平成21年 7月 9日作成
平成23年11月22日修正
海軍兵学校の歴史
この記録は 海軍兵学校沿革(有終会編) から作成した。
次の記事が最後の方にあります。
60期以降のクラス別卒業生数と戦没者数 |
天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下のご来臨 |
60期以降の恩賜品拝受者 | 海軍兵学校に在学された皇族 |
海上自衛隊第1術科学校(4階建てに改装) 旧第1生徒館 |
海上自衛隊幹部候補生学校 旧第2生徒館 |
築地に有る海軍操練所あとの記念碑
明治 2年 9月18日 | 海軍操練所を東京築地に創設 |
3年11月 5日 | 海軍操練所を海軍兵学校寮と改称 |
明治 9年 8月31日 | 海軍兵学校寮を海軍兵学校と改称 |
16年 6月 | 東京で最初の赤煉瓦造りといわれる生徒館が新築落成 |
19年 1月 | 伊地知弘一中佐(当時の兵学校次長)が建言書「兵学校ヲ僻地ニ移転スルノ理由」を起草 |
19年 6月 1日 | 江田島を海軍兵学校校地とするため視察団来島 |
19年10月 1日 | 海軍兵学校移転のため本浦(現在地)に着工 |
20年 7月 | 海軍機関学校が廃止されて在校生徒95名が海軍兵学校に編入 |
21年 4月 | 物理講堂、水雷講堂、運用講堂、重砲台、官舎、文庫館(現水交館)柔道場など落成、 |
21年 8月 1日 | 海軍兵学校、東京築地から移転 |
21年 6月13日 | 学習船(東京丸)内で開校 |
24年 6月 8日 | 生徒館(赤レンガ:Jダイアック設計)の新築着工 |
26年 3月 | 生徒館(現幹部候補生学校校舎)、事務所、兵舎、物品格納所等が落成 |
26年 6月15日 | 学習船(東京丸)から新設生徒館へ移転。生徒館は赤煉瓦造り2階建洋館で,階上中央を監事部とし,その両側を生徒寝室にあて西洋式寝台が備えられた。階上の一番東側に講堂,続いて生徒展覧所があり,階下中央に生徒応接所,診察所,使丁室,信号兵詰所,その東側に生徒温習所,西側に講堂が設けられた。生徒館と並んでその裏側に建てられた別棟に食堂,喫煙所,洗面所,浴室,発電所などが設置された。 |
27年 8月 1日 | 日清戦争 宣戦布告 |
28年 4月17日 | 日清戦争終結!(講和条約締結) |
29年 | 対露戦に備えての軍備大拡張 六六艦隊建造計画 |
29年 1月17日 | 在校生徒数を300名とし、これに伴う建築物の拡張計画を提出 |
29年10月16日 | 生徒食堂(増築)、温習所(新築)(後に北生徒館と呼ぶ)が落成。この温習所は木造2階建で,後に生徒寝室にも使用し北生徒館と呼んでいたが,明治42年6月第2生徒館と改称された。 |
34年 | 横須賀に海軍機関学校開校 |
35年 6月 8日 | 古鷹山麓に兵学校射的場(古鷹山新設射撃場)が完成 |
37年 2月 8日 | 日露戦争 開戦 |
37年12月23日 | 理化学講堂(現幹部候補生学校教官室)落成 |
38年 | 兵学校校長大講堂の必要性具申。 |
38年 6月 2日 | 安芸灘地震(震度6)のため生徒館屋上破壊 |
38年 9月 5日 | 日露戦争終戦 |
38年11月 | 新築された温習所(北生徒館と呼称。) |
42年 6月 | 北生徒館を第2生徒館と改称 |
44年 | 鎮遠、八重山、赤城等数艦を払い下げ財源とすることで、大蔵省が大講堂新築を承認、45年度より5ヶ年度継続費として予算に計上され、同年の帝国議会を通過 |
大正 6年 3月31日 | 大講堂竣工(銘版に記載) |
6年 5月27日 | 大講堂開堂式。大講堂において、47期生徒卒業式に続いて創立50周年記念式を挙行 |
大講堂 | 大講堂内部 |
9年 3月 | 創立50周年記念校歌が募集されて,50期生徒神代猛男作詞の「江田島健児の歌」が入選 |
9年 7月 | 第43議会で八八艦隊計画の実施が承認 八八艦隊の実現に備えて,海軍兵学校生徒採用数も大正6年(48期)180名,同7年(49期)195名と急増し,大正8年(50期)からは300人クラスが3年続いた。このため,大正10年8月から11年6月までの10か月問は在校生徒総数870名に近いという創立いらいの状態になった。その受入れ態勢を整えるため第2生徒館,食堂等の増築,第2普通学講堂,浴室,洗面所,賄所,便所等の改築を行った。 |
