平成22年4月28日 校正すみ
豊住和寿兄を想う(再度の出撃と手紙)
橋元一郎
1 海軍に憧れて、それなりの覚悟をもって入校した九州南端出身の私は、学校生活に慣れるのにとまどっていた。
そんな中で、いつ知らず豊住兄に親しみをもつようになった。熊本済々黌出身の彼は、いつも自然体で無愛想にみえたがなんとなく心がとけあえるような雰囲気をもっていた。
三号になって彼と同分隊(4分隊)になった。彼は無口ではあるが気性は強く頑張りやで体育訓練などにも十分にそれを発揮していた。そして親密度は深まり談らなくても分かり合えるような、一緒に居るだけで心が休まるような男であった。
2 卒業後、彼は熊野、私は金剛乗組となり、以後彼が最後に回天で出撃する直前まで会う機会はなかった。
ところが私は、海軍少尉候補生 豊住和寿の名刺を持っている。「熊野乗組」「祈御健闘 橋元候補生」と自筆している。
どこでもらったか思いだせない。おそらく近くに居るという動静が分り、誰かに託して彼の気持を伝えてくれたものと思う。友情をしみじみと感じ大事にしている。
3、その後、彼は第11期海軍潜水学校普通科学生となり、私はすれ違いに彼の卒業後昭和19年9月5日、第12期同学生となった。そして豊住兄は、村上・福田・都所・川崎諸兄とともに人間魚雷の特別訓練中であることを知ったが会えるという状況ではなかった。
4 豊住兄は第1次玄作戦菊水隊(最初の回天出撃)として昭和19年11月8日、伊36潜で内地を出発しウルシー泊地攻撃に向った。なお、同日村上兄は伊37潜で、福田兄は伊47潜で出発し、帰ることはなかった。
伊36潜の回天4基のうち3基は故障のため発進できず、豊住兄は11月29日呉に帰投した。このことを我々は知る由もなかった。12月はじめ、我々潜校学生は呉で彼と偶然会った。久しぶりに会って万感胸に迫るものがあった。私達は事情を察することができた。
豊住兄は、いつもの通り自然体であり、口数も少なく具体的な話しはしなかった。
皇国のため必殺・敵艦に体当りして帰らない時限・決定的である死と対して戦い修養して心を定め実行した男。
故障で発進できなかった無念を晴らさんとして又征くであろう男。
彼は一段と心の高いところを通った、崇高な男にみえた。
国を護らんとする思いは同じでも、回天乗組員の境地に現実に至っていない私には、そう思えた。
そして、いずれ続く者として思い切って彼に聞いてみた。
「出撃するときの思いはどうであったか」
彼は言葉少なに答えた。
「故国は美しかった。この国を護らねばならないと思った」と
それ以上聞くことはなかった。
南下して豊後水道を後にするころ、右側に熊本がある。彼の国を思う、家族を思う心をひしひしと感じた。
静かに呑んでお互いの健斗を誓い合って厳粛な気持で別れた。
(注)ご母堂の思慕録によれば、11月3日夜それとなくお別れに帰宅している。
5 昭和20年1月15日の潜校卒業を間近にひかえた或日、豊住兄から封書が届いた。
1月3日付で内容は次の通りである。
『昭和20年の新春を迎え、いよいよ敵撃滅の覚悟を固め、再び出撃する、再会の機会なし。昨年12月初頭、呉にて諸兄に会えるが最後ならん。あの時ほど楽しきことなし。諸兄の御健闘を祈る。小官の写真を記念に同封する』
豊住は遂に再び征くか、涙をこらえることはできなかった。後で分ったことであるが、彼は回天特別攻撃隊金剛隊として伊48潜で1月9日出発し1月21日、ウルシー泊地に突入、再び帰らなかった。
22歳、尽忠の士 海軍少佐 豊住和寿
出撃を目前に、あの大津島基地で記してくれた手紙は、彼の片身として先の名刺とともに大切に保有している。感慨は深い。
我々は潜校卒業後それぞれ潜水艦乗組となった。
6 平成2年10月18日、第53期入校50周年記念式及び慰霊祭が舞鶴の母校で行われ、豊住兄の御令弟和史様が参列された。
親しく話すことができず残念であったが亡兄の心を最も理解され、立派にご遺志をうけつがれていかれるものと確信します。
(機関記念誌75頁)