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平成22年4月27日 校正すみ

朝霧に消えた白い手袋


豊住和寿の母 豊住シズ

「海ゆかば水つく屍 祖国日本よ栄えあれ」と昭和二十年一月二十一日午前五時ごろ、ウルシー湾の米軍泊地に突入し、南の海の底深く還らぬ人となった一子 和寿 の二十一年の思い出をここに綴ります。

西南戦争で有名な熊本城を北に仰ぎ、西には金峰山花岡山がすぐ目の前に広がる森の都″、強豪を誇る第六師団司令部の所在地尚武の都″熊本の、魚屋の長男として和寿は駄々の声をあげました。両親はやっと軌道に乗りはじめた商売に忙しく、幼い子の面倒は、ほとんど祖父母にまかせきりでしたが幸い病気もせず、三歳の髪おき、四歳の紐ときと、すくすく育ちました。
 六歳の時でした。熊本では昔から招魂祭が行われ、町中総出で道も通れないほどの賑わいぶりです。そのころ、子供の自転車は熊本でも、まだあまり数多く見られませんでしたが、その子供自転車の競争が、町の催し物の一つとして行われました。

 参加したのは和寿を含めて三台だけ。相手はみな年上の大きな子供でしたが、和寿は一生懸命にペダルをふんで、最後まで頑張りました。もちろんビリッコでしたが、それでも、生まれて初めて頂いた大きな賞状に大満悦で、小さな胸をはずませておりました。あのときの可愛い姿が、今でも目に浮かびます。

 環境に恵まれた小学校生活も、軍人気質の強い土地柄からか、幼い和寿の胸には、大きくなったら立派な軍人になるんだという、希望の芽がはぐくまれていったようです。小学校も高学年になったころは、何としても陸士、海兵への進学率の多い済々黌に入るんだと、口ぐせのように申しておりましたが、六年生になると、ひとの二倍も三倍も勉強するようになりました。

 担任の吉岡先生に励まされ、級友と遅くまで教室に残って勉強し、さらに夜は夜で、二キロほど離れた水道町の従兄の家に行って、眠い目をこすりながら、受験前夜まで頑張りぬきました。終るのが毎夜十一時ごろ。電車の便もないところで、一人では帰りが淋しかろうと、私は毎晩歩いて迎えにゆき、肩を並べて戻ってまいりました。

 そんな一途な姿を見ていると、ほんとうにいじらしくて、いじらしくて、「どうぞこの願いをかなえてやって下さいまし」と、神仏に毎朝毎晩手を合わせ続けたことでした。

合格発表の当日、首尾良く合格≠フ電話連絡をうけた和寿は、受話器を置くなり、「やったぞ!」とばかり両手を二、三度高く振り上げて、文字通り欣喜雀躍(じゃくやく)いたしました。子供ながら、つぶさに苦しみを味わった後の、満ち足りた誇らしげな勝利者の顔、あの晴ればれとした表情は、いまも私の眼底(まなぞこ)に焼きついて離れません。

  こうした小さいころからの努力が、海軍機関学校への入学、そして回天特攻隊員としての出撃へつながって行ったのだと、つくづく感じます。

 済々黌入学の日、小さい身体にカバンを背負い、ゲートルを巻いて革靴をはき、黄色い線の入った学帽のひさしに手をあてて、挙手の礼をしたおどけた格好  もう、幸福そのもので、厳しい父親もこの日ばかりは、よい息子を持った喜びで、顔中をほころばせておりました。

 四キロほどもある通学は、徒歩で通しました。たまに朝遅くなると、「走っていけ′」と、父親にどなられます。 甘い母親の私は、「それではつらかろう」と、かげでこっそり電車賃を渡してやったこともありました。

 学校恒例の兎狩りの日には、遠くから通学している友だちが、前夜から宅に泊りこんで、まだ明けきらぬ空の星を仰ぎながら、みんな大張り切りで出かけて行きました。

 元来、無口な方でしたけれど、案外、友だち付き合いはよいらしく、何かといえば、よく友だちが訪ねてくれて、二階で話したり、一緒に勉強したりしておりました。それが私はうれしくて、妹たちと代わるがわる果物やお菓子などを、いそいそと運んだことでした。

