平成22年5月5日 校正すみ
鏡君を見送って
高松 道雄
私は現在町の長寿会長をしている。10月20日富山市長寿会連合会の高齢者スポーツ大会に出席の為、前夜からあれこれと準備を進めていたところ、8時半ごろ魚津市在住の75期の遠藤君から電話があった。
「遠藤です。知らせがあったと思いますが、私も友達から聞いたのですが、今朝鏡さんが亡くなられたそうです。」 とのこと。
坂田の時は彼の訃報を聞いて、頭をグーンと殴られた様なショックを受けたが、鏡の時は4年前に脳梗塞で入院していたので、来るものが来たなとの感じで割と平静に受け止めた。
市のスポーツ大会には代りが居らず、欠席するわけにはゆかないので、12時には家を出発しなければならず、クラスのところへ早く知らせようと気は焦るものの、お通夜の日時や葬義の日程がはっきりせず、鏡宅に電話を入れることとした。応対の奥さんも、私も今病院から帰宅したばかりで、私一人では決められないし、長男も外国に行っているので、息子待ちです。普通の日程より1日〜2日遅れる事になると思います。」とのこと。
それから少々経って、23日のお通夜、24日の葬儀との知らせがあった。(葬儀場は後刻変更になり、クラスに大変迷惑をかけることになるのだが・・・)
10月20日は朝から終日雨降りで、午後5時にスポーツ大会を終り痛宅した。冨山〜魚津間は車で往復2時間の行程であり、葬儀の日まで時間的にかなり余裕があることなので、鏡宅には翌21日に訪れることにし、鏡が『なにわ会ニュース』に投稿した記事を一晩かけて今一度全部読み返すことにした。こんな事もあろうかと、鏡にはフィリッピンの事など投稿する様繰り返し、勧めたのも弔辞に述べた通りだが、今となってみるとよく書いて呉れたと思っている。
彼の記事が昭和61年9月の55号から掲載された時に読んだ印象では、当地の地名やら戦闘部隊名に馴染みがなく、状況把握が困難だったことを憶えているが、二度,三度繰り返し読んでいる中、彼の冤罪になった状況や獄中の様子、精神状態なども次第に筋道を立てて判る様になって来た。それでも弔辞としての構想が浮かばず、復刻版会誌二号に初信と題した彼の投稿を読んだ時、鏡をクローズアップするのは「之」しかないと感じた。
多くの諸兄もそうだと思うが、我々の年齢になると一日の疲れが中々とれず、朝の早起きは難しいが、一応弔辞の目途がたったので、21日鏡宅に電話を入れ、午後2時に伺うことに約束した。能登で慰霊祭をした時、(昭和54年11月ニュース第42号、藤田(直)の記事参照)故森実君や伊122潜戦没者の為の祭文は書いたことがあるが、弔辞なるものは初めてなのと長くなりそうなので、山田 穣のところへ田中宏護への弔辞はどの様にしたのか教えて呉れと電話した。
(かねがね彼の文章は現場描写 (表現) に迫力があり、特に田中への弔辞はほれぼれする位の名文なので、充分賞賛しておいた)
鏡宅には丁度2時に到着。打合せを済ませ、その後葬儀の場所安成寺や火葬場(セレモ二センター)の道順を確かめ、(未知のところは道順を聞く相手の説明不足やら、こちらの判断ミス等で道を間違え、正確を期する為、何度も往復した)帰宅する頃は富山県の中央を走る呉羽丘陵に真赤な夕陽が落ちる様(さま)であった。
弔辞を仕上げるのに専念の為、23日のお通夜には出ない事にし、翌24日駐車場のこともあるので、葬儀開始の2時間前には安成寺に到着する様、家を出た。お寺の前には他の花輪と一緒に「なにわ」会の花輪もあったか、それらの中に 「モンテンルパの会」なる花輪があり、「へえー?I‥」と思った。
式は定刻通り始まり、弔辞は別掲の通りだが、終わりの挨拶の時に長男の喪主(道雄君)が「父は私にとってはとても優しい父で、逞(たくま)しく、亡くなった今では残った母を宜しく頼むと、言っている様に思います。・・・・」と挨拶した時、胸にぐぅっと来るものがあった。
柩は遺族の希望もあって、軍艦旗に覆われて寺を後にした。火葬場で遺体が茶毘に附されている時、お寺さんの一人から「弔辞には感動しました」との評を受けた。道雄君からも「父の事が良く解り感動しました」。有難うご座いました」とお礼。
