平成22年5月8日 校正すみ
詫摩一郎兄の葬儀
野崎 貞雄
平成4年7月左腎臓摘出手術をし、10年余に及ぶ透析に耐え、懸命に生きてこられた詫摩一郎兄は、平成18年10月14日、その生涯を終えられた。享年84歳。
葬儀は、平成18年10月17・ 18日の両日に亘り、通夜、告別式を千代田相模原ホールで厳粛に執り行われました。軍艦旗に覆われた棺、妥協を許さない誠実一筋を貫いてこられた詫摩兄は、わが事終れりと、60余年前の紅顔の青年に戻ったように清々しく、安らかな寝顔でありました。
正山寺住職の読経、同僚による海軍機関学校校歌の斉唱、「海ゆかば」の調べが流れる中、多くの参列者に見送られて式場を後にし、相模原市営斎場で荼毘に付されました。
参列者:阿部 達 金枝健三 藏元正浩 佐丸幹男 斎藤義衛 野崎貞雄 三澤 禎 村山 隆 室井 正
弔 辞
オイ詫摩、 オーイ詫摩
貴様はもう俺の呼び掛けに答えてくれないのか。これが幽明境を異にすると言う現実なのか。それにしても余りにも急ではないか。何故そんなに急いで行くのか。俺は悲しい。これが53期すべての気持ちだ。
8月の末頃、貴様と電話で話し合ったな。そして気分の良い時に久し振りに一杯やろうと約束した。その時貴様の声には張りがあり、俺は心強く感じ嬉しかった。そして期待した。然るに豈図らんや、三澤から貴様の訃報を聞くとは。思い出は走馬灯の様に駆け巡る。
我々海軍機関学校第53期、昭和15年12月1日舞鶴に集合し、海軍生徒としての第一歩を踏み出した。
貴様は、入校時の身体検査で視力0.8をクリア出来ず、あわやアウトになりかけた時、検査に立ち会っていたお母さんが巧く応援し、滑り込みセーフでパスした。正に親子の絆が合格を引き寄せたものだ。3年間の鍛錬の後、昭和18年9月卒業、直ちに第一線に配属された。
貴様は、巡洋艦鬼怒乗組を命ぜられ直ちに着任した。鬼怒は昭和19年6月のマリアナ海戦、10月の比島沖海戦に参加、勇戦敢闘したが、同月26日被弾沈没した。この時の貴様の奮戦は目覚ましく、後々までの語り種となっている。
機関長付として兵員を叱咤激励、最後まで機関室を死守したが、浸水甚だしく、艦長の退艦命令により今はこれまでと、鬼怒と訣別したのだ。
神は貴様を見棄てなかった。僚艦が運良く拾ってくれ救助された。正にこれも強運そのものだった。
その後、暫時マニラで待機中の処、横須賀在泊中の戦艦長門乗組を命ぜられた。同年11月24日巡洋艦青葉に便乗、無事呉に帰投し、12月の始め長門に着任した。
その後、20年6月呉港外大浦に在った第2特攻戦隊司令部付となり、特攻艇の整備補修訓練を受けた。この時俺は、戦艦榛名よりここに転勤、僅か2ヵ月余であったが詫摩と寝食を共にし、大竹の潜水学校や大津島の回天基地へ行ったりして独学独習したのは懐かしい思い出だ。
昭和20年6月勝浦所在第18突撃隊整備主任として着任、首都防衛の第一線に着いたが、武運つたなく8月の終戦を迎えた。9月には部隊を解散し、貴様も復員したが、当時ご両親は朝鮮釜山に在り、敗戦の混乱で全く消息不明、何としてでも救出せねばならぬと決意した。当時は満州、朝鮮の同胞が命からがら雪崩を打って内地へ逃避して来る時、逆に危険を顧みず釜山へ押し渡り、無事ご両親を伴って帰国した。この勇気、実行力、ご両親への思いは唯々感服の他はない。
その後、数年復員輸送に従事、自衛隊発足後、航空自衛官となり、再び国防の第一線に復帰、昭和51年頃退隊した。
平成4年、突然腎臓癌が発見され、左腎臓摘出の大手術をしたが、持ち前の闘志でこれを克服、医者も驚く程奇跡的に快復した。
平成7年には夫婦同伴でナイアガラを始めカナダ各地を回遊し楽しんだ。然るにその後、腎臓が再び悪化、透析をする様になったが、ここでも不屈の闘志で闘病、平成11年のクラス会舞鶴旅行には夫婦共々参加され、楽しい思い出を作った。
晩年は病に苦しめられたが、貴様を支えたのは奥様、ご子息を始めご親戚であり、これからは、天国に在って、皆々様をお守り下さい。
我が53期も今や1/4に減った。寂しい限りだが、何れ我々も遠からず貴様の後を追うことになる。
永い間本当にご苦労さんでした。
ゆっくりお休み下さい。 ご冥福を祈る。
平成18年10月18日
海軍機関学校第53代表
野崎 貞雄
(なにわ会ニュース96号35頁 平成19年3月掲載)