フィリッピンの思いで(1)軍用犬の訓練
鏡 政二
昭和十九年八月、十二練空(茨城県神ノ池)を終えて二二一空に着任した。戦闘機隊として有名な東の虎部隊に対して西の嵐部隊と呼ばれ、猛者揃いの実戦部隊であった。
(新竹、台湾に進出)
着任後約3週間で新竹に進出し、訓練を兼ねて台湾海峡の警戒と船団直衛に当った。
(初陣)
十九年十月十六日に沖縄を空襲した米五十八機動部隊が、翌々十八日早朝に新竹を空襲した。零戦三十機でグラマン百機を迎撃したが、被害が多く帰隊したのは僅か十一機だった。他の二隊(三一二空)と共にフィリピンに進出することになった。
(特攻隊志願)
特攻隊に応募して本隊を離れ、笠ノ原に帰って急降下爆撃を訓練した。十一月中旬、八機を指揮し、沖縄新竹経由アンヘレス(比島)に進出し、翌日マバラカットで特攻隊本隊に合流した。
(特攻隊解散、本隊復帰)
レガスピーに進出、遂次先発する特攻隊を見送り、出撃の順番を待つ中、出番間近になって突然に現特攻隊が解散、新たに隊単位で他隊が特攻隊に指定された。本隊に帰った小生は、十一月下旬レガスピー基地に派遣され、敵の上陸に備えてラモン湾の偵察に当った。
(レガスピー基地の状況)
B24の毎日2波の定時爆撃があり、虎の子の戦闘機も被爆した。基地には時々不時着機が来る有様だった。基地警備隊と航空隊は敵の上陸に備え、壕を掘り食料の確保を急いだ。二十年一月下旬、米の大艦団がサンホセ沖を北上しており、リンガエン湾に上陸の公算が大きかった。
航空隊(整備隊)指揮官の話によれば、基地空襲の初期、比古田が敵機と交戦して戦死の由。又震洋隊の石井が数十名の隊員と共に一月レガスピーに滞在していた。
(本隊に合流の行動)
一月下旬命をうけ、本隊(クラーク)に合流のためレガスピーを出発した。陸軍輸送部隊に便乗、昼は空襲を避けて民家で休み、夜間トラックによる部隊移動をすること約一ヶ月、マニラ市に近いアンチポロに着いた。マニラ市街戦で負傷した兵士が、バラバラ引揚げて来るのに出会った。マニラの明け方の空は真赤に染まっていた。マニラ行を断念し、西村特高機関隊長の紹介で、東方シニロアンの陸軍小暮部隊に世話になった。
(海軍部隊に仮編入、インファンターヘ)
マニラを引揚げ、シニロアンを通過して、東方インファンターに向う海軍部隊に仮編入され、本隊に復帰の機会を待つこととした。
(インファンターで終戦)
海軍部隊は、5月末迄に平野で米の収穫を終えて山地に陣取った。終戦を迎え、インファンター平野で米比軍に投降したが、港に向う途上、隊列から抜かれて市の獄舎に抑留された。約2週間遅れて、マニラ郊外の収容所に入った。
以後、POW生活、裁判、服役、軍犬隊訓練(出所)、服役、特赦帰国となるが、今回は軍犬隊訓練について書くことにする。
(犬の訓練)
服役中の或る日、軍犬訓練の有経験者を日本人の中から募集していると聞いた。山本氏と、その通訳を兼ねて小生が出所して訓練することになった。山本氏は自信がないと躊躇したが、K氏(戦時中キリノ大統領と近い関係にあった)の強い説得で決心した。
(営倉)
2名の兵士が迎えに来て刑務所を出、比軍のベースキャンプ(マッキンレー)の営倉に着いた。四周を煉瓦で囲んだこの営倉の中に、四周と天井を金網で囲んだ一室があった。床は全部セメント張りであった。室の中に2台の折たたみ式のケンバス製ベッドがあった。
(犬)
訓練をする犬は、リサルド少将(マッキンレーキャンプ司令官)の2匹の愛犬であった。一匹は5才の豪州犬で、柴犬に似ており、名前はジニー(ニューギニア産)、今一匹は生後2〜3ケ月の4つ目のシェパードで、名前はピューリティーだった。
(食物、場所、時間、技)
兵食2人分が、犬2匹を含めて我等2人分の食物で、犬も空腹だったに違いない。場所は、臭いの残っている所は不適なので、制限しないとの許可を得た。時間は早朝一時問、夕方一時問とした。訓練項目は、待て、来い、止まれ、匍匐前進、ジャンプの五種類とした。