 中学二年、三年と上がるにつれて、陸士、海兵、幼年学校など軍関係の学校にパスした人たちの送別会が続き、和寿も「今度はぼくの番だ」と、いよいよ受験準備にカコブを入れてゆきましたが、父親からも「お前も早く送られるように頑張れ」と励まされ、海兵、陸士に的を絞って猛勉強をはじめました。

 当時すでに日支事変が起こっていて、日本軍の勝利が続々と報ぜられ、町中は旗行列、提灯行列の連続で、兵隊さん万々歳です。和寿も友だちも集まればその話で、「何が何んでも軍人にならねば……」という覚悟を、いよいよ高めて行ったようでした。

 昼間は学校の軍事教練で教官に鍛え上げられ、ヘトヘトになって家に帰ってからも、文句一つ言わずに時々は店の集金や配達を手伝い、そのあと睡魔と闘いながらの受験勉強で、傍で見ている私が切ないほどの肉体酷使ぶりでした。

 いよいよ海兵入試  運を念じて帰りを待ちました。少し遅すぎると、みなで心配しているところに帰ってまいりましたが、「残念ながら、目がいけなかった。それで海軍機関学校に行けと勧められたので、試験を受けてきた」とのこと。本人が望むなら、それでもけっこうと、よい知らせを待つことになりました。

 昭和十五年十一月三日めでたく海機合格の電報を受け取り、親子みんなで喜び合ったことです。小学校から中学、そして中学五年半ばで、やっと希望が叶えられました。これはひとえに本人の努力の賜でしたが、その後ろに、父親のつねに厳しい愛の鞭,友だち同志の励まし合いのあったことを忘れるわけにはまいりません。                  

 いつも集まって″夢″を語り合っていた人たちも、それぞれ陸士、海兵へと望みを果たして進んで行かれました。十一月二十五日、機関学校入校の前にわが家へお招きし、心ばかりの送別会を催しましたが、皆んなハチ切れるような元気はつらつぶりで、たいへん楽しく賑やかに一夜を過ごしていただきました。今にして思えば、これが皆さんとの″最後の宴″だったわけです。

 十一月二十七日、和寿は父親と連れ立って、京都・東舞鶴の機関学校へ胸ふくらませて発って行きましたが、そこでまた厳しい身体検査を受け、正式に入校が許されました。晴れがましい入校式に参列した父親は、鼻高々で戻ってくるなり、厳粛の気あふれる入校式の模様から、学校のあれこれなどを披露におよびましたが、開くことのすべてが珍しく、家のものも親戚のものも、喜びは言い尽くせませんでした。初めて家を離れた息子の無事を祈り、元気な便りに安心しては、励ましの手紙を書き送ったことです。

 月日のたつのは早いもので、すぐ一年間が過ぎて、和寿は正月の休みに帰省してまいりました。一年ぶりに見る息子は、何か一回りも二回りも大きくなった感じで、わが子ながらたのもしく思われます。きびきびした軍人口調で語る学校生活の話など、いくら開いても開き足りない心地です。とにかく、息子の傍にいることがうれしくてうれしくて、帰省当夜などは、時間のたつのもわからなかったほどでした。

 だが、休暇もまたたく間に過ぎて、和寿はまた学校に戻って行きましたが、家族思いの和寿は、祖母をはじめ妹や弟にも筆まめに便りを寄せてくれました。ことに妹寿子の女学校入試の折りには、「しつかりやれよ」と、入試心得みたいなものまでそえて、励ましの便りを送ってまいりました。

