10月11日
戦没者なし
戦後物故者
平田 隆一 2008年10月11日逝去
三好 文彦の「平田 隆一君 逝去」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-hirata-miyosi.html
平野律朗君から「東京クラス会、結局のところ都合悪く欠席いたします。」のメールを貰った。
深尾秀文君から振込用紙のコピー8枚、金額10,000円を頂いた。
今までの振込者は152名(会員79名、物故遺族31名、戦没遺族42名)です。
会員で「なにわ会だより」を引き続き購読ご希望の方で年会費未払いの方は、5号に同封した振込用紙で振り込んで下さい。
70期の森田禎介様から次のメールを頂いた。
『先日 貴クラス 水野英明氏の御親戚にあたる 当地名古屋で会社経営の水野 喜章氏と会談することができました。実に熱心な方で、あの戦争について詳細に調査勉強されており、感服いたしました。昭和19年秋、偵察第三飛行隊では、10月12日に71期八島準二氏、13日川端博和氏、14日金原 薫氏、15日水野英明氏が鹿屋発進 沖縄経由、台湾東方の索敵飛行で、いずれも離陸後連絡なく未帰還となられました。当時、制空権はもはや圧倒的に米側にあり、日本機の行動はすべてレーダーで把握されていたのではとも思います。また愛機 彗星にも エンジントラブル 機体故障か多かったのも事実です。
また当時 歴戦の経験豊富な搭乗員は もはや少なく、出撃前の適切なアドバイズも少なく 今日 まことに申し訳なく反省することしきりであります。』
70期訃報
毛利 寛太様(3学年7分隊)23年10月8日逝去
お通夜 11日1800から 告別式 12日1100から
場所 鎌倉 長寿寺 (毛利公洋様からのメール)
田島 明朗さんから次のメールを頂いた。
『この土曜日(15日)75期が江田島で最後のクラス会を行うと、地元幹事から軍艦旗掲揚時の「君が代」と、黙祷時の「海ゆかば」の音源借用の依頼があり、「江田島健児の歌」「兵学校の三勇士」等も追加したCDを進呈しました。若さと数を誇っていた75期も沖美町にある料亭で全員収まり、両校長を招待しても場所は充分だそうです。75期も平均年齢85歳ですね!!。』
10月12日
戦没者
67年前 昭和19年
山崎惣男(攻703 偵察)
台湾東方海面哨戒の為基地発進後、消息を絶つ(一式陸攻)
伊藤 保(高雄空 戦闘機)・山口勝己(戦401 戦闘機)
台南上空で敵機動部隊戦闘機を迎撃、これと交戦戦死(零戦)
弟 伊藤 守様の「兄の五十回忌を高雄で」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-itou-itou-otouto.html
木原 建(台南空 戦闘機)
敵機動部隊の戦爆連合大編隊を迎撃、これと交戦戦死(零戦)
10月10日までに納入された連絡報(なにわ会だより6号・7号)の年会費の納入者一覧表をメールでおくりました。「なにわ会だより」を引き続き購読ご希望の方会員で度忘れして、年会費未払いの方が相当居られるようです。
印刷部数決定の都合もあるので、購読ご希望の方は成るべく早く振り込んで下さい。
10月13日
戦没者
67年前 昭和19年
川端 博和(偵3 艦爆操)敵機動部隊索敵のため基地発進後台湾沖で消息を絶つ(彗星)
戦後物故者
広田 隆夫 1995年10月13日逝去
篠田 知武 1997年10月13日逝去
三澤 禎の「広田隆夫君への弔辞」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-hirota-misawa1.html
杉田 政一の「篠田古鶻君逝く」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sinoda-sugita1.html
第3回『海軍兵学校の会』の案内を貰った。概要次のとおりである。
1 日時 平成23年12月7日(水)
2 会場 水交会
3 会費 6000円
4 申込締め切り
11月15日までに振込取扱票にちょ利申込
5 スケジュール
1130 受付開始
1200 アコーテオン演奏