(経過とテスト)
ジニーは老骨ながらも何とか形だけはOKとなったが、無理に訓練しようとすると、歯をむき出して唸ることもあった。ピューリティーはまだ若くて技も固まらなかった。西郷さんよろしく犬を連れて歩くので、キャンプの官舎で噂になった。或る日司令官が、教えた技をやらせてみよとのこと、結果は意外な程うまくいった。結局は我々の腕試しだった。
(犬の死、刑務所へ出戻り)
約二ケ月後、ジニーが病死、その後一ケ月でピューリティーが病死した。今迄、訓練以外の時間は、司令官々舎の周囲の清掃、花壇の世話、畑作を進んでやっていたが、犬の死後間もなく刑務所へ戻った。
(思い出あれこれ)
営倉の一軒屋に、M中尉(家族と同居)が軟禁されていた。″同じ境遇にいるので、君達の気持は良くわかる″とのことで、よく世話をして呉れた。
教○師が時々訪ねて来た。果物や帳面など贈物をしてくれた。或る日彼は次のように言った。″私は服役者と雖も隔なく応対するが、これはキリストの心である。キリスト教を勉強して悔いてほしい。君達は服役者だから尚更のことである″と。この言葉を素直に受取れず、以後彼の面会の申出を断った。彼本人は誠実だと感心していた。彼が裁判の判決を正しいものと結論していることに怒りさえ感じた。
畑作で渡された種を全部播いたが、彼等にはこれが奇異に思われたらしい。種の半分は播かなくて私物とするのが習慣とのこと。日本人は誠実だと感心していた。
司令官一家は、日曜日には教会に行かれる。一夜風が強かったので、翌早朝に官舎に行き、教会から帰られる前に、庭の清掃と水打ちを終って帰りかけていた。教会から帰られた司令官は、態々我等を呼び返して、パンと鯛を渡された。
司令官々舎には兵2名と女中一人が付いていた。或る日、留守中にスコールがあり、洗濯物の取入れに女中の手伝をした。それ以来、彼女とはお互いによく話をするようになった。ミセスが在宅の時は、話は絶対に禁物だったが、これは彼女が再三、念を押したことだった。
(軍犬訓練のため出所)
約3ケ月後、国防長官ラモンマグサイサイ(次期大統領、飛行機事故死)から使者があり、再び軍犬訓練のために出所してマッキンレーキャンプに着いた。荒地を拓いて軍犬隊の建物が出来上っていた。事務所一棟、犬舎二棟(二十頭分)、炊事場、倉庫等で、大尉1名、下士官兵4名が勤務していた。
(軍犬隊創設の目的)
創設者の国防長官は、日本の比国占領時にはゲリラとして山中に立籠ったが、日本の軍犬に追跡されるのが悩みだった。比国には常時、山中に反政府の共産ゲリラ(ホック団)がおり、山麓の下士哨を夜襲したり、農民を煽動する等、反政府活動が盛んであった。長官は山中のゲリラを壊滅させる一手段として軍犬隊を創設したとのこと。
(軍 犬)
軍犬隊には五頭の犬がいた。ドーベルマン2頭(オーラフ、ヴァリアント)とシェパード3頭(デューク、プリンス、ジャンボー)である。オーラフはとても気が荒くて近づくことが出来なかったが、3〜4日間食物の世話をして何とか馴れさせた。
(食 物)
肉と野菜は商人が持込み、炊事は2〜3回我々が作った後、烹炊員にバトンクッチした。
(訓 練)
訓練は歩き方と追跡をやった。追跡では訓練の末期には数粁と距離を伸ばしたが、可成り上達した。
(長官の視察)
長官は事前に連格なく、突然に隊にやって来ることが屡々だった。次のようなこともあった。待ての号令で、伏せて待機をしている犬の風上の木陰から、数人を連れてアロハを見た長官が、我々の気付かぬ問に訓練を見ていた。犬が伏せのまま、頭を動かして臭を嗅ぐ不審な動作をしたので、長官の来所に気付いた。長官は犬の嗅覚の鋭さと、訓練に大きな関心を示された。
(日本犬を購入)
或る日、大尉が次のように我々の意見を求めた。軍犬を百五十頭購入の計画があるが、どの国の犬がよいか、と。独、豪、米、日などあるが、日本犬がよいと即答した。結局、日本犬百五十頭がやって来ることになった。
(軍犬隊の拡充)