 同じ歳の従兄の隆とは、幼いころから兄弟同様の仲よしでした。隆は和寿が海機入校の翌年春、中学卒業と同時に少年義勇隊員として渡支いたしましたが、間もなく風土病に倒れて、惜しくも選らぬ人となってしまいました。和寿の嘆きを想像すると、何んと知らせてよいものやら、ついつい書きそびれているち、どこかよそから知らせを受けたものとみて、次ぎの帰省で帰ってくるなり、隆の写真を見つめて、黙って泣いておりました。最も身近な話し相手を失った無念さに、耐えられなかったのでしょう。その気持ちを察して、私ももらい泣きしてしまいました。

 やがて大東亜戦争も次第に激しさを加え、国民総決起のうちに海機卒業式の案内を受けて、昭和十八年九月十三日私たちは次男和史を伴い、親子三人で京都に向かいました。十五日、晴れの卒業式に参列させていただき、生涯に幾度とない感激と光栄をおぼえました。

 在校中いろいろとお世話になった佐藤大佐様のお宅にもお邪魔し、その帰りには水交杜にご案内いただいて大変なご馳走にあずかりました。和寿も佐藤様のご親切ご教導に深い感謝の念を抱いて、遺書にも「どうぞよろしく」と書き残して行ったほどでした。佐藤様ご夫妻がどうぞご健在であらせますよう、かげながらお祈りしている次第でございます。

 十六日早朝、宿を発って帰途につきましたが、これが縁といぅものでごぎいましょうか、和寿たちも同じ汽車で、広島の新しい転属先に赴任して行ったのです。車中では何回も私どものところにやってきて、笑顔を見せてくれました。汽車が広島に着くと、和寿は私どもの車窓にきて別れを告げ、汽車が消えるまでプラットフォームに立って見送ってくれました。真っ白い軍服に短剣を吊った凛々しい若武者ぶり、そしてやさしい別れの言葉は、私の記憶の底に残って消えません。

 その後の便りは、「元気で張り切っているから安心して下さい」とのことで、たがいに健康を祈り合っておりました。父親には、自分の吸わない恩賜の煙草や、宮島の徳利、盃などを送ってくれましたが、それらの品々はいまも遺品のうちに加えて、たいせつに保存いたしております。

 忘れもしない十九年十一月三日の夜九時ごろでした。店で片つけものをしていた私の背後で足音がしました。振り返ってみると和寿です。いつもなら「ただいま!」と、大きな声をかけて入ってくるのに、そのときは声もかけてこないのです。母親の勘とでも申しますか、私は瞬間、背筋に冷たいものの走るのを感じました。

 部屋に坐ってからも、妙に口が重い感じです。その夜は祖母の側で、翌晩は私の側で休ませました。私は話したいことがいっぱいあるのに、一言もいえず、ただ寝もやらずに、その寝顔を眺め明かしました。

 父にも私にも、何も変わった話はいたしませんでしたが、私はそのつい先日、同じ海機のお友だちのお母さんが訪ねて見えられた際、特攻隊のことを開かされていたのです。和寿ももしやそれでは……と感じましたが、明らさまにたずねることもはばかられて、ただ口を閉じているばかりでした。

 家を発つ前日は、散髪に行ってサッパリとし、近所の方々をお呼びして、宅で少しばかりのご馳走をいただきました。その席でも、息子の話は海軍生活の珍談奇談や、舟に乗っているとき魚をとって、自分で料理して刺身を作ったといったぐらいのことでした。

 十一月五日朝五時、いよいよ出発です。私たちは晩秋の冷たい街を通って、防空暗幕の垂れこめている熊本の駅まで見送りに行きました。その当時はすでに、プラットフォームに多勢の見送り人が入ることを許されず、ただ父親一人だけが行くことになりました。汽車が着くまでの時間、私は息子に言いたいことが山ほどあるのに、一言もしゃべれず、じつとその手を固くにぎりしめているだけでした。やがて列車の到着時間が迫りました。私どもは最寄りの踏み切りで列車を見送ることにして、和寿にそれぞれ別れを告げました。そして、最後にやっと私が言えた言葉は、「安心して征っておいで」   ただこれだけだったのです。
 踏み切りで身ぶるいする気持ちで待っているうち、和寿の列車がやってまいりました。和寿の白い手袋の挙手姿が、あっという間に眼前をかすめ去りました。だが、その白い手袋は、列車が冷たい朝もやのなかを速く消え去るまで、いつまでもいつまでも打ち振られておりました。

