
幸田君企画の今月の歩こう会は、「目黒不動尊参詣と周辺の見学」という内容で実施されました。男性は次第に少なくなり、ご婦人方の参加が中心となりました。参加者は写真の10名でした。
目黒不動尊は関東最古の不動霊場で瀧泉寺というのが正式名称で、日本三大不動の一つに挙げられています。
左から
高田、幸田、深尾、伊藤夫人、村上夫人、品川夫人、小松崎夫人、藤井夫人、加藤夫人、深尾夫人
昨日のブログに書いた戦死した上野典夫君の事、整理してHPに ↓ のように掲載した。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-ueno.html
1月22日
この日の戦没者 なし。
67年前の昭和19年の戦没者について、記載ミスがあったので、ここに纏めて記載する。
1月4日 関根 利彦(皐月 駆逐艦)
ビスマルク諸島 敵中型機の大編隊と交戦中、銃撃を受け戦死
海軍兵学校72期の戦死第1号である。
1月11日 石井 勝信(球磨 巡洋艦)
ペナン沖 ムカヘット岬の西17浬で、対潜戦闘中戦死
詫間 一郎の「戦友を偲ぶ」の↓の記事がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-isii-inoyama-sigemori1.html
海軍機関学校53期の戦死第1号である。
1月14日 高原 哲夫(漣 駆逐艦)
内南洋方面で敵潜を発見攻撃中、雷撃を受け沈没戦死
1月16日 岡田 清(天津風 駆逐艦)南支那海で船団護衛中、敵潜の雷撃を受け艦首部切断戦死
塚本 純(凉月 駆逐艦)本邦南方海面で敵潜の雷撃を前部に受け艦橋前部飛散戦死
この日の戦後物故者
石井 晃 平成22年 1月22日逝去
なにわ会名簿
平成15年発行の名簿も発行後7年を経過し、先日発行後の訂正事項を整理してメールで流したが、市町村合併による住所表示の変更や転居、死亡等による変更が多くて訂正するのも大変である。
そこで、あの資料を使用して小生が名簿を訂正していき、やっと新しい名簿の打ち込みが完了した。
そして、15年の名簿記載事項のうち、
終戦時生存者については【氏名 〒 住所 Tel&Fax 最終職種 最終配置 没年月日 家族 出身中学】を、戦没者については【氏名 戦没年月日 戦没地 所属 続柄 遺族 〒 住所 Tel&Fax】を
記載した名簿が完成した。何れもB5版 縦で生存者は25頁、戦没者は41頁になっている。
御希望の方、御連絡頂けばメール添付で送ります。
1月23日
この日の戦没者 66年前 昭和20年
高見 隆三(332空 戦闘機)
亀岡付近でB−29と交戦中被弾、機体空中分解し墜落戦死(雷電)
この日の戦後物故者なし。
昨日書いたなにわ会名簿について早速Y君から欲しいとメールを頂いたので早速メール添付で送った。
このように反応があるととても嬉しい。
1月24日
この日の戦没者、戦後物故者ともになし。
1月19日のブログに書いたようにプリンターを購入したが、未だ5日しか経過していないのに、前回と同じように印刷できなくなった。メイカーに電話して問い合わせしたら新品と交換してくれることになった。
今日新品が到達する予定。
1月25日
この日の戦没者 67年前 昭和19年
波利 貞三(凉風 駆逐艦)
内南洋方面 敵潜を発見攻撃中、雷撃を受け沈没戦死
(波利君は八雲における艦務実習を終って第2水雷戦隊付となり、乗艦を涼風に指定されて1月初め乗艦した。その月の、1月24日にトラックを出港、「日置丸」「興津丸」をブラウンまで護衛の途中、25日ポナペ島北東で米潜水艦「スキップジャック」(USS Skipjack, SS-184)からの雷撃を受け沈没、戦死した。
波利の前任者は私の兄 伊藤治義(兵70期)であった。父 伊藤義一(兵42期)の聖戦日記に次の記事がある。
「十二月二十九日 トラック出港。正敬羽黒で本日入港予定。涼風本日なお停泊。本日以降出港の予定とか。会えるか。また、治義の後任者五戦隊に便乗して来たか。涼風の出港が三〇日ともなれば治義はここで退艦することになろう。」
恐らく波利君はこの直後着任し交替した事であろう。
この日の戦後物故者