隊員も次第に増えて約百名となり、調教師には中尉一名、獣医少佐一名、指揮官大尉一名、他に中尉一名が配属された。犬舎も充分に出来上り、日本犬百五十頭が来る頃には軍犬隊は完成していた。
(刑務所へ帰る)
軍犬隊としての訓練が、マッキンレーの練兵場で実施されるようになった。兵も決められた犬の世話をするようになった。7月4日の独立記念日には、リサール公園で軍隊のパレードが行なわれたが、軍犬隊も隊列に加わって行進して、観衆の大喝釆をうけた。程なくして我々は刑務所へ引揚げた。
(飼主の交代)
日本犬百五十頭の中2頭は、どうしても食べないまま、手の施しようもなく死んでしまった。飼主が代ったとの理由らしいが、忠犬ハチ公が思い出された。
(練 度)
よく訓練された犬は、号令しなくても、指揮者(飼主)の身振りだけで、活発に動く。百五十頭の練度は様々だったが、例えば、攻撃をよく訓練された犬には近付くのが怖かった。
(病死と原因)
可成りの犬が病死したが、原因は心臓糸状虫によるものだった。日本にいた時に始まったものか、渡比後急に病気に罹ったものかは調べなかったが。
(病気と投薬)
投薬が難しい。食物に入れるか、直接口中に入れてやるかどちらかだが、噛まれるので、毎日病室で予防注射を受けていた。
(ルバング島へ投降工作).
軍犬の一匹が、投降工作に参加することになり、小生も工作隊に参加した。当時の状況及び小野田氏の投降については大きく報道されたので省略するが、工作隊指揮官カディス中尉が最も知り度いと言っていたことは、投降しない理由は何か、であった。
(E大佐)
或る日、長官に付いてE大佐が来た。彼は我々のケースの裁判長であり、小生の裁判については知り尽くしている。軍犬隊について、何か言いたいことはないか、と尋ねたが、それにしても奇遇には驚かされた。
フィリピンの思い出・戦犯事件(56号)
前号では軍用犬の訓練について書いた。本号では断片的な選題になるが、標題について書くことにする。去る昭和23年2月19日に、比島軍事法廷でO(オー)ケース13名(小生も含まれる)が絞首刑の判決を受けた。
さて「戦犯裁判で、絞首刑の判決」と聞けば、「何をしたんだろう」と思うのが普通であろう。終戦後40余年にもなり、「今更、何を改まって」との気持もあるが、主題について色あせた記憶を呼び起こしてみよう。
1 起訴された事件の概要
起訴された事件には全く無関係であることを書くが、表現の冗長や重複を極力避けて、内容を簡明にするため先ず要点を列記することにする。
@ 終戦の年の5月末頃の或る日の午後、T(インファンタ‐)地区P(ピラワイ)村の村道で、偶然に原告の支那人に出会った。
A その時我々は同行の佐伯中尉と2名で、T地区から北方への道路偵察を終えて、山地にある本隊に帰る途中であった。原告人と別れた後、T(デルタ‐)地区を去って帰りの山道を急いだが、夜になり歩行も困難になったので、本隊の近くまで来たが、止むを得ず附近の廃屋に泊った。
B 当夜日本軍により住民の殺害事件が起きたが、危うくその難を逃がれた原告人が、小生がその事件現場で指揮をしていたというものである。
C 本事件は司令部の命令による第2大隊の作戦行動によるものであり、他部隊(巨勢隊)所属の小生には無関係のものである。
D 原告人の「アポイント」を破り、事件に無関係であることを立証する為には、小生の「アリバイ」が必要であるが、その立証人がいなかった。
2 I地区(インファンターデルタ地帯)の位置、地形
T地区は首都マニラの東方、北部ルソン島東岸の1角にあるアゴス河口の三角洲である。その北方は、南北に縦走する山脈(標高千米)が海に沿って断崖となっており、西部は山嶽地帯。南部には国道があってルソン島各部への幹道に連なっている。東部は海で、河口以北の海岸は砂浜、河口以南の海岸は「ジャングル」で、小水路が迷走する湿地帯となっている。「デルタ‐」地帯一体は平地で、田畑、椰子林、村落が散在している。
3 友軍の配備、任務
