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平成22年4月24日 校正すみ

兄の五十回忌を高雄で

伊藤 守

伊藤 保

(一) 亡き兄の供養

― 保オ兄チャン、ヤット来タヨ。ワカル、ボク、弟ノ守ダヨ。

― アレカラ五十年。ボクノ頭モコンナニ白クナッタヨ。長イコト、ゴブサタシテ、ゴメンナサイ。                                 ― オ母サン、元気ダヨ、八十九歳ノタンジョウ日ヲ、コノ秋迎エルヨ。オ兄チャンノ残リノ命ヲモラッテ、ワガ家ノ長寿記録ヲヌリカエティルヨ。

ー コノ秋、オ兄チャンノ五十回忌ノ法要ヲシマス。オ兄チャンニツラナル人々ヲ招ク予定デス。ダカラ、オ迎エニ来タノデス。 ボクト一緒ニ帰リマショウ。

と、心の中でつぶやきながら、長い合掌をつづけた。

 日の出前の高雄国際空港(戦中、海軍航空隊基地)正面玄関前の庭園で、妻と簡単な法要を営んだ。
  
 

(ニ)成長を止めた兄の映像

 庭園の蘇鉄(そてつ)の根元に、兄が飛行中眼下にしたであろう阿里山頂の石二つを置き、産湯にも使った家の井戸水と洒と線香をそなえてのささやかな法要であった。

 閉じている私の瞳には、五十年問成長を止めているりりしいけど、まだ童顔の残っている二十歳の兄のやさしそうな瞳の映像が鮮明に浮かびあがる。

 と、突然、目を見開き、唇をかみしめた苦しそうな兄の顔にかわる。

― 昭和十九年十月十二日、台南上空ノ空戦デ胸部ニ貫通銃創ヲ受ケ、普通ナラ即死ノ筈ガ、高雄基地ガ危険ナル情況デハアッタガ、ドウヤラ着陸シタノデアリマス。アマリ着陸ガ下手ナノデ皆ガ心配シティタラ、滑走シテ飛行機ガ止マルトソノママナノデ、皆ガ駈ケッケテ見ルト、貫通銃創デ、操縦捍かんニ頭ヲ垂レテ死ンデイタノデス。

 ソノ精神力卜言ウカ、奇蹟ニ皆ガ驚イタ次第デス。人間ニモ神秘的ナ力ガ出ルモノダト、今デモ驚イティマス。(戦友渡辺光充の手紙)

(三)献身的なガイドの協力

  案内してくださった現地ガイドも目礼して、

 「お兄さんの霊もきっと喜んでおられますよ。

 家に帰られたらお母さんに尋ねてごらんなさい。今日の晩(三月三日)、夢枕にお兄さんが立ったよ、とおっしゃるはずです」と、兄の供養をいっしょに喜んでくれた。

 現地ガイドは、モーニングコールが七時なのに、五時半起床で六時ホテル出発という強行軍の日程に嫌な顔せず「ふたりだけの日程」に協力してくださった。このガイドさんの協力なしには、空港から遠くはなれた高雄国賓大飯店にホテルをとっている二人には、この供養はできなかったと後からわかった。 

(四)香の煙にのって

 立ち昇る線香の煙は、ゆっくりと、次第に細くうすくなりながら天に昇っていく。

 ― オ兄チャン、香ニノッテ佐山ノ地ニ帰ッテオイデ。

 と、もう一度合掌してターミナルビルを後にした。

 その時、阿里山の二つの石のうち一つと、ワシントンヤシの根元にある丸い石二つをそっとポケットにしのばせた。

 ワシントンヤシの並木の道路を、車を走らせながら、台湾旅行の最大目的の供養をすませた私は肩の荷が下りたように、次々にあらわれる南国情緒あふれる風景の中にとっぶり身をしずめた。

(五)母の戦後はつづく

 秋の十月十二日の五十回忌の法要をすますと、わが家の長い、長い『戦後』は終わるのです。

 病床の母に台湾旅行の報告をしたとき、瞳をうるませて、「家の井戸の水を持っていくことを、よく気がついたのう−。ええことをしてくれた。ありがとう、ありがとう」

老いた母をみながら、母の『戦後』は亡くなるまで続くのだろう。この難儀をだれがいやしてくれるのか。

(なにわ会ニュース69号15頁 平成5年9月掲載)

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