平成22年5月4日 校正すみ
大谷君の想い出
後藤 寛
大谷君とは姫路中学の同級生であるが、中学時代は組も違っていたので個人的な交際はあまりなかったと思う。
大谷君と個人的な交際が多くなったのは、終戦後、姫路に帰省してからである。将来どの方面に進むかをきめるために、お互いに話合いをすることが多かったが、五軒屋敷の大谷家へもしばしば遊びに行った。
五軒屋敷は姫路城の東南にあり、町内に五軒の邸宅しかない姫路藩の要職の邸宅地である。大谷君は早くから大学の法学部に進学することを決めていた。おそらく長兄英一氏(関西学院大学法学部教授)の助言によるものと思う。
私は自然科学系に行きたいと思い独学で勉強をしていた。当時理系の専門書の入手は非常に困難であったが、大谷君が親爺の本が蔵に沢山あるからといって案内してくれた。多くの物理学の専門書が所蔵されていたが、その一部を拝借して勉強し、その結果物理学を専攻しようと決心して、京大物理学科に進学した次第である。父君の大谷亮吉氏は東大物理学科明治31年卒の地球物理学者であり、とくに大正6年に刊行された約千頁の名著「伊能忠敬」により忠敬を世にしらしめた方である(現在この本は佐原の忠敬資料館に展示されている。英訳本もあり最近岩波書店から再版もされている。この著書については、なにわ会ニュース59号に泉五郎君が非常に面白い記事を寄稿しているので参照されたい。)
大谷君は世話好きで、姫路中学クラス会の幹事役であり、また後進の指導にも熱心であった。姫路中学出身で海軍三校出身者の会である姫中ネイビー会の東京地区の最先任者で、必ず熱心に出席し楽しい有益な雰囲気を作ってくれていた。体調を崩したため昨年から出席出来なくなったのを残念がっていたが、その状況をいつも電話で聞いてきていた。昨年の大晦日に電話で「後をよろしく頼むよ」といって長電話をしてくれたが、これが彼との姫路弁での最後の会話となってしまった。
心より冥福を祈る。
(なにわ会ニュース100号128頁 平成21年3月掲載)