マニラ方面からT地区へ転進した約3,000名の友軍の配備、任務の概要は次の通りである。
@ 司令部、第1、第2、第3の各大隊
司令部は西部山地、第1大隊はT地区南部(山地を含む)、第2大隊はT地区、第3大隊は西部山地に各々陣取った。その任務は警備、山嶽陣地の構築、食料の収穫と確保等であった。
A 巨勢隊
小生の所属する巨勢隊は司令部の直轄部隊として西部山地に陣取ったが、その任務は部隊の転進に備えてT地区から北方ウミライ方面に進出する道路の偵察と警戒であった。北方に進出する道路としては、海岸に沿って北上するものと、アゴス河の支流カナン川の渓谷に沿って北上するものが考えられた。
4 戦 況
T地区で集結を終えた各部隊は、5月末までに同地区から引揚げて、西部山地に陣取った。その頃には東海岸及びT地区南部からの敵の攻撃が次第に激しくなり、戦況は急を告げていた。
5 事件前後の状況
@ 東海岸の北進道路の偵察
5月末の或る日、北進道路偵察のため、佐伯中尉と2名で山地の巨勢隊を出発し、T地区西部の山麓沿いに北進してT地区中部に出た。更に進んでT地区北部の椰木林附近(インファンタ‐町附近?)に来た時、突然、近距離に銃声が頻繁に聞こえ始めた。周囲には人影もなく、無気味な程静かであった。危険を感じたので偵察行を断念して本隊に引返した。
A 原告の支那人との出会
本隊に引返す途中でP村を通った時に、原告の支那人に偶然に出会った。人気も疎らな状況であり、又支那人であるので珍しくもあり、寧ろ親しみを感じて彼に声を掛けた。
彼は近くにあった彼の家まで我々を案内してくれた。
B 事件当夜の所在
原告人と別れた後、T地区を西に抜けて山麓沿いに南方に進み、本隊近くの山地の廃屋に泊ったことは前記の通りである。
C 本隊に帰投後、聞いた事件の噂
翌日本隊に帰ったが、此所で始めて「昨夜司令部の命令により、T地区で『ゲリラ』掃蕩戦が実施された」旨聞いた。P村は第2大隊の作戦行動の範囲に含まれており、司令部もその旨法廷で陳述した。
6 起訴
@
「アポイント」された状況
投降時山麓で武装解除された。「デルタ‐」地帯を通って東海岸の港に至る数粁の一本道の両側には、住民が延々長蛇の列を作っていた。我々投降部隊が一列になって港への道を進む中、住民の列中にいた一人の支那人(原告)が突然「これだ」と叫んで小生を指した。
直ぐ3人の兵に拳銃を突着けられて列外に出され、そのまま、仮抑留所へ連行された。
A 起訴内容
起訴状によれば「P村における住民殺害の命令、指揮、許容、参加」となっていた。
7 裁判について
@
「アポイント」の誤り
原告人が、或る日の午後未知の日本軍人(小生等2名)に出会い、その日の夜半に事件が起きたことは前記の通りである。又、事件のあった夜、我々はP村と程遠い山地の廃屋で仮泊し、平地で事件がある事など全く知らず、況や事件に参加したとする事など思いもかけないことであった。事件があった事は認めるとしても、小生に対する原告人の起訴は「事実誤認も甚だしい」ものである。更に云うならば、出会いと事件という二事象が時間的に近かったので、状況を勝手に推理して、小生を現場指揮者として仕立て上げた原告の虚言であり偽証であると断言して憚らない。
A
「アポイント」の重み
「アポイント」されれば、その立証を崩さない限り有罪とされる。小生を事件の参加者とする原告の立証を崩す為には、事実その事件に参加した者が証人となり、当事件の状況を説明して被告人(小生)がその事件に参加していないことを証言し、然も判事が原告の陳述と対比してその証人の証言を認めて始めて無罪とされる。
B
「アポイント」への対応策
裁判当時の状況では
(ア) 日本人による証言は信用されない。
(イ) 小生の「アリバイ」を証言するためには、証人が自分の首を賭けることになるが、差程までして他人の無罪を証言する人は先ず居ないであろう。又直接事件に参加した人もいなかった。(戦死又は既に内地復員)