 家に戻って、まだ息子の体温が残っている布団をたたもうとすると、その布団の上に「父上様」と記した封筒が残されてありましたが、それには「八日以後開封下されたし」と、但し書があります。瞬間、これは何か大変な任務につくのだな、と感じました。父親はさすがに「我が意を得たり」といった、泰然たる表情を保っていましたが、内心では、「ついに来たるべきものが来た」と、悲しくも覚悟のホゾを決めたようでした。だが女親の私は、もうオロオロしてしまって、その日から八日まで、何も仕事が手につかない有様でございました。

 そして十二月八日朝、形を正して封を開き、初めて和寿が特攻隊員として決死行についたことを知りました。護国の決意に燃えた信念の言葉、私ども家族に対する温かい思いやりの情―私はその遺書に声を放って泣きましたが、主人の「日の丸を掲げよ、赤飯をたけ」という強い言葉が飛んでまいりました。すぐそれにかかりましたが、日の丸の赤も、小豆の赤も、みな眼のなかにうるんでしまって、涙をかくすのに苦労したことです。

 その夜から私は毎晩、物干台に上がってお月さまに、和寿の武運長久を祈り続けました。決死隊とは言い条、万が一にも見事任務を果たして、無事生還できることもあろうかと、一心不乱に手を合わせたのですが、同時に、熊本駅での別れの言葉、「安心して征っておいで」の言が、今さらのよう悔まれてなりませんでした。悠久の大義に燃えて、二十一歳の若い生命を断ち切るべく、決意を固めた息子に対し、なぜもっと母親らしい、いや、もっと人間らしい言葉がはなむけできなかったのか、私は自分のおろかしさに泣きました。
 後にわかったことですが、和寿は回天特攻隊金剛隊員として、
二十年一月九日伊四八潜に搭乗、一月二十一日ウルシーの米軍泊地に突入して戦死をとげました。その直後に戦死の報が海軍省から新聞紙上に発表され、新聞記者の来訪によって初めてそれと知ったわけですが、そのとき私は宅からすぐ近くの実家まで、泣き泣き走って知らせに行ったものでした。
 だが、海軍省からはなかなか戦死の公報が入らず、正式に届
いたのは二カ月後の三月二十六日。ちょうど私は市場に行っていて、留守番をしていた祖母が受け取りました。木蓮の花が、苛烈な戦争を知らぬげに、ゆたかに咲き群れている午後でした。それから間もをく、白い遺骨箱が送られてまいりましたが、そのあまりの軽さに、また涙を誘われたことです。

 遺品類は和寿生前の手紙では、八木さんという後輩の方に発送をお願いしたということでしたが、いろいろ事情で遅延重ね、終戦後一年ほど経ってから、お届けいただくことになりました。頑丈なビール箱のなかに、軍服、短剣をはじめ、いろいろな遺品がびっしり入っておりましたが、一番上にあったカバンの中から、きれいな日本紙に包んだ生爪が出てきました。まだ血の色もあぎやかに残っていて、これが一年前のものとは思われないほど生々しいものでした。何かのはずみで剥いだものか、或いは最後の形見に残したものか、書き置いたものは何もごぎいませんでしたが・・・・
 それともう一つ、激しい軍務の間に、書きためた感想文集み
たいな帳面が出てまいりました。若い生命をお国のために・・・・と散らしていった若者らしい、純粋な折々の感想にまじつて、子供のころや少年時代の思い出を綴ったものもありましたが、そのなかに「母親の愛情ほど、うれしいものはない」の一行がありました。「安心して征っておいで」の一言が悔まれていた私でしたが、この一行を読んで何か急に目先が明るくなったように感ぜられました。

(「回天」より転載TOPへ     戦没目次