平成22年5月13日 校正すみ
西口 譲君への弔辞
若松 禄郎
謹んで故西口譲君のご霊前に捧げます。君は4人兄弟の末弟として、三重県伊賀に生れ育ち、上野中学校を優秀な成績で4年修了、最も若くして昭和15年12月、当時難関と言われた海軍兵学校生徒として入学しました。
互いに詰襟姿の童顔そのものであり、1ケ月の入校教育を受け、初めは、皆等しく体重を減らしたものです。1ケ月後には食事・環境にも馴れ、体調も復原し、聊か頼もしくなったと思います。
それから2年10ケ月勉学・猛訓練に耐え身心共に鍛え上げ、昭和18年9月風雲急を告げる秋に兵学校を卒業しました。
君は飛行学生へ、私は艦艇部隊へと略半々に配属を拝命し、2ケ月間夫々の訓練勤務を終えて東京に集合。11月末、天皇拝謁その他行事、以降は相まみえることなく散開し、夫々の任地へと赴いたのであります。
兵学校における貴兄との出会い、学校生活の一部を振り返ってみたいと思います。
「本日未明、米英その他と交戦状態に入った」と、その旨達せられた。続いて草鹿校長から「生徒の本分は常に不変である。今までと同じように勉学せよ」と、だけ諭されたのであります。以降教課の中では、外国語が英語一本になり、時間数が二倍に増えた以外に何も変らない生活でありました。併し皆夫々緊褌一番勉学に励む覚悟を固めたのであります。
この二学年の1ヶ年は、一学年生徒を迎え彼等の面倒も見、海軍に馴染む日常のサポーターでもありました。又、独自に研鑽を重ねる好機でもあったのです。ここで何でも話合えるクラスメートはほんとうに有難かったと思います。この頃、君も人の上に立つことを真剣に考え始めていたことを思い出します。第一線に出てからも率先垂範部下思いであったことと思います。
兵学校生活では、月間行事として各分隊単位で行われることが多く、5月の短艇(カッター)、6月の相撲訓練と何れも、生傷の絶えない訓練でありました。相撲訓練のある日、君は顔色が冴えず終り頃になって、「腹が痛い」と一言親らしたのです。早速診察を受けたところ、やはり盲腸炎と診断され呉海軍病院に移った、ところが手術は夜10時まで待たされ可成り痛みが走つたと思います。盲腸炎は意外に簡単に扱われ勝ちですが、破裂するまで強烈に痛むと聞いていました。君は我慢強く耐えるが、事と次第では限界を超えることもあるのです。率い元気に戻れたのですが、腹切りの第一号だったかとおもうのです。生徒時代の一駒を想い出しました。
斯くして、憧れた飛行学生として勇躍大空へ飛び立つこととなり、霞ヶ浦、神池(戦闘機)の基礎訓練を経て、岩国空をベースに零戦技術を修得したのであります。昭和19年9月には、シンガポール11空へ赴任、東南アジア一円の任に就いたのであります。
昭和20年1月の頃、恰もB29×19機がマレー半島沿いに南下の報を受け撃滅作戦に出撃、一区隊(71期白石大尉)と共に二区隊長として計5機をもって果敢に攻撃を加え、この間も冷静に対戦撃退しました。併し、敵弾を受けオイル漏れと頭上風防ガラスを貫通したが、幸にも致命的被害は免れました。基地到着直前に油切れのためエンジンは止まり滑空で帰還出来たのがやっとでした。着陸時に愛機は、横転損壊したということであります。多くの体験の中の一つであると思います。
零戦と共に生きた人生に、君は誇りを持っており、心の拠り所として何時もデスクの脇に、愛機の絵を飾って日頃の励みにしていたことを思い出します。
続いて、戦後のことになりますが、君は昭和21年6月に帰国復員、後に東大工学部計測学科に学び、卒業後は川崎製鉄鰍ノ勤務しましたが、昭和38年独自に計測器関係の仕事に専念することを決意し、神戸東京を経て特殊秤など計測器分野に基盤を築きました。君の精緻な技術は、現在言われるベンチャー企業の最たるもので次々と開発精神は旺盛でありました。
志す事業については、戦時中に築かれた人生の生き方と重ね合せ、又好きだからこそ情熱を燃やし切れたのだと思います。
20年程前になります、難しい時期を乗り越え、落ちついた頃だったかと思います。
我々海軍同期(兵・機関・経理)の集りである「なにわ会」の幹事を共に引き受けたことがあります。君の誘いによるものでありましたが、出来るうちにやって置こうという考え方でした。
偶々、その年に海軍兵学校名簿の話が浮上したのであります。もともと兵学校の同窓会名簿なるものはなく、伝統的に各クラス毎に工夫を凝らした名簿のみであったわけです。
大先輩の方々が残り少なくなり、この際「期外を含む全期を纏めよう」との話で喧々諤々の意見を闘わし、幾多打合せを重ねて約1年で膨大な名簿を完成させました。我々も夫々仕事を抱え編集、資金もない中で、クラス関係者の協力を得た一大事業であったと思います。
また、君は文章を書くことも好きでした。今までも多数読ませて頂いた、冷静に実体験を物語ることは、後世のために大切なことだと思います、君は遣るべきことは凡て終えていると思います。肉体までもとことん傷めつけ、全身全霊を尽して大空へ舞い上がったことは、君の本望だったかも知れません、残された御家族への想いは限りないことであやますが、天空から見守って上げて下きい。
永い間御苦労様でした。どうかゆっくりお休み下さい。さようなら
平成10年2月3日
海軍兵学校第72期 代表 若松 禄 郎
(なにわ会ニュース79号8頁 平成10年9月掲載)