(ウ) 泊った山地の廃屋は無人であり、原住民による証言は依頼出来ない。仮に原住民がいたとしても、日本人のために証言すれば村八分を覚悟せねばならない。又、それ程日本人に恩義を感ずる住民がいるとは思われない。
(エ) 証人の買収は、検事、弁護士双方の常用手段である。
C 軍事行動に対する検事の理解度
軍隊の組織や行動について、検事は強いて理解しようとはしなかったのではなかろうか。
部隊も任務も違った者が、他隊の作戦区域で、地形や情況も分からないまま、部隊を率いて.作戦行動をするなど考えられない事である。
検事は、軍隊の命令系統を考えず、行動の可能性を強いて物理的に取上げたと云うべきである。
8、雑 感
@ 政策裁判
彼等が証拠裁判としてその完璧を自負するにしては、裁判結果が余りにも事実と違っている。「ゲリラ」掃蕩作戟で住民に被害が出たことに対して、住民感情を鎮めて戦勝国の力を示威する為に、一応13名を選んで、その責任を分配して押付けた政策裁判の感さえある。
A 弁護士
Oケースの弁護士は比軍の現役大尉H氏であった。裁判が開始されるに先立って次の言葉を漏らした。
「犯罪者とは罪を犯した人の事ではなく、犯罪に最も近くにいた人のことである。(スペインの諺)」
この言葉は何を意味すると解釈すべきなのであろうか。
「針の穴から天を覗く」喩もあるが、この一言を通して、当時の軍事法廷の雰囲気を察することが出来るであろう。
生と死の谷間
今回は、収容所での出来事の中、標題と比較的に関係が深かったと思われる事について記憶を辿ってみたい。
1 (連行意図の不明)
投降して乗船場への途上、列外に出された。
仮収容所(T町役場の一室)への数粁の道は主として椰子林の中を通る小径だったが、途中、道を外れて林の奥へ迂回した。数名の警戒兵が「弾丸込め」の操作をして銃をガチャガチャさせる。このまま闇に葬り去られるかも知れない不安と覚悟が交錯した。彼等の意図が不明であり、結局はこの先、 裁判のような事の運びになるかも知れないと思ったのは、仮収容所へ入ってから暫く後になってからであった。
2 (米比軍将校の監視)
仮収容所は3畳程度の狭い一室で、窓からの投石など住民の悪戯から身の隠し場所もなかった。監視の将校はこれを見ぬ振をしており、彼はこれをせめてもの復讐とさえ思っているのではないのだろうかと疑った。
3 (戦争裁判の噂)
「カンルパン」収容所へ移ったのが、約1週間後だった。比島各地から投降する大部隊が収容されてきた。尋問が終って「クリアー」となった人が内地に送還されてゆく。「未決拘留」の人がそのまま収容所に残るが、この先、どうも本気で戦争裁判をやるらしいとの噂が所内で何処ともなく流れて暗い気分が漂った。
4 (偽名)
危険を感じてか、偽名を使っている人がいた。豊臣秀吉、織田信長等々。収容所では毎朝人員点呼がある。日本人通釈が点呼をするが米軍将校が立合っている。或る日のこと、点呼で「豊臣秀吉」と呼ばれた。偽名を使っている当の本人は忘れていて返答がない。隣の人に突つかれて思い出し、急いで返答する。笑声が起きる。何事もなく点呼が終る。危険を予知して対処した智者とも云うべきだろう。それにしてもその大胆さには感心した。
5 (夜半の銃声)
米軍関係の裁判が進んで数名の人達が刑房に入っている。有刺鉄線で囲まれた一区割に、2名のMPに付添はれて散歩をする山下将軍の姿も時々見られた。
「裁判は進めるが示威だけで、刑の執行はやらないらしい」との噂が流れたりもした。或る夜半、銃声が谷間に轟き、恰も遠雷が大地を震憾させるかのよう、身体にヅシンと応えたことがあった。これは銃殺刑の試射だったとのこと。「矢張りやるんだ」との声ならぬ声が収容所に流れた。
その頃の山下将軍の辞世の句
野山分け 集めし兵士 十五万
帰りてなれよ 国の柱に
6 (米軍裁判の刑執行)
米軍関係で約80名の刑が執行されたと聞いた。
@ (執行官) 概ね週末になると執行官がやって来る。同一人だが執行官の姿が見えると「今度は誰か」と異様な緊張感が漂い始める。