池田 誠七 平成10年 1月25日 逝去
藤田 昇君の「池田誠七君への弔辞」 ↓ の記事がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-ikeda-fujita1.html
一昨日故障したプリンターの代わりの新品、昨日朝到着、設定完了、調子よく使える。よかった。
1月26日
この日の戦没者・戦後物故者ともになし。
69期から74期までの現存者(74期談話室の記事から) 参考までに、
69期31名、70期51名・71期106名・72期116名・73期253名・74期460名
なにわ会名簿
先日なにわ会名簿を送った山本省吾君から次のメールを頂いた。
「早速に名簿を送って頂き有難う存じます。
本当にご苦労様です。処でこのような素晴らしい名簿をPS関係者が知るだけでは惜しいし、貴兄のご苦労が充分に伝わらないと思います。そこで、この名簿を小生がA5判に縮めて印刷したので、(素人印刷でうまくできませんでしたが?)PSのない方にも読んでもらえば、きっと喜ばれることと思います。来月早々に若干部数を送りますので、貴兄の方で配って頂ければ幸いです。宜しくお願いします。」
どんなものかメール添付で送って下さいと頼みました。それをみて対策を考えます。
1月27日
この日の戦没者・戦後物故者ともになし。
70期訃報
高井 太郎様 1月23日逝去。
高井先輩は終戦後、海150号の航海長で復員輸送をしている時の艦長で、最近水交会の会合でよく顔を合わせていた。今日泉君から知らせて貰い、水交会で確かめたところ、23日入浴しようとして斃れ、そのまま亡くなられたそうである。今月13日の水交会賀詞交歓会にも元気で参加されていたとのことである。
慎んでご冥福を祈ります。
1月28日
この日の戦没者・戦後物故者ともになし。
昨日も特記事項が無かった。
74期の談話室(ブログ)を分析してみた。
開設は平成16年8月で6年半経過している。この間の書き込み数は170,872で、23年1月の投稿者は15名、多い人は13回投稿している。内容は写真入りの各地の風景や近況が最も多く、次に多いのは各地で行われたクラスの会合の報告、そして会員の訃報や近況報告となっている。そして、殆どの記事にコメントが5〜10件つけられている。クラス会の情報伝達の手段として大いに活躍している。
1月29日
この日の戦没者 66年前 昭和20年
高木目出雄(戦303 戦闘機)
台湾西方洋上に向け台湾飛行場発進後消息を絶つ(零戦)
この日の戦後物故者
西口 譲 平成10年 1月29日 逝去
若松 禄郎君の「西口 譲君への弔辞」の↓の記事がある
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-nisiguti-wakamatu1.html
飯田 武二 平成16年 1月29日 1逝去
金枝 健三君の「飯田武二兄の葬儀と想い出」の↓の記事がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-iida-kaneeda1.html
なにわ会HPについて、小生が管理できなくなった時の事を心配していました。
今日左近允尚敏君から、彼が航海長として勤務していて、沈没した駆逐艦「梨」の水雷長で戦死された71期原田盛之様の甥 原田佳明様からのメールを転送して頂いた。
そこで、原田佳明様にメールして次の返事を頂いた。
『ご連絡ありがとうございます。(左近允様とご一緒だった「梨」にて戦死)の甥の原田佳明と申します。
左近允様には平群島の慰霊祭でお目にかかって以来、お世話になっています。
HPの件。なにわ会HPを拝見させていただいています。
71期のHPもそうでありますが、これらのページにある情報は、皆様方がたどった歴史であると同時に、後々の人たちにも残したい歴史的事実であると思っています。
そこで、71期の佐藤清夫様(HP作成管理者)にお願いし、佐藤様が管理できなくなった時点から、私がそのまま引継ぎ、公開させてもらうことを了解いただきました。幸い佐藤様はご健勝でHPを管理されていらっしゃいます。
72期HPに関しましても、同様に、公開を継続させるお手伝いをさせていただければ幸いです。