9年 8月26日 | 七つ釦の短上衣(ジャケット)から士官と同じ内側のフックで止める服装となる。 |
9年 7月 | 海軍兵学校において選修学生を教育する制度発足。 |
9年 9月 | 大正物理学講堂および記念館(機関室に改造)移転工事竣工、特別官舎を新設 |
10年 2月 | 丙号官舎10棟新築 |
10年 2月 | 生徒クラブとして「浩養館」が、従来の木造からバロック式の鉄筋コンクリートに新築された。 |
10年 4月 1日 | 高松宮宣仁親王殿下が52期生徒として入校 |
11年 8月26日 | 伏見宮博信王殿下が53期生徒として入校 |
12年 4月 7日 | 山階宮萩麿王殿下が54期生徒として入校 |
12年 9月 1日 | 関東大震災で海軍機関学校(横須賀)が大部分焼失、江田島へ移転 |
14年 3月 1日 | 海軍機関学校が江田島から舞鶴へ移転 |
昭和 3年11月23日 | 八方園神社の創建 |
5年 | 昭和5年卒業の58期から修業年限を8か月延長して,4月第4学年に進級,11月卒業ということになった。 |
7年 | 昭和7年入校の63期からは在校年限が4か年に延長されて,4月入校,3月卒業となった。 |
7年 4月24日 | 昭和勅諭下賜50周年記念式祝賀会および観兵式が挙行された後,校長松下元少将は訓示を行って「生徒は自習室に東郷元帥謹書の聖訓を掲げて五省を始める」よう指示。 |
6年 9月18日? | 満州事変が発生 |
7年 1月18日 | 第1次上海事変が発生 |
7年 | 海軍機関学校の舞鶴移設によって,同校が使用していた第2生徒館が空室となった。時の海軍兵学校長谷口尚真中将は第2生徒館の階下を利用し、従来蒐集した記念品および訓育資料をここ(第2生徒館の階下)に陳列して,教育参考館(これを、旧教育参考館という)を創設した。昭和9年1月,海軍省教育局第一課長佐藤市郎大佐の名で以上のような「海軍兵学校教育参考館建設甚金に関する件提案」が海軍兵学校卒業各期代表に配布せられ,大方の賛意が得られた結果,卒業者および一般有志から醸金をえて,教育参考館を新設することとなり,翌昭和10年2月起工。 |
9年 4月 | 全在校生がジャケットになる。 |
10年 9月 7日 | 新生徒館建設地鎮祭執行。採用生徒の増員にともない、69期が入校した昭和13年4月には、在校生徒数は1000名を突破した。さらに、在校年限の短縮により同じ昭和13年の12月には70期455名が入校したため、在校生徒数は1300名を超えるに至り、昭和14年12月には1700名、15年12月には2000名を突破した。このために、赤煉瓦の生徒館の西側海岸寄りにあった木造の教官室,選修学生関係施設,剣道場,砲台等を他に移した。 ①教官室:大講堂の南側に粗末な木造 ②選修学生関係施設(兵舎):軍艦『平戸』へ移転(?) ③剣道場:(多分、柔道場に並列した形で剣道場を移転したと思われる) (後に、西柔剣道場と呼ばれる) ④砲台:練兵場の南西端(砲術講堂:現在も存在している) |
10年10月12日 | 教育参考館上棟式執行。 |
11年 2月26日 | 二二六事件発生 |
11年 3月18日 | 一四三〇 教育参考館竣工式挙行。 |
11年 3月19日 | 第六十三期生徒(一二四名)の卒業式挙行。教育参考館開館式挙行。 |
11年 4月 1日 | 第六十七期生徒入校式 |
11年 6月22日 | 集会所評議員、理事会議開催、「第二講堂を集会所に改装、之を官に寄付するの件」に就き議する |
11年10月27日 | 御召艦「愛宕」で昭和天皇、江田島へ行幸 |
12年 3月23日 | 第六十四期生徒(一六〇名)の卒業式挙行。 |
12年 4月 1日 | 第六十八期生徒入校式 |
12年 4月 | 新生徒館完成。 |
12年 5月 9日 | 生徒寝室を新生徒館に移転。(第一、第二生徒館の寝室は、空室となる) |
12年 5月15日 | 庁舎各室を第二生徒館に移転。(大講堂の南側に粗末な木造庁舎から) |