A (第六感) 刑房には日本人の烹炊員が配食している。執行官が来ている事など勿論誰も喋らない。普断と変らずに振舞っているが、刑房から「何か変った事があるんでは?」と訊かれるとのこと。又「執行の噂でもあれば隠さずに聞かせてほしい」との申出があったとか。正に第六感とでも云うべきであろう。そんな時には食事も残されていることが多かったとのことであった。
7 (無言の見送り)
県人会で知合ったS氏が刑房から連行されて刑場に向った。隣の区劃から有刺鉄線越しに見送っていた私等に、 「有難うございました。さようなら」と言い残して行った。只無言で見送る丈だったが、知人だけにどんな気持だったろうと繰返し思ってみた。
8 (裁判の公告「裁判の精神」)
米軍関係の裁判が終って比国軍事法廷が開かれた。「戟争裁判はキリスト教の精神で行なう」との宣言文が食堂に掲示された。キリスト教とはどんなものか勉強してみるのもよいと思った。それにしても、こんな掲示が出されることが何か奇異に感じられた。
9 (判決の申渡し)
1年有余に亘る裁判の後、Oケース13名が、全員絞首刑の判決を宣告された。13名が法廷で一列に並び、順番に判決が言渡された。自分の名が呼ばれ、次いで判決が言渡される迄の数秒間を思い出してみることにしよう。自分の本来の心の他に今一つ、身体の心(こんな言い方が適切か否かは別として)があるかのようだった。本来の心では、「例へ極刑であるとしても、判決なんかに負けるものか」との心境だったが、一方身体の心は判決申渡しの緊張感と怖れをそのまま受け止め、膝頭がガタガタ震えて止まらなかった。覚悟はしていたが矢張り死刑かと、諦めにも似た虚脱感が身を包んだ。
10 (豹変)
判決申渡しが終り、法廷を出た所で一比島人が我々に一列に並らべとのことで整列した。記者が「カメラ」を取り出した。写真を撮るらしいので顔を背けた所、「カメラ」の方に向けとのことで、突き飛ばされた。判決で死刑となると、人間様を離れて野獣の列に入った事になるらしい。それにしても取扱いの何という変わり方なんだろう。只唖然とする外はなかった。
11 (無期刑と死刑との距離)
免も角も「無期刑」であれば何とかなる。「死刑」にだけはなるまい。好き好んで自分が決めるわけではないが、誰言うとなくこんな言葉が流れていた。無期刑と死刑の精神的な距離は無限大だった。
12 (死刑執行)
比国裁判関係の死刑は長く執行されないままだった。噂が流れて、内地帰還も夢ではないような空気が所内に流れていた。或る日夕方、刑務所員が数名やって来て、突然呼出しが始まった。「今から釈放の手続をするから、呼出された人は独房の外に出るように」とのことである。
夕方近くになっての呼出しでもあるので、独房内は半信半疑の様子だった。
所員は独房の前で名札を見上げ、手に持っている書類と照合しながら名前を呼ぶ。独房の入口で直立している我々の眼前、金網1枚を隔ててのことだった。我々の独房からはM氏が出ていった。「執行かも知れない」そう思った。所員が次の独房に行った時のホッとした気持は何に例えようもなかった。
結局13名が呼出されて独房を出た。一度独房から出て、若しやと独房に引返し、身辺を急いで整頓してゆく人、一応所員の言葉を信じて忘れた印を取りに戻る人、疑いながらも淡い望を抱き、互に話合って出て行く人等。
13名は独房のある建物を出て、刑務所入口前の事務所の廊下に並んだ時、手錠をかけられ、明早朝までに次々と刑場の露と消えた。
幾つかの辞世の言葉
◎ 鳥の声 聞きつつ登る 絞首台
月も淋しく 我を照らせり S氏
◎ 事件に全く関係がないのに何故死なねばならぬのか。それが残念だ U氏
◎ ○○(親友の名前)よ、若し生きていたら、我が子(女の子)に、せめて人並に着物1枚も着せてやってくれ。
13 (執行を続ける噂)