私の願いは、皆様方がたどった歴史事実を将来的に継続して公開することにあります。
従いまして、HPの内容はそのままで、もちろん費用も必要ありません。
勝手なお願いになりますが、何卒よろしくお願いいたします。
尚、私、松下電器・研究所に25年勤務後、現在HP作成や情報システムサービスなどの
仕事を個人でしております。』
之でHPの管理について安心できるようになった。
1月30日
この日の戦没者 66年前 昭和20年
田中 敬二(戦317 戦闘機)
台湾方面 来襲の敵機と交戦戦死(零戦)
この日の戦後物故者なし。
メールで頂いた年賀を整理して次の3人の記事に興味を認めたので紹介する。
伊藤伸子様(小灘利春君の三女)
当地金沢は暮れからずっと雪で、久々の雪国らしいお正月を迎えております。今後はなにわ会の広報誌はご遠慮申し上げ、ブログを気をつけて拝見することに致しました。長年にわたり、お世話くださること、ありがたく、またご尊敬申し上げております。今まで、なんとなく恐ろしく、一度も「書き込み」というものをしたことがないのですが、今年は、なにわ会ブログで初挑戦させていただくかもしれません。
太田浩二様(太田正一君の甥)
90歳をお迎えになる現在も、益々お元気に活躍される伊藤様のご様子をブログ等で拝見してたいへんにうれしく存じます。昨年10月に欧州航路の船務を終えて休暇下船、大連へ戻っておりましたが、年末12月には名古屋に一時帰国して私の両親共に高松に行き、太田正一の墓参りをしてきました。栗林公園を散歩しながら、当時正一が公園内にあった名士邸宅御令嬢の家庭教師を担当して将来の結婚も約束していたことなどを父省三より聞いて、それでもクラーク基地より飛び立たなければならなかった正一の心を思料させられました。伊藤様にはもっともっと、戦死した方々の分まで長生きしていただきたいと祈っております。
大場幸子様(宮林久夫君の妹)
6月4日の永代神楽祭にはお参りしようと思っています。どうぞ宜しくお願いします。兄久夫は空母 飛鷹 沈没の際、御真影を背負って駆逐艦まで泳いだそうです。(空母「飛鷹」海戦記 志柿謙吉著)にも載っています。宮林の家では両親はじめ皆の話題によくなっていました。昨年10月10日のブログで瑞鶴の御真影を運び出す記事がありましたので懐かしく思い出しました。
(瑞鶴の記事とは足立喜次君がご真影を運び出すことの記事です。)
1月31日
この日の戦没者 66年前 昭和20年
木林 健一(伊12 潜水艦)
米本土太平洋岸交通披壊作戦のため19.10.7 函館出撃以後消息を絶つ(戦死認定)
この日の戦後物故者なし。
昭和20年1月31日、この日私は駆逐艦 「楓」の航海長として高杉敏夫君(経)ともに、「汐風」(艦長 安元至誠元指導官)、「梅」(艦長 大西快治少佐)の3隻でフィリピンからの搭乗員救出とアパリ防衛のための高雄陸戦隊(パトリナオ輸送作戦)のため、台湾の高雄からルソン島最北端のアパリへ向け午前9時出港し、空襲を避けるため24ktで南下した。
午前10時頃敵機1機が水平線のかなたに触接してきた。午後2時までの当直を終わり、士官室で、高雄で仕入れたバナナを食べて休んでいた時、即ち午後3時過ぎ配置につけの号令がかかった。直ちに艦橋に上がるとB‐25とP‐47、P−38の約30機の超低空爆撃を受けた。対空戦闘でこれの迎撃に当たったが、敵弾が前部にあった一番砲にあたり、前甲板、艦橋付近は大火災となった。一期先輩の松崎弘栄砲術長ほか便乗者を含め54名が戦死した。同航の駆逐艦「梅」は3発の被弾で航行不能、「汐風」の砲撃により自沈処分、「汐風」は無傷であった。楓は乗員の懸命な努力により火災は鎮火したが、舵取装置が故障し、人力換舵で翌2月1日午前2時やっとの思いで高雄に帰投した。
なにわ会名簿
先日作成したなにわ会名簿(B5判)を縮小してA5判で作成された名簿を山本省吾君から50部送って貰った。
使いやすい名簿になっています。、手製印刷、手製製本で極めて安く出来るので(1冊25円程度)なにわ会だより第4号に同封して配布したいと考えている。なにわ会だより第4号希望者207名に送って5000円程度で済みます。