12年 5月17日 | 軍艦『平戸』の宿舎設備を全部撤去す。 |
12年 5月24日 | 本日より当分の間、学生を通学せしむ(どこから?) |
12年 6月18日 | 学生の通学取止む。 |
13年 3月16日 | 第六十五期生徒(一八七名)卒業式 |
13年 4月 1日 | 第六十九期生徒入校式。 |
13年 4月 8日 | 学生の宿舎を軍艦『平戸』より新講堂階下に移転。(新講堂は、どこに?) |
13年 7月 9日 | 新生徒館菊花御紋章除幕 |
13年 7月 9日 | 新生徒館(現学生館)落成。在校生徒数の増加に対して次に採られたのは新生徒館の建設である。赤煉瓦の生徒館の西側海岸寄りにあった木造の教官室,選修学生関係施設,剣道場,砲台等を他に移して大きな生徒館を建てることになり,昭和10年9月7日起工,同12年4月完成した。中庭を囲んで四角に造られた鉄筋コンクリート3階建ての渚楚な建物で,その白色に耀く直線美は,赤煉瓦の旧生徒館と並んで好対照をなしている。 |
13年 7月22日 | 生徒自習室寝室全部新生徒館に移転。 |
14年 1月 7日 | 剣道場増築竣工式 |
15年 3月10日 | 建物の呼称を次の通り改訂す。俗称(新)生徒館を第一生徒館、赤煉瓦生徒館を第二生徒館、 一部庁舎に使用中のもの(木造の旧第二生徒館)を第三生徒館。 |
15年12月 1日 | 第七十二期生徒入校式 |
16年 1月24日 | 新庁舎地鎮祭施行 |
16年 3月25日 | 第六十九期生徒卒業式 |
16年 4月 8日 | 校長新見政一中将退任 |
16年 4月12日 | 新校長草加仁一中将着任 |
16年10月14日 | 民家立退きに付き江田島村長と協議 |
16年11月15日 | 第七十期生徒卒業式 |
16年11月16日 | 生徒隊分隊編成替、六個部五十四個分隊とす |
16年11月22日 | 新庁舎完成。第二生徒館より移転、 |
16年12月 1日 | 第七十三期生徒(903名)入校式 |
16年12月 1日 | 昭和16年8月以降、日米間国交調整が次第に望み薄となるに先立ち、呉海軍建築部から前年12月および翌年正月の2回にわたり、五種目の多面的な工事施工を下命された。工事のうち、建築では「海軍兵学校江田島校舎の第三生徒館新築工事から始まり、順次第四生徒館新築、砲術講堂、次いで海軍第二兵学校大原校舎新築、阿月倉庫建築工事へと拡大された。ここに砲台を移動し、砲術講堂とした。 |
16年12月 8日 | 真珠湾攻撃 開戦(支那事変から真珠湾までの江田島) |
17年 3月25日 | 普通学講堂(木造)増築竣工 |
17年 5月14日 | 昭和十七年五月十四日 大原校舎地鎮祭 |
17年 5月16日 | 第七十二期生徒『田村誠治』短艇予選競技中公務死、23日海軍葬実施。 |
17年 7月 1日 | 第四生徒館及び鷲部山田下士官住宅新営工事着工 |
17年 7月27日 | 養活館上棟式 |
17年 7月3 1日 | 第三生徒館改築竣工 |
17年 7月 1日 | 特務艦『浅間』を係留。廃艦『平戸』と入れ換える |
17年 7月 1日 | 廃艦『平戸』、呉へ回航 |
17年 8月20日 | 化学講堂改築及び兵学講堂(海岸)増築各工事着工 |
17年 9月 1日 | 兵学講堂(普通学講堂の西)新築着工 |
17年11月 14日 | 第七十一期生徒卒業式 |
17年11月 18日 | 第七十二期生徒『田村 寛』本校に於いて死亡 |
17年12月 1日 | 第七十四期生徒(1028名)入校式 |
18年 4月29日 | 新築『養活館』使用開始 |
18年 6月 5日 | 山本五十六元帥国葬 |
18年 6月28日 | 元第七十四期生徒『故・大島信男』告別式(呉、尊徳寺) |
18年 8月13日 | 元第七十四期第二学年生徒『故・滝沢和夫』の海軍葬執行(8月10日1435公務死) |
18年 9月15日 | 第七十二期生徒(625名)卒業式 |
18年11月 1日 | 岩国校舎にて分校事務開始。 戦時下の江田島 |
18年11月19日 | 岩国分校開校式。江田島本校9部90分隊,岩国分校2部24分隊となり,3学年の73期160名,2学年の74期230名が岩国分校に移った。 |