刑務所には比国の囚人がいるが、有期囚は毎日刑務所外の作業場で労働している。彼等から「死刑が執行された後、引続いて日本人墓地で10数個の穴を掘っている」との情報が我々に伝えられてきた。穴の数と、ケースの人数新旧順を比べ、次は誰々がやられる可能性が大きいなど話合った。
その後、死刑は執行されなかったが、それは13名の執行の反響が大きく、遂に大統領を動かしたとの事であった。
14 (一友人からの慰問文)
寺の住職とある友人から慰問文が送られて来た。とても嬉しかったが、文の主旨は「人それぞれ今日に至る運命が決められていたんだろうから達観して欲しい」とのことだった。我々凡人には到底納得出来ないことだった。
15 (独房の或る人)
独房に入って本当に気の狂った人もいた。当初は「逃れる一つの手段としてのゼスチャアだろう」と思われていたが、毎日の素振りや動作からして、どうも本物らしいとの噂が出た。彼はその後暫くして居なくなったが、そのために、内地へ送還されたことだった。
16 (独房生活の映画化)
映画「私は海の底の貝になりたい」は独房内の毎日の生活を映画化したものである。フランキー堺が主演者で、製作には独房から無罪となって帰国した人が立合った。我々の毎日の生活の内容がよく表現されており、独房の人々の感情や心の動きが見事に映画化されていた。内地に生還後、この映画の試写会に招待され、観客から貰い泣きした。
17 (生還)
大統領の特赦により無期刑に減刑され、同時に国外追放となって、昭和28年8月14日「マニラ」を出港、同月22日に横浜に入港した。(同年12月30日に特赦釈放となり自由の身柄となった)約1週間の此の航海は平隠そのもので、炎天下の海原はべた凪だった。青空に浮ぶ僅かの白雲が海面に映り、水平線の霞む大海原には、イルカの大群が此所彼所に遊泳していた。
そこで1句 南の 戦場に馳せし 十歳の
昔に代る 今日の静けさ
18 (面会者)
横浜から巣鴨刑務所へ直行した。面会の来訪者が、長旅の苦労をねぎらい、無事の生還を祝されたが、「死刑の判決を受けた刑務所の毎日の生活はどうだったでしょう」と一様に尋ねられたものだった。大袈裟な言い方をすれば、「死生を超えて、所謂、悟の境地に入ることが出来たでしょう?」との言葉だったように思われる。さて、「死生観」こんな難問に「斯々然々」と答える事など思いもよらぬことであり、強いて言うならば、月並の言葉になるが「時勢の赴くまま政変の渦中に捲込まれたけれども、戦争犯罪人の汚名を晴らし、内地へ生還する為、せめて、出来る限りを尽くして天命?を待つ―とでもいう一種の諦めの心境だった」ということが出来よう。
雑 感
1 (刑死)
人は、一度は死なねばならない、只その時期と様相については未知であるので、死が永久に来ないかのような錯覚にさえ陥ることがある。けれども戦犯による刑死となれば、自然死とは決定的な違いがある。
@
刑執行の時期
判決後6ケ月間は再審の期間であり、最悪の場合でも6ケ月間は生命が保障されている。見方を変えれば生きる時期が制限されるので、普断は忘れ去られている生への願望や執着が最も強く意識される。
A (様相)
(ア) 死刑 人生これからの血気盛りの時期に、その生命が人為的に断たれる。
(イ) 戦犯の汚名 敗戦の下、国際法と人道に違反した犯罪者とされる。
(ウ) 受身の状態 国(敗戦国ではあるが)を離れた個人として取扱われる。
イ項とも一部重複するが、戦死ならば、国の為にとの名目が立つ。幾多の苦難があっても、その使命や責任を果そうとする戦斗行動の中に突然に訪れる死であってみれば「完全な能動の世界の中のこと」と言えよう。一方刑死となれば完全に受身の状態である。
2 (死の覚悟)
死を覚悟することも所詮、只観念の遊戯かも知れない。現実と観念とは全く別物である。大切なのは、どんな死に様をするかではなく、どんな生き様をするかではなかろうか― こんな事を考えたりもした。
(なにわ会ニュース55号6頁・56号7頁・57号15頁
昭和62年9月・63年3月・63年9月掲載)