弔辞の構想に時間をかけて艮かったと思った。その後、お骨を骨つぼに納まれ、鏡の家に立寄って直会場に向ったが、会場にはお寺さんが欠席で、海軍仲間(72期、74期、75期2人)4人が正座に坐らされた。
「之はえらい事になったぞと内心思っていたが、鏡の事や海軍のことなどの質問に応じていた。宴の終りの挨拶は俺だなと覚悟していたが、挨拶の最後に「之は全く蛇足ですが、鏡の息子さんの名前が私と全く同じで、鏡はおそらく私の事を意識して名前を附けたのではないかと思っています。」と述べたら親戚一同どっと爆笑だった。帰り際、長男の道雄君には、鏡になった積りで次の本音が出た。
「鏡が獄中にいた時、クラス会誌一号が喜びと懐旧の涙で読まれたと言っているが、その意味が君解かるか。喜びとは兵学校のクラス会誌が読めてクラス員やクラスの様子が判った事であり、懐旧の涙とは、フィリッピンのこんな処まで自分の事を忘れず、会誌を送って呉れたこと、就中その会誌の中で三〜四号を一緒にした泉五郎が、「‥‥‥鏡よ、早く帰って来い。鏡よ、早く帰って来いー。‥・‥」の文章に思わずワッ′・と泣きだしたに違いないことなんだ。だから、泉にだけは、君から直接よろしく言っておいて呉れと。
親爺と同期の海軍連中とは、なんと厳しいものよ。・・・ぐらいに思ったかも知れない。
鏡君への弔辞
高松 道雄
鏡君〃
21日、君の葬儀の打合わせの為、貴宅に伺い、君の最後の横顔に接した。好々爺のいい顔だと思った。弔辞の弔は、死者に話しかける意味だと聞いている。
今君とは幽明境を異にすることとなったので、兵学校なにわ会を代表して私が君に弔辞を捧げることに致します。
私達が海軍兵学校に入校したのは、今から丁度60年前、昭和15年12月だった。
富山県から6人、即ち魚津中学校から川端、神通中学から片岡、君は氷見中学から、富山中学から坂田と私、それに四年から機関学校に入った山崎だった。川端、片岡、山崎は今次太平洋戦争で戦死、坂田は昭和62年に亡くなり、以後君と私2人が残ることとなった。
戦後生き残った潜水艦長の葬儀に列席し、兵学校同期の艦長の友情を垣間見てきたが、その事柄を通して私は次のように自分に言い聞かせて来た。若し、二人のうち、私が先に天国に召されれば、君が私の弔辞を、君が先に往くことになれば、私が君の弔辞を読むことになる。今から丁度4年前、君が脳梗塞で入院したという事を洩れ聞いた時、勿論早速見舞いに訪れたのだが、その後快方に向っていると聞いていたので安心していたところ、今月20日、75期の遠藤君から君の訃報を聞いた。
君は元来とても無口で、要点をぽつりぽつりとしか言わない男だったが、それがまた君が好きな私の理由の一つでもあったが、兵学校クラス会誌への投稿も少なく、フィリソピンの事など記事にする様何度も君に勧めた。その影響もあってか、昭和61年9月のクラス会誌第55号から4回に亘ってフィリッピンの事が記事に載るようになった。
兵学校卒業後、私は潜水艦を希望し、君は飛行機の方へ進むことになり、而も終戦直前のフィリッビンの記事は、どちらかと言えば地名や、戦闘部隊名が次々と出て来て、状況把握に相当手古ずっていた。その為、君の訃報を聞いた夜、君の記事を今一度全都読み直すことにした。それでも弔辞としての構想が浮かばず、半ば諦めかけていたが、クラス仲間が終戦直後ガリ版刷りで出した会誌の復刻版を作ってくれているのを思い出し、念の為それに当ってみた。その中に初便りと題する君の投稿を見た時、「之だ」と思った。
今日此処にお集りの方々に、君の喜び溢れる、生き生きした文を披露して、在りし日の君を偲ぶと共に、私の務めを果すこととさせて頂きたい。
初 信
鏡 政二
異国に8年間の獄窓生活が終った。将来に漠然とした希望と一抹の不安を抱いて帰国したのが去る7月21日だが、もう今日は11月20日、「光陰矢の如し」の警句が今更乍ら耳に痛い。