18年12月 1日 | 75期3,480名の入校式が千代田艦橋前で行われた。校庭で行われた入校式の最初である。式後約300名が岩国分校に配属された。 |
19年 1月 3日 | (新)柔剣道場(東)竣工開場式 |
19年 1月 3日 | 昭和19年3月22日,73期898名の卒業式が高松宮殿下御臨席の下に挙行。 |
19年 8月 5日 | 新校長大河内伝七中将着任 |
19年 9月30日 | 海軍機関学校が海軍兵学校舞鶴分校となった |
19年10月 1日 | 大原分校および舞鶴分校開校。「木造の第3生徒館」が取り壊された。 |
19年10月 1日 | 江田島本校9部90分隊,岩国分校2部24分隊,大原分校4部40分隊となり,74期280名,75期600名が大原分校に移った。 |
19年10月 1日 | 76期と77期の採用試験は昭和19年7月,同時に行われた。採用予定者と決定した7,300余名の中から,昭和3年4月までに生れた3,570名が76期,残りの3,771名が77期に振り当てられた。 |
19年10月 9日 | 76期3,570名のうち機関専攻生徒542名は直接舞鶴分校に入校,残りの3,028名は江田島本校の千代田艦橋の前で入校式を行った後,本校,大原分校,岩国分校に分属した。 |
19年10月22日 | 大河内伝七校長退任 |
19年11月15日 | 新校長小松輝久中将着任 |
19年11月 7日 | 東及び南 柔剣道場焼失 |
20年 1月15日 | 校長小松輝久中将退任、新校長栗田健男中将着任 |
20年 3月 1日 | 針尾分校開校式 |
20年 3月30日 | 74期(1024名)卒業式(修業期間2年4か月)御名代久邇宮御臨席の下に江田島本校干代田艦橋前の校庭において挙行。 |
20年 4月 3日 | 78期(予科)生徒(4048名)入校式(針尾分校) |
20年 4月10日 | 77期生徒(3771名)入校式、江田島本校と舞鶴分校で実施。 |
20年 4月 上旬 | 江田島本校では空襲に備えて木造の北生徒館を解体し,重要施設を地下防空壕に移すための穴掘り作業が6時問交替制によって開始された。大原分校でも防災上,8棟の生徒館のうち1棟おきに4棟をとり壊し,本校と同様防空壕掘りが開始された。 |
20年 6月26日 | 岩国分校を山口県大島郡久賀町に移転 |
20年 7月 8日 | 針尾分校は、各部ごとに山口県防府市の海軍通信学校校舎へ移転,現在の航空自衛隊防府南基地となっている。 |
20年 8月15日 | 終戦 詔勅発令 |
20年 8月18日 | 海軍兵学校生帰省 校長訓示 |
20年 8月15日 | 先遣隊として米軍憲兵10名兵学校に進駐 |
20年10月10日 | 米軍病院部隊進駐 |
20年10月27日 | 米軍41師団進駐 |
20年12月 1日 | 兵学校閉校 |
20年12月15日 | 米軍41師団撤収、24師団進駐 |
20年12月15日 | 米軍病院部隊撤収 |
21年 3月14日 | 米軍24師団撤収 |
21年 5月 | 英連邦軍総司令部進駐、校内全域に駐留軍に必要な建築物や工作物を設ける |
24年 2月 1日 | 英連邦軍総司令部と米軍教育司令部と交代 |
31年 1月 1日 | 米軍教育司令部閉鎖 |
31年 1月10日 | 海軍兵学校が連合軍より返還 |
31年 1月16日 | 海上自衛隊術科学校が神奈川県横須賀から移転 |
32年 5月10日 | 海上自衛隊幹部候補生学校が発足 |
33年 4月 1日 | 海上自衛隊江田島病院が発足、海上自衛隊術科学校を海上自衛隊第1術科学校と改称 |
45年 3月 2日 | 少年術科学校が発足 |
57年 9月 | 少年術科学校が廃止され海上自衛隊第1術科学校と併合 |
平成 5年 1月31日 | 幹部候補生学校庁舎(旧第二生徒館)の外壁、屋根、窓改修工事が完成 |
5年 2月23日 | レクレーションセンター建築工事着工 |
6年 3月31日 | レクレーションセンターが完成 |
8年 3月26日 | 大講堂改修工事着工 |
9年 9月30日 | 幹部候補生学生館完成 |
