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平成22年4月29日 校正すみ

吉本健太郎君とのつかの間の縁(えにし)

     小平 邦紀(七十期)

 城島氏の回想は昭和十四年、当時朝鮮の平壌中学に在学した吉本青年と小学三年生であった城島少年との出会いから始まる。それから時は流れ、吉本君は昭和十八年九月海兵卒、当時横浜に転居しておられた城島家を訪れた凛凛しい軍装姿の吉本君の印象へと筆が進んでゆく。

城島氏によると吉本君は卒業後、高雄・長門に乗組み、マリアナ沖海戦等に参加後、十九年夏、回天部隊に配属され、大津島に赴任となっているが、実はその前に、短期間ではあるが、伊三六六潜艤装員として着任し、ここで小生との束の間の縁が生まれたのである。以下このことについて、故人の追悼を兼ねつつ思い出の一端をつづってみたい。

 昭和十九年六月伊一五五潜(潜校練習艦)航海長兼分隊長(先任将校)だった私は、十日付で伊三六六潜艤装員を拝命し、神戸三菱造船所で艤装中だった同艦に着任した。それから間もなく六月末頃かと記憶するが吉本君が着任した。潜水艦勤務が始めての彼は、早く一人前の潜水艦乗りになりたいと熱心に艤装業務に取り組んだ。私は若く元気溌刺とした頼もしい後輩を得て、弟のように思い、乏しい経験ながら二年間にわたる体験(伊一〇潜で砲術長、伊一五五潜で航海長)を惜しみなく披歴し、特に伊一〇潜での南太平洋・インド洋等における実戦談等も語り、近く再び第一線でともに戦う日を夢見て、互いに切磋琢磨する日々を重ねた。

 やがて、艦の艤装も順調に進み、八月三日竣工引渡しとなり、私は航海長兼分隊長(先任将校)に、吉本君は乗組(砲術長)に正式発令された。その後、若干の手直し工事等を済ませ、同月中旬呉に回航、内海西部で出撃訓練に励む運びとなった。いよいよ第一線に出る日も近づいて「お互いしっかり頑張ろう」と確かめあつたものである。

ところが、ここで吉本君に転勤の発令がきたのである。辞令はたしか(呉鎮付)だと記憶するが、この突然の転勤命令には、何故だ]と、憤りにも似た感情に駆られ、全く腑に落ちない人事であつた。結局後任には同期の角田慶輝君が着任し、出撃訓練を終わった艦は七潜隊に編入され、同年十二月のマリアナ群島パガン島と翌二十年一〜三月のトラック・メレヨン島へと二つの作戦輸送を完遂したところで、私は転勤となり、後事を角田君に託して退艦した。

 しかし、戦局はいよいよ逼迫して、回天特別攻撃隊の登場となり、十九年十一月の菊水隊を先陣に、年が明けて金剛隊、千早多々良隊と敵主要泊地乃至は敵来攻海域に次々と必死の攻撃が続けられた。やがて、その中の金剛隊の一員として吉本君がウルシー泊地攻撃で散華したことを知り、あの突然人事について「そうであったか・・・」と納得めいた思いを持つことが出来たのである。

 ここで、吉本君の回天特攻の足取りを辿ってみよう。まず、第一陣の菊水隊は伊三六・四七・三七潜の三隻で確成され、それぞれ四基の回天を搭載、十九年十一月八日大津島を出撃、伊三六・四七はウルシー泊地へ、伊三七はバラオのコスソル水道へと向った。攻撃実施予定日は同月二十日であった。吉本君は伊三六潜に乗組んでいたが、攻撃当日三基の回天が故障のため発進できず、わずかに今西太一少尉(慶大・経済)の一基が発進したのみであつた。先任搭乗員であつた吉本君はさぞ悔しかったことであろう。残る三基は再挙を期して内地に引き返した。

