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平成22年5月4日 校正すみ

大谷友之君を偲んで

渡邉 望

 なにわ会の最終靖國神社参拝クラス会に大谷君が顔を見せなかったので、6月6日自宅を訪問したところ、酸素ボンベを引っ張っていたが元気な姿で玄関に現れた。相変わらずの毒舌で、「俺に頑張れという奴がいるが、何を頑張るのかと言いたい」といっていた。

 その後、7月12日泉五郎君を案内して再度見舞いに行ったのが最後の対面となった。

 本年に入り、1月20日様子を尋ねようとして訪問したところ、奥様が玄関先で18日に亡くなりましたと申され、呆然としました。

そして、次のような故人の固い意志を聞きました。

「葬式は家族のみで行うこと、葬儀が終った後、なにわ会伊藤正敬君に通知すること、それまで一切他言無用のこと。遺体との対面、お別れを一切断ること。」

 やむなく、持参した見舞品を霊前にお供え下さいとお願いして退散した。病名は肺気腫とのことである。

 大谷君との出会いは昭和19年3月新造航空母艦大鳳乗組みを命ぜられ、大谷君は戦艦扶桑、小生は戦艦山城から着任した時である。大谷君は通信士、小生は見張士として、3月末出撃、シンガポール南方のリンガ泊地に向った。

 マリアナ海戦で、6月19日大鳳は敵潜水艦の雷撃を受けた後、大爆発を起こして沈んだ、この時同期生の藤井伸之君、大谷友之君と小生の3名は駆逐艦磯風に助けられ生還したが、田 功君と高木滋男君は戦死した。

 戦後、昭和44年に大鳳会が結成され、それ以来毎年靖國神社で戦没者慰霊祭が行われ、会長の菊池朝三艦長の意向でガンルーム士官が世話役をやることになり、大谷君はその中心として活躍した。平成15年6月9日35回で終り、その後会友藤瀬韶国画伯に大鳳の絵を書いて貰い靖國神社に奉納してすべての行事が終った。

 この様に大谷君は面倒見のよい男であって、なにわ会では、戦後の混乱期にクラス会名簿の編纂(さん)に係り、初代名簿係として会の運営に寄与してくれた。

 湘南CGCのゴルフでは、共に身体障害者の身として負ける訳にゆかず、何時も大谷君のスコアを気にしてプレーしたことを想い出す。

 住居が東戸塚駅に近かったので年に何回と会っていた間柄、彼が他界したことはさびしい限りである。

ご冥福を祈ります。 合掌

(なにわ会ニュース100号127頁 平成21年3月掲載)

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