10年 3月15日 | 大講堂改修工事完成 |
16年 6月 | 幹部候補生学校庁舎(旧第二生徒館)大改修完成 |
教育参考館 | 参考館内部に有る東郷元帥の遺髪 |
海から見た第1生徒館 | 海から見たカッター |
理化学講堂科 | 庁舎 |
参考
60期以降のクラス別卒業生数と戦没者数
期 | 入校年月日 | 卒業年月日 | 卒業数 | 戦没者 | 戦没率 | 1月当り戦没率 | 海 機コレス | 海 経コレス |
60期 | 昭 04.04.01 | 昭 07.11.19 | 127 | 53 | 41.7 | 0.9 | 41期 | 21期 |
61期 | 昭 05.04.01 | 昭 08.11.18 | 116 | 60 | 51.7 | 1.2 | 42期 | 22期 |
62期 | 昭 06.04.01 | 昭 09.11.17 | 125 | 66 | 52.8 | 1.2 | 43期 | 23期 |
63期 | 昭 07.04.01 | 昭 11.03.19 | 124 | 70 | 56.4 | 1.3 | 44期 | 24期 |
64期 | 昭 08.04.01 | 昭 12.03.23 | 160 | 81 | 50.6 | 1.2 | 45期 | 25期 |
65期 | 昭 09.04.01 | 昭 13.03.16 | 187 | 106 | 56.7 | 1.3 | 46期 | 26期 |
66期 | 昭 10.04.01 | 昭 13.09.27 | 220 | 119 | 54.1 | 1.2 | 47期 | 27期 |
67期 | 昭 11.04.01 | 昭 14.07.25 | 248 | 155 | 62.5 | 1.4 | 48期 | 28期 |
68期 | 昭 12.04.01 | 昭 15.08.07 | 288 | 191 | 66.3 | 1.5 | 49期 | 29期 |
69期 | 昭 13.04.01 | 昭 16.03.25 | 343 | 222 | 64.7 | 1.5 | 50期 | 30期 |
70期 | 昭 13.12.01 | 昭 16.11.15 | 433 | 287 | 66.3 | 1.5 | 51期 | 31期 |
71期 | 昭 14.12.01 | 昭 17.11.14 | 581 | 329 | 56.6 | 1.8 | 52期 | 32期 |
72期 | 昭 15.12.01 | 昭 18.09.15 | 625 | 337 | 53.9 | 2.3 | 53期 | 33期 |
73期 | 昭 16.12.01 | 昭 19.03.22 | 898 | 283 | 31.5 | 1.9 | 54期 | 34期 |
74期 | 昭 17.12.01 | 昭 20.03.30 | 1024 | 16 | 1.6 | 0.3 | 55期 | 35期 |
75期 | 昭 18.12.01 | 昭 20.10.01 | 3277 | 0 | 0 | 0 | 56期 | 36期 |
76期 | 昭 19.10.09 | 昭 20.10.01 | 3028 | 0 | 0 | 0 | 57期 | 37期 |
77期 | 昭 20.04.10 | 昭 20.10.01 | 3115 | 0 | 0 | 0 | 58期 | 38期 |
78期 | 昭 20.04.03 | 昭 20.10.01 | 4048 | 0 | 0 | 0 | ― | 39期 |
戦没率最大のクラスは68期と70期で66.3%、次いで69期の64,7%となっている。
1月あたりの戦没率を見ると72期の2.3%が最大で、73期の1.9%、71期の1.8%が続いている。
参考
60期以降の恩賜品拝受者
60期 | 黒木亥吉郎 | 板谷隆一 | 小山田正一 | 国定謙男 | ー | ー |
61期 | 和田俊二 | 藤岡清孝 | 伊藤光冶 | 植松盛太郎 | ー | ー |
62期 | 田中武克 | 貞閑勝己 | 古賀祐光 | 平塚清一 | ー | ー |
63期 | 魚野泰弘 | 中村信一 | 藤沢洋一 | 細谷 宏 | ー | ー |
