平成22年5月5日 校正すみ
鏡 政二先輩への弔辞
遠藤 喜久(75期)
今は亡き鏡政二先輩に捧げることば。
去る10月20日早朝あなたは仏のもとに召されました。先輩の家に急いでお訪ねしますと座敷に横たわり78年の波瀾多き人生を振り返りながらかんじとして眠っておられました。空はどんよりと曇り天もあなたの死を悼み、次第に雨粒が大きくなり、あなたのスイートホームを包んでしまいました。
以前はあんなに元気だったのに体の不調を訴えられ治療に専念され、最後は魚津病院に入院、約3年間療養の末ここ1ケ月肺炎の症状をおこされ遂に不帰の人となられました。
奥様はじめ、皆様のご看病ご心配は大変だったと思いますが、あなたとの会話を楽しみに千里も遠しとせず歩いて看病に通っておられ、病院でも時々おみかけしましたが、元気を出して励ましておられました。聞くところではお近くの武隈先生の奥さんのご好意で最近は車に乗せてもらっておられたとか。
私も時々お顔を拝し、暫し語らわせてもらいましたが、最後にお会いしたのは5月27日だったと思います。
ご無沙汰していると思った矢さき突然の訃報に接し、とうとう来るものが来たかと感じました。病院では後輩の飯田博君がレントゲン技師として勤めておられるので、お見舞の都度様子を聞いたりしていました。あなたはどちらかといえばじっと話を聞いてうなずかれる様子でしたので、励ましの言葉をかけて帰ってきたものでした。
あなたと同期の高松先輩から昭和15年富山県から海軍兵学校72期生徒として入学されたのは6名だったと聞きました。まさに身体健全、学術優秀の東京大学入学にも匹敵するつわものでした。当時はまだ戦局も激しくなく、瀬戸内海の呉に近い江田島での3年間を過ごされました。江田島健児の歌にあるように
「古鷹山下水清く 松籟(まつかぜ)の音冴ゆるとき
明け離れ行く能美島の 影紫にかすむ時
進取尚武(しんしゅしょうぶ)の旗上げて
送り迎えん四つの年
短艇海に浮かべては
鉄腕櫂(かい)も撓(たわ)むかな
銃剣とりて下り立てば
軍容粛々声もなし
いざ蓋世(がいせい)の気を負いて
不抜の意気を鍛わばや」
とあるように、秀麗の国秋津島の光栄の国柱とならんと3年に亘る訓育指導を経て、倒れて巳まんの真心を鍛えられ、昭和18年9月卒業され、戦闘機乗りとしてご活躍になりました。
私も後輩の一人として江田島の土を踏むことができましたが、昭和20年広島の原爆投下を境に平和の時代に生かされています。
あなたは南方にあって終戦処理のあと帰国され、よそおいを新たにして海上自衛隊の幹部としてご活躍になられました。
私は母から「列車が結ぶ恋、真成寺町の高橋さんの娘さんが元海軍の将校さんにみそめられたと評判だが知っているか」と聞かれ、初めて先輩のお名前を耳にしました。たまたま75期の総会が江田島であり、海上自衛隊の官舎におられる佐和子奥様とお会いしました。
その後自衛隊を退職され民間企業に就職されましたが、郷里の富山へ帰ってこられ奥様の魚津に住むことになられました。
当時あなたが何か良い就職先がないかと相談にこられ、同期の皆様にもお願いしておられたようですが、小坂機業の海軍精神のかたまりのような小坂安彦さんを通じて長い間第一クリーニングでお世話になり、ご精進になったと聞いています。
たまたま魚津中学より海軍へ入った約50名の魚中海軍三校会をつくっていました。氷見中学卒の先輩のあなたにもお仲間にお誘いし、一年一回の総会や忘年会に参加していただき、華を添えていただいたのですが、ここ3年あまり拝顔の栄に接する機会もなく残念でした。
一時あなたが近所の中学生に英語など教えるのだと頑張っておられました。当時私は魚津東中学校に勤めていましたので、あなたの立派な2人のお子様がとても良く出来られると聞いていました。今やお二人とも立派に成長され、お孫さんもできられ結構なことです。
あなたの病気を聞いて故郷の氷見方面からかつての小、中学校の多くのお友達や海兵同期、零戦搭乗員の方々からのお見舞やはげましにもかかわらずその効なく、旅立つあなたにとって一番愛した奥様やご家族の皆様が今後十分にご供養されることを信じて、み仏に導かれて、秋晴れの今日、極楽浄土へ向かわれますよう、帽振れでお別れします。
平成12年10月24日
魚中海軍三校会
75期 遠藤 喜久
(なにわ会ニュース84号7頁 平成13年3月掲載)