『クラス』で最後の帰還者であり、唯一人の戦犯者として悪名を響かせたのは、我乍ら誠に苦笑の沙汰であるが、この一人の助命に心を悩まし、全智を絞り全力を尽して下された諸先輩、諸戦友に、紙上乍ら茲に心からのお礼と長い間の疎遠のお詫びを先ず以て申上げたい。
顕著な効果があったと明言し得ないかも知れない。特に誰が尽力して下されたかを知る方法もない。然しそれが敗戦後の逆境の裡で社会的地位も実力もない諸戦友の隠れた努力であったことを思うと、有り難く、また、敬服措く能はざる所である。
去る10月、渋谷氏経営の銀座の「梅林」で東京近郊の諸氏相集う際、後れて馳せ参じた今浦島が、久振りの里帰りを懐かしんで一言申した次第だが、今回この紙上で、少たりとは言へ日本全国に散っている諸兄に、心からの挨拶を述べる機会を与へられたことを喜び、拙文を省みず此の筆を執っている。
これと言ったテーマもない。通り一遍の語り草では面白くもない。第一俺の腑に落ちない。然し、此の文が定められた人の目に限られたわけでもないので、社会的な影響も一応は考へている心算だ。単に憂き辛きことが戦争諸事象の大半だとあえて断定するならば、比の所謂裏面を強いて書きたいが、せめてもの悪趣味なのであるが・・・・
明日とも知れない生命の危惧に悩殺されたあの獄生活で、昭和27年12月1日発行の会誌が送られたのが戦後クラスについて些かなりとも知る最初の機会であった。異国人の中で日本語を話し聞くことの出来ない不憫さと寂しさは言い表し難いことだが、異国に抑留されて交際を絶たれていた余輩に、此の会誌が喜びと懐旧の涙で読まれた。小さい人生の一頁に大書すべき事柄であった。
事志に反して、人生のコースに嗟跌が来た。敗戦の形で来るとは意外であったが、不意な支障の到来は予期すべきところ、特に軍人生活には覚悟の上のことであってみれば、今日、此れで我が事終りたりと退却するは卑怯である。人生此れからと、あえて断言したい。
逝きし335柱の英霊に黙祷を捧げる。危うく一命を留めた余輩は将来如何に生くべきかを考へ込まないでは居られない。火の弾丸となって大空に散華した戦友が彷彿する。海深く艦艇と運命を共にした戦友よ。千尋の底に永遠に消息を絶ちし諸兄よ。草むす屍となりし歴戦の勇士よ。そも、何を思い、何を言わんとして逝きしぞ。只、冥福を祈るのみ。
戦の惨烈は諸兄の等しく体験せる所。世情は諸兄の長ずる所 人生の夢物語は機会を得た所の茶話に譲るとして、此度はルパング島投降工作記でも要約してみよう。
此度の狂乱に呑まれ、今尚運命の嵐に喘ぐ抑留者、戦犯に就いては、心ある者の良く知る所である。然し異国の山奥深く生き延びる残存者に就いては知る人も稀であろう。
始めにミンダナオ島の残存者に就いて風の便りに聞いた所を先ず書いてみよう。
ミンダナオ島と言えば、ダパオを想起すると思う。海外に進出した幾多の同胞がいた所であり、特にアバカで有名である。此のミンダナオ島には今日なお敗戦の運命に抗して残存者が山奥深く立籠っていると言われる。日比混血児を擁した彼らは、住民の生命を武力で保証し、住民は彼らの生活を土地の産物で支えているとか。戦国時代の落武者のグループにも似ている。ミンドロ島にも幾多の将兵がいると聞いている。
さて、ルパン島に移ろう。
(A)ルバン烏はミンドロ本島の北西数十浬の地点にある一小島である。長さ約10里、幅約五里の小島が東西に長く横たわっている。
最高6百米の山系がこの小島を縦断し、その南側に2百米の高地が谷を挟んで中央の山地と併行に走っている。平野には国道があるが、山中では雑木林を縫った小径が曲折している。山頂では人跡未踏の密林が暗黒の一世界を形作っている。
(B)幾人の日本人が残っているのだろうか。住民の語る所では数名だとか。或る人の連絡によるのだが、此の人達の姓名も家族も明らかである。
(C)何を望んでいるのだろうか
敗戦の連絡もなく、或いはあってもこれを信じられず、投降には生命の犠牲が思惑せられるままに山中を彷徨(ほうこう)しているに過ぎない。ミンダナオ島の場合と違って住民を擁することもなく、住民の警戒の目を避けて糧を求め、原始生活を営んでいる。 アナタハン島の物語は有名だが、特に女王蜂もない。では、彼等を結んでいるものは何なのだろうか。生命を保たんとする願が最も大きいものであろう。