1300 懇親会
1500 終了
参考
昨年の参加者は68期の茂木明治先輩、70期の浅村 敦、高井太郎、三浦 節、宮崎富哉の4先輩、7T期の三神武雄先輩、72期の伊藤正敬、都竹卓郎の2名を始め、73期3名、74期9名、75期24名、76期20名、77期19名、78期12名、合計93名でした。
74期以前の参加者が少なかった。参加してみようと思われる方が居られたら私が取り次ぎますのでご一報ください。
10月14日
台湾沖航空戦(1944年10月12日〜10月16日)は、太平洋戦争(大東亜戦争)における戦闘のひとつ。レイテ島の戦いに先立って台湾から沖縄にかけての航空基地を攻撃したアメリカ海軍空母機動部隊を日本軍の基地航空部隊が迎撃した。アメリカ軍の損害は軽微であったが、日本軍は戦果を誤認したまま大本営発表を行い、続いて生起したレイテ沖海戦に重大な影響を与えた。これからクラスの戦没者が激増していく。
67年前 昭和19年
山根 光(302空 戦闘機) 厚木基地で試験飛行中5000米付近で失速、殉職(雷電)
浅野 勲(攻252 艦攻操)台湾東方海面の敵機動部隊に突入戦死
武原鐵平(攻252 偵察) 同上
山崎正男(攻405 偵察) 台湾東方海面の哨戒に向かい、消息を絶つ(銀河)
鈴木忠雄(攻 5 艦爆操) 敵機動部隊の攻撃に発進、沖縄南方にて戦死(彗星)
黒田二郎(戦316 戦闘機) 台湾東方海面で敵機と交戦戦死(零戦)
金原 薫(偵 4 艦爆操)台湾沖洋上の敵機動部隊の索敵のため、基地発進後、消息を絶つ(彗星)
詫摩 一郎 2006年10月14日逝去
野崎 貞雄の「詫摩一郎兄の葬儀」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-takuma-nozaki1.html
定塚 脩 2010年10月14日逝去
機55期訃報
守屋 一夫様 6月 9日逝去 西野宮 昇様 7月11日逝去
10月15日
戦没者
67年前 昭和19年
山下 宏(攻3 偵察) 台湾沖海面で敵機動部隊を攻撃中、戦死(彗星)
土井 渉(801空 偵察) 台湾東方洋上で哨戒中、敵機の攻撃を受け戦死(二式大艇)
田辺光男(戦302 戦闘機) 台湾東方洋上で敵機動部隊来襲時、敵機約50機と交戦戦死(零戦)
水野英明(偵3 偵察)沖縄方面洋上で敵機動部隊索敵攻撃のため基地発進後、消息を絶つ(彗星)
戦後物故者なし。
東京クラス会 安藤昌彦君、足立英夫君、高松道雄君、窪添龍輝君から出席、岡本俊章君奥山寿一君、宝納徳一君から欠席の電話やメールあり。和田
恭三 後日返事
10月16日
戦没者
67年前 昭和19年
小林 優(攻256 偵察)台湾沖航空戦に参加、敵機と交戦後消息を絶つ(天山)
堀池 省吾 2002年10月16日逝去
佐藤英一郎 2003年10月16日逝去
溝井 清の「佐藤英一郎君への弔辞」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-satoueiitirou-mizoi1.html
10月17日
戦没者
67年前 昭和19年
住田冨士男(戦316 戦闘機) 台湾方面で来襲の敵B−29を迎撃、これと交戦戦死(零戦)
戦後物故者なし
10月18日
67年前の昭和19年のこの日、栗田健男中将指揮の日本軍第一遊撃部隊(戦艦7隻《大和、武蔵、長門、金剛、榛名、山城、扶桑)、巡洋艦13隻《愛宕、高雄、摩耶、鳥海、妙高、羽黒、能代、鈴谷、熊野、利根、筑摩、矢矧、最上》駆逐艦19隻《早霜、秋霜、岸波、沖波、朝霜、長波、浜波、藤波、島風、浦風、磯風、雪風、浜風、清霜、野分、山雲、満潮、朝雲、時雨》はリンガを出撃ブルネイに向かった。
府瀬川清蔵 2004年10月18日逝去
伊藤 正敬の「府瀬川清蔵君の逝去を悼む」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-fusegawa-itou1.html
10月19日
昭和19年のこの日、小沢中将指揮の日本軍第三艦隊(空母4隻《瑞鶴、千代田、千歳、瑞鳳》・戦艦2隻《伊勢、日向》基幹、巡洋艦3隻《多摩、五十鈴、大淀》駆逐艦8隻《槇、杉、桐、桑、初月、若月、秋月、霜月》)が瀬戸内海を出撃した。