 年が明けて、吉本君は金剛隊の伊四八潜の先任搭乗員として、一月九日大津島を出撃、再びウルシーに向った。攻撃予定日は二十一日であつたが、出撃以後連絡を絶った。

戦後米側の資料によれば、二十一日航空機に発見された同艦は三隻の駆逐艦から二十三日まで執拗に攻撃され、最後は水中大爆発で終わったという。回天の猛訓練に精進し、戦局転換への闘魂を燃やした二回の出撃もかかる悲劇に終わった吉本君の心中は誠に察するに余りあり、さぞ残念だったであろう。また、この時、同艦の航海長であったわがクラスの安藤喜代太君も艦と運命を共にしている。発表では伊四八潜は回天発進後に撃沈され、発射された回天が戦果をあげたとされているが、残念ながら発射前に発見撃沈されている。    

 当時の回天作戦はいずれも多大の戦果を挙げ、爾後の作戦に寄与するところ大なりと、その都度GF長官から感状が出されているが、戦後の調査によれば予期したほどの戦果は挙がっておらず、むなしい結末に終わったようで、あらためて多くの俊秀を失ったことは本当に痛恨事であつた。

 吉本君が出撃に当たり残した辞世の歌が残っているので紹介する。

 

辞世の歌 出撃に当たり

    回天特攻隊 吉本健太郎

一 激浪海に逆巻きて  暗雲空をおほふれど

  遠く浮かべる山々も いつしか波に消えゆきぬ

二 別離の情はつきねども 尽さでくすやまじ丈夫の

心は赤き火と燃えて  瞼に浮ぶまぼろしの

 激しき風に打たれつつ  吾が艦を追う鴎あり  

瞼に浮かぶまぼろしの  仮の姿とおぼえけり

四 悠久ここに変わらざる  祖国の栄を思ふとき

  若き命の捨石と   散りて悔なき吾が身なり

 

私は神戸在勤中、同市長田区の平田さんのお宅に下宿していた。父君は小学校の校長先生、ご長男は海軍の軍医科士官でブーゲンビル島に、次男の方は陸軍軍医で満州にそれぞれ出征中であつた。奥様は「自分の息子が帰ってきたような気がする」と喜ばれ、年頃の二人のお嬢様と三人で親身になって下さつて、温かく明るい家庭生活を堪能させてもらい楽しい思い出となっている。この家には吉本君も紹介していたが、私が去った後、出撃前の休暇には彼も平田家を訪ねてお世話になったことを戦後知らされた。当時ご家族は朝鮮におられて、近くに親しい身内もいない彼としては、束の間の憩いの場を平田さんの家に求めたのであろうと涙をそそられる。その平田家の皆さんも既になく、今はそのときの話を聞くすべもない。

 私が徳山コンビナートにある信越化学鞄陽工場(ここからはすぐ近くに大津島が望見される)に在勤中の昭和四十三年十一月二十日、大津島に完成された回天記念館の竣工式と慰霊式典が盛大に挙行された。この記念館建立にあたっては、当時日新製鋼徳山工場次長だった六十四期の渡辺 久氏が、完成するまでは好きな酒・煙草を絶つことを誓って当たられたほどの情熱を注がれて完成したものであった。この日は吉本君のご令兄喜郎さんも出席され、遺族代表として挨拶された記憶が残っている。

一方、二十年三月に私が退艦した後、輸送潜水艦だった伊三六六潜も、戦勢の凋落により、急遽回天搭載艦(五基)に改造され、強敵に立ち向かうことになった。最大速力わずか十三節の低速輸送潜水艦、これは正に荷物運搬用のひき馬が、サラブレットの群がる競争場裏に投入されるようなもので、悲壮そのものとしか言いようがない。改造後、内海で訓練中触雷して出撃は遅れたが、二十年八月一日内海西部発、沖縄−ウルジ間の洋上で索敵中、終戦直前の十一日、敵の大船団と遭遇、三基の回天が発射された。隊長は七十三期の成瀬謙治中尉だった。その時も輸送船轟沈と報告されたが、戦後海上自衛隊に入隊した角田慶輝君が調べたところ、「やはり沈んではいなかつた。」と述懐している。

 その角田君も平成十二年四月に亡くなり、後輩の弔辞を私が読むという逆順の切ない巡り合わせとなってしまい、当時の伊三六六潜の士官室メンバーは私一人になって、共に往時を語る相手もいない。今は、ただ、ひたすら吉本・角田両君のご冥福を祈って筆をおく。

(なにわ会ニュース90号18頁 平成16年3月掲載)

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