64期 | 川島立男 | 丹羽金一 | 吉本謙一 | 山口 浩 | ー | ー |
65期 | 卜部章二 | 渡辺俊夫 | 鯉淵不二夫 | 新田善三郎 | ー | ー |
66期 | 坂井知行 | 久保田芳光 | 栃木幹正 | 和田孝雄 | 岩下 豊 | 木村 寛 |
67期 | 中村悌次 | 桜井忠成 | 本多義郎 | 高木久男 | 大野俊也 | 田原陸郎 |
68期 | 山岸計夫 | 国嶋清矩 | 井上龍昇 | 若菜朝男 | 尾崎伸也 | 茂木明治 |
69期 | 山田 進 | 斉藤一好 | 小林 清 | 栗原克郎 | 辰野吉久 | 貞閑敏明 |
70期 | 平柳育郎 | 新藤尚男 | 江本義男 | 塩坂 博 | 三浦 節 | 山下卵兵衛 |
71期 | 田結 保 | 野村 実 | 加藤正一 | 二階堂春水 | 山本達雄 | ー |
曽山威人 | 土井 寛 | 安達 裕 | 常広栄一 | 奥西平治 | ー | |
72期 | 和泉正昭 | 樋口 直 | 澤本倫生 | 佐藤 静 | 伊中四郎 | ー |
真崎三郎 | 伊藤孝一 | 前田政夫 | 坂元正一 | 権代博美 | ー | |
73期 | 鮫島豪太郎 | 草間四郎 | 伊藤正一 | 平林直樹 | 田実春夫 | ー |
松田文太 | 井土 守 | 加茂良夫 | 亀井俊彦 | 月岡法義 | ー | |
74期 | 三浦正一 | 堀江保雄 | 阿部一考 | 伊丹邦夫 | 富永敏男 | ー |
吉田誠一 | 川村 厳 | 福田 浩 | 青池 明 | 田村 章 | ー | |
(舞鶴分校) | 木村英夫 | 藤井敏夫 | 小島秀夫 | ー | ー |
備考 66期岩下 豊は結婚して石丸 豊と改正
赤字は戦没者、青字は戦没かどうか不明
73期以前の拝受者84名中39名(約46%)が戦没している。
特に首席卒業者は14名中8名(57%)が戦没している。
天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下のご来臨
明治天皇 | ー | 明治23年 4月22日 | 呉鎮守府開庁式にご臨席のあと、 この日0815呉の御宿所を出発、0900呉発、1020兵学校桟橋着、1330卒業式に臨場。23日午前9時特別艦高千穂は江田島湾を出港 |
大正天皇 | (皇太子殿下として) | 明治27年11月22日 | |
大正天皇 | (皇太子殿下として) | 明治32年10月28日 | 駆逐艦東雲にて |
皇后陛下 | (大正天皇皇后) | 大正11年 3月24日 | 26日まで江田島ご滞在 |
昭和天皇 | (皇太子殿下として) | 大正 3年 3月22日 | |
昭和天皇 | (摂政宮として) | 大正14年 7月14日 | |
昭和天皇 | 昭和 5年10月23日 | 軍艦羽黒にて江田島湾に入港 | |
昭和天皇 | 昭和11年10月17日 | 海軍特別演習視察のため軍艦愛宕に乗艦江田島湾に入港、教育参考館御巡視の後生徒の諸作業を御覧になられ、午後5時江田島湾を出港。 |
海軍兵学校に在学された皇族
山階宮菊磨王殿下 | 明治22年 9月 | 御退学(ドイツ御留学につき) |
伏見宮博恭王殿下 | 明治22年 9月 | 御退学(ドイツ御留学につき) |
有栖川宮栽仁王殿下 | 明治41年 4月 | 薨去せられる。 |
北白川宮輝久王殿下 | 明治42年11月 | 御卒業 |
伏見宮博義王殿下 | 大正 6年11月 | 御卒業 |
山階宮武彦王殿下 | 大正 7年11月 | 御卒業 |
華頂宮博忠王殿下 | 大正10年 7月 | 御卒業 |
久邇宮朝融王殿下 | 大正10年 7月 | 御卒業 |
高松宮宣仁親王殿下 | 大正13年 7月 | 御卒業 |
伏見宮博信王殿下 | 大正14年 7月 | 御卒業 |
山階宮萩磨王殿下 | 大正15年 3月 | 御卒業 |
伏見宮博英王殿下 | 昭和 9年11月 | 御卒業 |
朝香宮正邦王殿下 | 昭和 9年11月 | 御卒業 |
久邇宮徳彦王殿下 | 昭和17年11月 | 御卒業 |
加陽宮治憲王殿下 | 昭和20年 8月 | 御卒業 |
久邇宮邦昭王殿下 | 昭和20年 8月 | 御卒業 |