戦没者・戦後物故者共になし
HPを見られた方から台湾の方で昔お世話になった竹内隊長と連絡したいので連絡先を教えて欲しいと次のメール(要旨)があった。竹内 泉君に電話して了解を貰い知らせてあげた。
『私、台湾の国立政治大学台湾史研究所という大学院で、第二次世界大戦前後の台湾に
ついて研究しておりました、阿部賢介と申します。
現在は修士課程を修了して東京で民間企業に勤めております。
この度は伊藤様が管理人をされている「なにわ会」に所属されている竹内泉中尉につ
いて御伺い致したく、メールさせて頂きました。
御存知の通り、当時台湾では海軍特別志願兵制度が施行されており、多くの台湾青年
が日本軍人と共に行動をしておりました。私の同級生で、これら元日本軍台湾人のオーラルヒストリーの記録をとっている者がおり、彼からあるインタビューの際に元日本軍台湾人から、当時海軍第二十一震洋隊の隊長を勤められた竹内泉中尉とぜひ連絡を取りたいというリクエストがありました。
多くの元日本軍台湾人は、今でも当時御世話になった上官を慕っており、このような
リクエストは多々あります。
今回はなにわ会のような団体を偶然見つける事が出来たので、ぜひ元日本軍台湾人の
願いを叶えてあげたいと思っております。』
10月20日
この日、米軍レイテ上陸。
午前10時、アメリカ側は第10軍団の第24師団と第1騎兵師団がレイテ島東岸のタクロバンに、続いてその南方約27キロのドラッグに第24軍団の第7師団と第96師団が上陸を開始した。レイテ島南端のパナオン島地区にも第24師団の第21歩兵連隊戦闘団が上陸した。
日本の第16師団は約2万名の兵力を擁していたが、わずか1時間の戦闘で奥地のジャングルへ後退した。これはサイパン島の戦いのような「水際死守」で多くの兵士を緒戦で失った苦い戦訓から、後方のジャングルでの抵抗線形成が日本軍の作戦となっていたからである。第16師団の他の日本軍部隊は、内陸のブラウエン飛行場周辺やダガミなどに主防衛線を展開した。これによりタクロバンなどの海岸地帯の飛行場の多くはアメリカ軍占領下となった。アメリカ軍もほとんど水際での抵抗を受けなかったと記録されている。しかし、米国の第24師団に対してだけは激しい水際反撃があった。
日本軍歩兵第33連隊は第一波の上陸は無視して、第二波を引きつけた時点で猛烈な射撃を開始し、戦車揚陸艦4隻に砲弾を命中させ、うち1隻を炎上させた。これにより師団司令部が多くの死傷者を出した。第7師団なども、ジャングルに橋頭堡を拡大しようとすると抵抗を受けはじめた。
午後3時、南西太平洋方面連合軍司令官ダグラス・マッカーサー大将は第3次上陸部隊とともに膝まで水に浸かりながら、タクロバン海岸に上陸した。それはマッカーサーがコレヒドール島を脱出してから2年7ヵ月後のことであった。夕刻までにアメリカ軍は兵員6万名と10万トンの車両、物資をレイテ島に揚陸した。アメリカ軍の初日の損害は死傷250人であった。
11時、第一遊撃部隊はブルネイに入泊開始。直ちに給油する予定だったが、油槽船の到着が一日遅れたため、以後の行動予定に大きく影響した。
戦没者なし
戦後物故者
鏡 政二 2000年10月20日逝去
鏡 政二君本人の「フィリッピンの思いで」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-firippin-kagami1.html
高松 道雄の「鏡君を見送って」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-kagami-takamatu1.html
遠藤 喜久様(75期)の「鏡 政二先輩への弔辞」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-kagami-endou1.html
加藤 寿治 2008年10月20日逝去
中村 元一の「加藤寿治先生に会うの記」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-katouhisaji-nakamura.html
(続く)