平成22年5月8日 校正すみ
雅契 篠田古鶻君逝く
杉田 政一
ここに平成9年6月8日附の篠田君より私に宛てた手紙がある。
「拝啓、梅子黄熟の頃、貴兄 益々、御清栄の段奉賀申し上げます。
さて小生、不覚にも、さる2月下旬、悪性の口唇癌にて入院し、5月13日、約12時間の切癌及び移植手術を、一応無事終了し傷口の回復に努めて居ります。この件、バイパスニュースへ 「闘病の経過概要並びに所見」として投稿予定で、漢詩三首の内、未定稿「題切癌術後」に就いて、何かお気づきの点御所見戴ければ幸甚に存じます。以上お願い並びに近況まで。最後に、貴兄の御健康と御発展を遥かに祈りつつ擱筆致します。
平成9年6月8日
(次に遺稿とも言うべき七言絶句が添えられていた。)
抗癌闘病之詩
放射線光唇口爛 放射の光線に唇口爛れ
切除癌種髪膚空 切除の癌種に髪膚空し
遮莫面相爲怪異 遮莫面相怪異となるは
氷心持養玉壼中 氷心持養せん、玉壼の中
(大意)
コバルトの放射光線の為に、唇や口腔は焼け爛れ、切り取った癌患部の為に、そこの髪膚が無くなって了った。他からの移植に因り顔形は異形を呈するに至って了ったが、それはは天意に因るので仕方無い、儘よ! 放って置け、然し乍ら氷のように美しい清らかな心だけは、何時何時までも私の心の中に、保ち養い、盛り立てて行きますぞ。
入院所思
紅散緑肥情不疎 紅散緑肥、情疎ならず
三春癌腫病囚居 三春の癌腫 病囚 の居
人生有限名千古 人生限り有り名は千古
閑座林辺読史書 林辺に閑座して史書を読む
(大意)
赤い花は散り、新緑に成りかかる頃、思い綿々たるものがあり、それは、一月以来、悪性腫瘍の為病人として入院中だから、それでも、今私は、人生七十五歳となり限界が有るが、業績次第では、何時何時迄も名声は尽きないものを感じ、ベッド横に坐って、先哲の業績を追慕すべく、歴史書を読んで居る。』
この手紙を受取って、間もない頃、私も手術か否かの選択を迫られていた。長い間、悩まされていた腰椎並びに頸椎の老化、変形による神経の圧迫のため左足の疼痛が甚だしくなった為である。幸にしてこの方面の権威である名医の紹介を得て7月2日入院、8日手術、6時間半に及ぶ全身麻酔手術であったが、右足は恢復したものの、左手が挙らなくなり更に精密検査の結果、左頸部にクリープらしきものが発見されたので、7月28日再手術が行われ、クリープは完全に除去されたが、これが神経の上にあった為、神経を痛め、8月中、両手共挙らなくなり、介護無しでは生活出来ない破目となった。
然し乍らクリープを知らないまま、悪化すれば重大な結果を招いたかも知れず、私にとっては不幸中の幸いであったと思っている。9月から徐々に回復に向ったが左手は長期を要する見通しのため10月末日、4ケ月に及ぶ入院生活にピリオドをうった。但し私の場合、血圧(130/80)内臓等健全なのが救いである。
思わず私事で横道にそれて了ったが、このような事情で篠田君の要請に応えることが出来ないまま10月1日逝去の報を受けた時は大きなショックであった。私と比較にならない難手術を受け、術後の苦痛に堪え乍ら、風雅の道に精進した精神力は、とうてい私如きの及ぶところで無い。最後の光芒を放って逝った篠田君の冥福を祈りつつ、彼の果し得なかったバイパスニュースへの投稿を餞としたい。 合掌