時に温い家族を夢み、懐郷の心情切にして、不眠の幾夜を過ごすこともあるだろう。
(D)衣食住は,山中到る所にバナナ,干藷がある。特に,椰子林が山頂に迄見られる。断崖絶壁の南岸には、所々に猫の額程の地が拓かれ、椰子林が海水に洗われている。 南岸には人通りもない。土民は小舟を利用して通ふと言う。それも椰子の収穫時に限られている。漁船も沖には現われない。断崖の岩間には天然の塩が出来ている所もある。
約二米もの潮の満干かあるが、退潮時には約百米沖合迄平盤岩が現われる。珊瑚礁のような此の岩盤には到る所凹所かあり、満干狩には好適である。山頂から此の海岸に到る道は、渓流に沿ふ小径である。乾期には小さい流は干き、急傾斜の直線コース 山頂と海岸の二点を結ぶ。流れには鰻蝦か多い。何処に住んでいるのだらうか。山頂の密林の中であろう。では何を着ているのだろうか。話が変るが、畠で働き帰りの3名の住民が昼時に流れの畔で休憩中、対岸数十米の林の陰から発砲され、1名は其場で射殺されたが外の2名は逃げたことがあった。
此の死者から掠奪されていたものは、衣類とマッチであったと言う。住民にしてみれば、檻篠のために生命を取られることになる。土民の陳述が此度の比政府に依る投降工作の近因であるとのことであった。
蚊がいない、山蛭もいない。雑木林に日が当って、落葉が布団の昼寝を、せめてもの楽しみとしているのだろう。
(E) 印象深い比人を思ひ出した。5名。
夫が射殺された当の未亡人に会った。中年の婦人だったた。奇異な表情もなく、無言で、寧ろ此方が意外だった。然し本当の無口である筈はないと思う。
今1人は船着場附近に小店を出しているオバアサンで支那系である。 御馳走はして呉れる、マージャンをやれと言う。 可愛い年頃の娘にサービスをさせる。商売に国境なしと言い度い所だが、此方は無銭だった。
戦後始めての日本人だと言って村民を呼集めた。黒山の様に集って来た。必ず投降工作に成功する″と無理を言うと、サービスを良くする。素朴な村民の 社交”を意味するのかも知れない。帰途舶着場で見えなくなる迄手を振って呉れたのか此のオバアサンだった。
森夫人がいた。夫が日本人の比人である。指揮官と一緒に訪問した。椰子酒を御馳走になった。先づ3人の子供の写真を見せた。10歳頃になる末の娘に言う。オ父チャンが来た″と。泣かされた。森氏は戦時中行方不明だが、訊ねると東京に居ると言っていた。
カソリック信徒のオバアサン。一緒に外山に出た一人の比兵にはキスをした。国の為に御苦労様と言う所だろう。一人の兵が俺に言った。『オバアサンは「君は日本人だから用事がない」と言っている。』と。此の婆さんは、胸に大きな十字架をかけていた。
今一人は漁夫で40歳位。戦争中日本人に好待遇されたとのことだった。魚を獲りに海へ行かうと言う。直ぐ水中眼鏡と魚差を持って来た。指揮官の許可が出なかったので惜しくも止めねはならなかったのだが。
帰る時一人の比人が俺に言った。日本人には用事がある。兵は帰っても君一人は此所に残れ”と。40歳頃の男であった。
一般に無関心なのだが、個人的な利害を戦時中に日本人から受けたものは、そのまま報いてくる。学生の一人は日比協力を説いたが戦時中の事にはタッチしなかった。
(F) 残存兵の意気に感心している指揮官は、彼等の救出と生命の保証に工夫を凝らした。山中の真剣な努力は忘れない。
ソ連抑留者も帰還する折柄、旧戦場の各地に潜伏する此等同胞に、国家的な救出方法も講せられてよい時機ではないだろうか。
眞の勇気は危険を恐れない所に生れるのではなくて、正義を敢行する所に生れる。”
難条また難条、峠の茶屋も春浅L”
思い出した二句を以て此の初信”を終る。
鏡君〃
平成十二年十月廿四日
海軍兵学校第七十二期クラス会代表
高松 道雄
(なにわ会ニュース84号6頁 平成13年3月掲載)