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平成22年5月2日 校正すみ


飯盛への弔辞

金枝 健三

飯盛、よく頑張って呉れました。私達海軍機関学校のあの頑張りの精神を、貴方は最後まで発揮して呉れました。本日、ここにご参列の皆様には、故人を飯盛と呼び捨てにするこの弔辞に、奇異を感じる方も居られるかと思いますが、私達海軍のクラスメートには、「さん」とか「君」の敬称を付けると、(かえ)って飯盛が飯盛でなくなる様な思いを持って仕舞うのであります。ここに、皆様のご理解を得て、本日は飯盛と呼び捨てにする事をお許し下さい。

飯盛、貴方は福岡随一の名門の旧制中学「修猷館」から、昭和15年12月1日、当時あこがれの舞鶴の海軍機関学校に第53期生徒として入校、ここで第3分隊の四号生徒として、初めて貴方と私は出会うことになります。しかも貴方は四号生徒の先任として、7名の私達同期の先頭に立つ立場でした。最上級の一号生徒からの厳しい叱声にも動ぜず、常に沈着冷静に対応する頼もしい先任でした。しかし大変な苦労があったと思います。三号、二号、一号と進級して、再び同一分隊になったのは、縁があったと申すより言葉がありませんが、貴方は生徒次長として新入生徒第55期の教育、指導に当っていた、あの張り切った姿が目に浮かびます。

機関学校を卒業後の貴方は艦船勤務、私は飛行機整備と戦う場所が異なり、出会う機会はありませんでしたが、青年将校として神州不滅を信じ第一線に立った私達が、海軍大尉に進級した3ヶ月後の昭和20年8月15日の終戦を知った時の驚きは、言葉では言い現せません。敗戦の屈辱よりは死をと、一旦は思いましたが、思い止まり、屈辱を乗り越え、戦死したクラスを思い、戦後の復興に生き残った私達は、あの破壊され、混乱した世相の中をただただ突き進みました。貴方も昭和23年、九州帝国大學に入学、法律を学び、神戸銀行に入行後はエリートの道を歩まれ、更に神奈川機器工業株式会社に転じて、専務取締役として経営の重責を担い、会社発展に全力を尽くされました。あれは何年頃でしたでしょうか、貴方の運転する車で丹沢の山の中の施設へ、級友を見舞いに行った時の事、あの時は定員オーバーでハンドルが重く、山道が大変だったでしょう。また、葉山國際でボールをスライス、フックと左右に曲げて苦労したゴルフの事など、元気で動き回ったあの頃が懐かしく思い浮かんで参ります。それにしても、お見舞いの折の奥様の献身的な介護、看病の姿にはただただ頭の下がる思いが致しました。飯盛は奥様に頼りきっており、奥様は毎日の病院通いで、大変なお疲れであったろうと思われますのに、常に笑顔、且つテキパキと彼に接し、夫婦愛の深さを見せてくれました。飯盛はどんなにか奥様に感謝していたか、私の心に伝わって来るものがありました。

飯盛、これからは どうかあとに残られた最愛の奥様を始め、秀一さん達ご家族の方々を天上からお護り下さい。そして、あちらには 太平洋戦争で戦死した57名の級友、更に戦後亡くなった22名の級友も貴方を迎えて呉れる事でしょう。あちらでまたクラス会を開いて下さい。本当に頑張ってくれました。これからはゆっくりとお休み下さい。ご冥福を祈りながら、

最後の「さようなら」を申し上げます。飯盛 さようなら      合掌

 終りに もう一言。

飯盛、この弔辞はパソコンで打ちました。巻紙、毛筆で書かねばと思いながら、毛筆は最近頓に苦手になり手抜きを致しました。ご免なさい。

 飯盛なら、あの笑顔で「ウン」と(うなず)いて、OKを出してれますよネ。

飯盛への私の最後のわがままです。ご免なさい。では もう一度 さようなら。

 平成15年1月24日

 海軍機関学校 第53期 代表

 (なにわ会ニュース89号13頁 平成15年9月掲載)

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