平成22年5月13日 校正すみ
平田 隆一君 逝去
三好 文彦
平田 隆一 10月11日午後9時半「前立腺ガン」で入寂。10月12日 お通夜
10月13日 午後1時から古賀市斎場で告別式が行われた。
喪主 長男 平田 篤範 奥様 平田 綾子
告別式にはネービー関係の福岡ネービー会会長小川治夫(70期),坂井武之(73期)、大谷宏雄(74期),碑方昭雄(76期)の諸氏のほか多くの方が参加され、私も参列しました。そして、ご夫人綾子様は車椅子を曳いて涙の挨拶をされました。
平田君は、戦後九州大学(土木)を卒業し、鹿島建設株式会社に入社、宮崎県の秘境「椎葉村」のアーチダム発電所建設土木工事、鹿児島県一ノ瀬ダム発電所建設土木工事、新潟、福島県境の只見川発電所の建設土木工事、そして東京オリンピック開催とあって、モノレール建設工事などに携わり、その後、鹿島建設株式会社九州支店(福岡)勤務して定年で退職されました。
その後、福岡市から北へ車で約1時間の所、玄界灘に面した古賀市で悠々自適の生活を送っていました。
そして、在福岡のネービー会にもよく顔を出していました。土木現場のオヤジだけあって、多くを語らず、静かに杯を重ねていた姿が今も鮮やかに浮かんできます。 合掌
(編集部)
残念ながら写真が入手出来なかった。
平田君は昭和49年3月10日に逝去した村島保二君について思い出を投稿している。
その中に「村島とは四号、三号時代を同じ24分隊で暮した仲である。名にし負う赤煉瓦の生徒館である。夜な夜な、凄絶果敢なる猛修正を食らった仲である。」と書いている。卒業後、航空(偵察)に行き、天山艦上攻撃機の偵察員として活躍した。
また、平成6年7月27日に逝去した入江久憲君の時はクラス代表として弔辞を捧げていて、九州地区のクラスのまとめ役として活躍していた。
ご冥福を祈る。
(なにわ会ニュース100号120頁 平成21年3月掲載)